ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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ラード

Author:ラード
千葉県在住
バイクはXR250「Baja」
クルマはE46「325i Touring」
メインアームは「SIG552 SEALS」


林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
バックパッキングの世界を愛する。
風流なオッサンとなるべく
奥義を研究する日々(w

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山について思ったこと 赤石山脈とワタシ

2010/08/29(日) 23:48:34

P1040777.jpg

夏山紀行をスタートする前に、まずは、ワタシと南アルプスの山々との「係わり」を記しておこう。
まあその。個人的な備忘録、美しい「おもひで」ってヤツです。昔のネタを蔵出しするのは「ロック・デイズ」のシリーズでお終いにしたハズだったんだが、ココを押さえとかないと、今回のバックパッキング・テーマ「荒川三山リベンジ」ってのがご理解いただけないだろうからネ。ワタシの登山キャリア最初期となるヘンなファッションの写真たちをペタペタ貼りつけて押し売り的サービスをしますんで、笑いながら読んでくださいませ。

ほら、ワシ、山なんかタマにしか出かけないからサ、もったいつけないと始まらんワケじゃよ(w

さて。ワタシが登山を始めた高校生時代から7年間というもの、夏といえば毎年、南アルプスの登山だったワケです。最初は高校山岳部だ。メイン・イベントである「夏合宿」は、1年次が北岳、2年次が赤石岳。そして3年生の夏はソロで鳳凰三山を歩いたし、翌年の浪人時代には、これもソロで黒戸尾根から甲斐駒と仙丈ケ岳に登ったものだ。

だから、ワタシが北アルプスにデビューしたのは、大学山岳部に入ってからのコトになる。ずいぶん遅咲きだったことよ。わが高校の山岳部が「南ア」にしか行かなかった理由は、まあ、想像がつきます。北ア山域よりは近いこと、北アよりはヒトが少ないこと、そして北アよりは危なくなくて手ごろ、そんなムードだろう。
ところが、後で述べますが、夏合宿では毎回、計画どおりに進まずに予定を短縮しちまうっつー低レベルな集団だったワケ。そんなレベルに飽き足らず、だからワタシは独自に「沢登り」を始めていったんですけどね。

そのころ、北アルプスの山々ってのは敷居が高いというイメージが、ワシらにはあったようだ。南アと比べて困難に思えた。大学山岳部で北ア「ばっかり」登るようになると、やはりいろんな面で北アの山々には「華」がある。比べると南アってのは、いかにも地味だった。まあ、アルピニズム的なコトを追求していた時分の若気の至りな考えですが、これは仕方ないコトでしょう。

それでも何でも、えらく低レベルな山行(「さんこう」と読むんだよ。最近、変換しないからか「山行き」とか書いてるアホ多すぎw)だったとは言え、ワタシの15歳の夏に、3,000㍍峰などという未体験の非日常な世界の扉を開けてくれた高校山岳部ってのは、やはり非常にありがたい存在と言えました。

そんな時代を含めた赤石山脈とワタシの7つの山旅を、ご紹介してみよう。





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元「山ヤ」の体験談CM:9

ラード的山がたり ロック・デイズ(その6)

2010/03/14(日) 23:10:02

【谷川岳の14日間とその後】
「第3次夏合宿」は、谷川岳の一ノ倉沢幽ノ沢での岩登りだった。8月18日に入山して、下山は31日。まったくこの夏は「山漬け」でしたネ。ところが、先に言っておくと、この合宿は穂高のときと一転、雨にたたられ続けてほとんど登れなかった。なんたって行動できたのがわずか5日間で、攀れたルートは4本のみ。いやまあ、谷川岳で雨に降られるのは珍しくもないワケですが、それにしてもヒドすぎ。そんなフラストレーションが溜まった日々の記録だ。

8月18日、入山。土合駅から湯檜曾川沿いの新道経由で、いつものBCへ。

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8月20日、さっそく雨で小屋内に停滞させられた翌日、一ノ倉の「烏帽子沢奥壁・変形チムニー・ルート」へ。エボシ奥壁エリアとは、この画像で衝立岩正面壁の左側のスカイライン「中央稜」と左端の「南稜」に挟まれた壁で、フリーが主体の長い好ルートが目白押し。中でも「変形チムニー」は一ノ倉の中級ルートの定番だった。

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参加メンバーは穂高の合宿と基本的に同じ。ザイル・オーダーも同じでトップがワタシ、セカンドが「S」、ラストが「O」だ。天気は曇り。取り付きから快調に数ピッチの登行を続け、変形チムニーに迫る。そしてワタシは前日の雨で濡れたこのチムニーで、5㍍くらいの墜落をやらかしてしまった。

今でも忘れられないのが、チムニー内の濡れたフットホールド(上のレポの「チムニー」画像で、右側の岩)で右足がツルッと滑り、両手指が支えられずにホールドからブチッと外れたシーン。声も出なかった。落下時の記憶はない。べつに失神したワケでもない。目をつぶっていた0,5秒ってなムードか。カラダが空中にブラ下がっている状態で気づいた。ラッキー。どこかにぶつかったら無傷では済まないからね。最後にビナをクリップしたハーケンは抜けずに、ソコから2,5㍍くらい攀ったあたりで落ちたコトになる。
下にいる、姿は見えないビレイヤーの「S」に向かって「だいじょーぶ!」と叫んだ。「ケガは、なーい?」と聞かれたからチェックすると、打ち身などは無さそうだが、何てこった。片足(右だったかな)の登攀用ジョギングシューズが無くなっている。「おーい。クツ、飛んでったかぁ?」「なんか落ちてったー」。おおっと(w 「ちょっと一服させて!」と言い、ぶるぶる震える手でセブンスターを吸ったっけ。

この滑落の原因は明快だ。濡れた岩で足を滑らしたという基本的なケアレス・ミス。ザイルのトップは絶対にソレをしてはならない。もちろん気をつけていたのに、こうなった。自信がガラガラと崩れた体験だったが、調子づいたワタシに自戒を促す守護霊さまの思し召し、だったのかも知れん(w
それから確保点までロワーダウンしたのだったか、ザックに入れていたアプローチ用のジョギシューに履き替えたワタシ。「いや、止めてくれてホントにありがとう」と「S」に伝えたら、「ちゃんとしたハーネスに替えといてヨカッタねえ」などと笑われた。まあその。確かに。

ひき続きワタシがトップで再アタック。チムニーを抜け、もろいルンゼを飛ばし、旧ピナクルで少し迷ったが着実に登行を続けた。烏帽子岩を左から巻き、いやらしいルンゼを左上して終了。強風が渦巻きクマザサが鳴る。今にも降りだしそうなガスの中、6ルンゼを懸垂下降した。(開始)8:10(終了)13:10

8月21、22、23日と連続して停滞。台風が通過していったのだ。テントだったらヒドい目に遭うワケですがね、BCは小屋だから心配などない。若手のOB3名が訪ねてくれ、コンパに沸いた。

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8月24日、久しぶりの晴天。本日はコップ状岩壁へ。「コップ」は衝立岩の右上に位置する。リンク先の美しいスチール写真集のうち、コレとかコレが造形を理解しやすいでしょう。予定が大幅に狂ったワシらはアセリ気味に、衝立前沢から略奪点経由で衝立沢を詰め、コップの広場へ。直前まで「正面壁・雲表ルート」を攀って国境稜線へ抜けようと考えていたのだが、台風の置き土産、上部カールからの流水が滝のように壁を濡らしているのにアゼンとさせられた(リンク先ブログのスライド・ショウで、19枚目以降ですね)。そこで、確保支点の少ない上部のカールを登攀するのはヤバそうに思えたので、正面の2本のハング部分だけを攀るコトにした。

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まずは「雲表ルート」だ。コレはわが国で初めて、ハーケンが入らぬこのハング帯の突破に手製の埋め込みボルトを支点に打ち、短時日で登攀された独創的なラインなんです。ちなみに数㍍左側にあるのが、2本目に攀ろうとしている「緑ルート」。コチラは当時全盛を誇った「緑山岳会」が総力をあげて、長い時間をかけてジワジワと高度を稼いでいたライン。ハング上の垂壁の突破に苦しんでいるところを雲表・松本パーティに並ばれ、昭和33年6月の同じ日、熾烈な初登攀争いの最終フェーズを迎えた。さて、勝者は・・・。ソレを知りたければ中公文庫版の「初登攀行」を、だから読みなさい(w

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8:40、カラ身で取り付く。ところがビショビショの岩は困難で、1P目を終えた外傾テラスで、フェルト地下足袋(当時、出始めだったネオプレーン地の股割れ渓流タビ)に履き替える。おお、グリップ良好。小ハングを超えて、アブミ・トラバースから大凹角へと入っていくあたりが核心部で醍醐味でもある。この写真はそのあたりを攀るワタシ。カメラを真上に向けて撮っています。

先ほどの雲表ルート・スライドショウの24番目の画像が、松本龍雄氏が打ちこんだ現在も残る埋め込みボルトの第1号だ。コイツはワタシも「コレが、そうか」と気づいた。1958年とワタシの体験時の1981年、そしてこのパーティが攀った2007年と、各々およそ四半世紀の時をまたぎつつ、同じモノを見つめたフシギさよ。
この第1号ボルトについて、写真ガイドブック「谷川岳の岩場」のルート解説より、ちょいと引用。「垂壁を登り始め、小ハングを越えるころから壁は少しずつかぶりだし、大オーバーハングの下辺りから右へとアブミ・トラバースに移り、頭上に直上していく凹角に入っていく。(略)この凹角に、問題の試作された肉厚の手製ボルトがある。現代の感覚からいえば、これほどその使用に神経を遣い、ぎりぎりの限界で打ってある点など実に倫理的なもので、ちょっと自分の技量が不足していると、すぐべた打ちにボルトが並んでしまう傾向に比べれば雲泥の差がある。おそらく初期におけるボルトの賛否論争は、今日のこの現象を予知しての反発があったに違いない」。

そして前々の記事でも述べたように、この日本山岳史に名を刻むルートが日本で初めて「フリー化」されたのが、ワタシが攀った1年ちょっと前のこと。まあその。壁のコンディションが悪すぎとはいえ、当時のワタシの実力ではセカンドでもフリーでは無理、これが正直な感想でしたね。

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さて、続きを急ごう。この凹角を抜け、左へ下り気味にトラバースして「カール下テラス」に到着。案の定、上部はひどい状態だった。「S」と「O」が攀り終えたら、爽快な空中懸垂でハング下の広場に舞い戻り、次の「緑ルート」に取りかかる。

ところでオーバーハングの登攀ってのは、こういう作業をしています。5:35からに要注目。このシーンでは、吊り上げされたトップが埋め込みボルトの支点を打ち足すべく、ジャンピング(穿孔)をしている。以前にも述べたように、実戦でワタシがハーケンとかボルトを打つ機会なんて無かった。残置された支点で効いてそうなヤツを使うのでコト足りたからですが、このカチャカチャいう音はしみじみ懐かしい。

さておき、すでにワタシの上腕はくたびれていて、4㍍ほどの張りだしのハングもスピーディに攀らせてくれなかった。それに続く濡れた垂直のフェースでも、泣きたいほどの苦闘を強いられた。ここで落ちたらランニングは持ってくれるか、ピンが飛んだらテラスに叩きつけられるのかッ、なんつーリアルな恐怖とよく闘いながら、何とか攀りきって再びのカール下テラスへたどり着く。シンドかった。
セカンドの「O」がたやすくハングを抜けてくるのを、ワタシはいらだったキモチでザイルをたぐる。時間切れでサードの「S」を攀らせるコトもできぬまま、コップスラブを下って略奪点に向かった。帰りが遅れたワシらを心配した他のメンバーたちが、暗闇せまる一ノ倉出合まで迎えに来てくれた。
雲表ルート(開始)8:40(終了)12:10、緑ルート(開始)14:00(終了)16:00

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8月25日、曇り。続けて行動できるのは、ありがたい。本日はBCに入っている全員(OBとか他部員とか)で幽ノ沢の集中登攀を行う。ワタシは「中央壁・左フェースルート」を「O」と2名で。これは中央壁の初登ラインで、フリーが主体の難しいルートとして知られている。この合宿で目標にしていた3本のルートのひとつ(あとは「3スラ」と「エボシ奥壁ダイレクト」)です。
しかし残念なコトに、このルートも画像付きの登攀レポートがほとんどない。上記リンクの記事によるとココも今ではルートが崩落しており、正面フェースに苦労してエスケープしている。

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「T1」まではノーザイル。快適に登高を続け、核心部の「Zピッチ」も難なく突破。フリーの楽しさを満喫しながらザイルはキモチよく延びていく。渇いた岩の感触を確かめつつ、すんなりと終了した。長めのルートを軽くこなせたコトで、ワタシは満足。「やっぱ人工より、こっちがスキw」。中芝新道の途中で他パーティと合流し、カタズミのβルンゼを下降した。(開始)8:10(終了)11:50

ふたたび荒天が続くハメになる。8月26日は雨。27日は曇りのち雨で、略奪点経由でエボシ奥壁「凹状岩壁」へ向かうも、雨が降りだしたから衝立沢を下降してBCにトボトボ戻る。翌28日も、やっぱり雨。なんてこった。
そういえば、くだらぬコトを思いだした。BCに備えつけられていたノートにワタシが書きつけた「ポエム」のこと(w 変形チムニーで落ちたときに失くしたジョギシューを弔ったもので、こんなムードでした。

母さん、ぼくのあの運動靴、どうしたんでせうね?
ええ。夏、一ノ倉の変形チムニーで谷底へ落としたあの運動靴ですよ。
母さん、あれは好きな靴でしたよ。
僕はあのとき、ずんぶんくやしかつた。
だけど、いきなり滑落したものだから・・・

たはは。もちろん森村誠一の「人間の証明」に登場する西条八十のパロディーなんですがネ(w まあその。「沈澱」続きでヒマだったワケだ。久しぶりに思いだした。この詩の最後あたりの透明な寂しさ、これが好きだった。

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8月29日は、晴れのち雨。一ノ倉「烏帽子沢奥壁・凹状岩壁ルートへ再アタック。このルートの開拓ってのがまた、物語がテンコ盛りなんです。昭和33年3月、ワタシのヒーロー・雲表の松本氏が「烏帽子奥壁」の初登攀を狙って、しかし絶え間ない氷塊の落下で取付くしまの無い既存ルートを避け、無雪期ですら攀られていなかった未踏ラインを切り拓いたという革新的なルートなのだ。それはマーキングしなくてはイカン。そんなワタシの、この傾倒ぶりに瞠目せよ(w

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このルートもまた、5年ほど前の上越地震によって核心部のアリサマが変わっちまったらしい。夏場は自然発生のラクがバシバシの危険なルートみたいだが、ワタシのメモによると30年前でも同様だった。
凹状の下部では、中央カンテからの落石の雨をかわしつつ走り抜け、核心部に入っていく。雪崩による浸食作用を受けた傾斜の強いフェースの登攀を楽しみ、景観の素晴らしさに目をみはりつつ右上してしてテラスに着く。ブッシュの中をしばらく登ってウンザリしたころに最後のクラックが現れ、やはり素晴らしいルートだと感銘を受けた。北稜を懸垂下降する。(開始)8:40(終了)12:10

翌30日は晴れていたが、皆で「ユビソ本谷」へ出かけ、十字峡あたりで水泳し、トカゲ(「山ヤ」コトバで甲羅干しのコト)に興じた(と記憶していたのだが、この動画を見ると、さすがにこんな遠くまで出かけないかも。魚留めの滝あたりだったのかな。この湯檜曾川本谷は2年次だったかに遡行したが、じつに楽しい沢登りができますよ)。そして8月も最後の31日に下山。尻切れトンボのように夏合宿が終わった。

ワタシの計画では、穂高の岩場でトレーニングを積んで一ノ倉でソレを開花させる、そんなムードだったのだが、ずいぶん予定が狂ってしまった。縦走合宿では雨の日でも歩き続けるから、雨の中を登攀する意味なんて無く危険なだけとはいえ、こうまで停滞日だらけの報告ってのは、責任者としては関係各位に対して少なからずココロ苦しかった。
まあしかし、長期の合宿日程を事故もなく無事に終了できてホントに良かった。そして滝谷とか奥又白なんて遠い場所では、社会人には1週間の「夏休み」でも正味4日間くらいのクライミング日しか作れぬワケだから、どっぷりと岩登りを享受できたこの夏の日々は貴重な思い出。かたや谷川岳での不本意な日々は、ともかく大学生でいる間に必ず目標をやっつける、そう固く思い定めたワタシだった。

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10月上旬、「O」と再びザイルを組んで、あの小川登喜男が1932年に拓いた一ノ倉沢最初期の名クラシック、「3ルンゼ」をやろうと出かけた。きっとガスっていたはずだ。ナゼならワタシは左隣りにある「2ルンゼ」に取り付いてしまったからだ。いやしかし「ルートわかんない病」どころではナイ、という(汁 序盤で気づいたら、さすがに下降して取り付き直したハズだから、きっと「ザッテル」の城門に出ちまって「なんじゃ、こりゃ?」、ようやく事態を合点したと思うワケ。 
この画像は「滝沢スラブ」に食いこむ右側の2ルンゼと、上の「ザッテル」および滝沢上部の様子が分かりやすい。2ルンゼだって十分にヒストリカルなんですがね、「O」からは「いちばん登りたくないルートを登ってしまった」という的確なコメントを頂戴した。「まあその。温故知新、なんである」とか何とかイイワケしつつ、Aルンゼあたりを継続して国境稜線へ出たんではなかったか。

それから間もなく、ワタシは左ヒザ外側の「じん帯」を痛めて、身動きが取れなくなってしまった。矯正サポーターなど無かった時代、ヒザ部を石膏どりして両サイドに鉄板を入れた専用サポーターなんてのを、1まんえんくらいで作らされたっけ。まあ、さすがに長らく酷使しすぎたのかも知れないな。インソールなど入れてない重登山靴でドカドカ歩いたり、ペラペラの運動靴で駆け下ったり。左ヒザのじん帯はその後「地雷」として、今もタマに痛くなるワタシのウィーク・ポイントになったワケ。「本チャン」攻略の意欲に満ちたシーズンが、こうして終わっていった。

そして冬になり、春が廻ってきた。ワタシは4年生になっていた。トレーニングは熱心にやらなくなっていたが、技術的にはソコソコ円熟していたらしい。

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5月下旬、半年ぶりに「一ノ倉」に戻ってきた。2年部員の「O2」(いつものパートナーとは別人、「O2」と略そう)と初めてザイルを組んで「衝立岩・中央稜」を攀る。ココは南稜と同じく一ノ倉の入門的ルートで、ワタシがすべてリードしたと思う。そんなに面白い内容ではなかったな。
ググってみると、フシギなことに現在では大人気ルートになってますね。落石などの外的な危険が少ないリッジ登攀だからなのかネ。
ココで示唆に富む記事を発見。近年の「外岩w」的環境下で、アルパインのルートがどんな状況になっているのか、プロフェッショナルが考察したものだ。むーん。確かに、そんなのは寂しい。では、もともと残置支点が少なかった「幽ノ沢中央壁」なんか攀るヒトがいないんじゃなかろうか、ほとんど。それはしかし、新鮮で楽しそうに思えるんだがなあ。

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【革新と焦燥の日々】
マスメディアから発信される世界の情勢は、日々、革新の度合いを高めていた。といっても「岩と雪」誌におけるハナシですが(w そして世界ってのはフリー・クライミングに関するネタだけどサ。そのころのワタシ、とっとと就職活動の準備に入らねばならんのに、まだ何も始めていないクセして意味なくアセる不毛な毎日だったのです。

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さて、その年はじめに出た「岩と雪」誌の記事で、ワシら一同は心底ビックリした。鈴木英貴氏の「アメリカ・岩登り武者修行の旅」という、連載1回目のレポートを見たからです。ヨセミテにある「ワシントンコラム東壁」をオールフリーで攀る「アストロマン」というロング・ルートの凄まじい報告にのけぞったものだ。

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でも、悲しいかな「5.11」連発の「トポ」を眺めても、いったいソレがどれだけ難しいのか理解できないからネ、「スゲー」とボヤくのみだったり(w 

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加えて、その年の春には国内の革新的な最新状況を見せつけられた。小川山とミズガキ山で展開する「ハードフリー」の世界の紹介だ。

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山ヤなんだから、他人が攀れない場所を「かるーく」やっつけちゃう、そんな行為に優越感を抱くコトは、よおっく理解できる。ルートを拓いて自分で名前を付ける、そんな所有欲も良く分かる。クライミングで自己表現をする、これまたキッチリ同意できる。でも、群雄割拠の戦国時代のごときその当時のフリーとは、すなわちクラック登攀を指したから、ヘタすりゃ指がチギレちゃいそうな、見るからに痛いクラック・クライミングに対してワタシのキモチが傾くことはなかった。ナニを好きこのんで、と。

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小川山のような「おニューの岩場」でのアメリカンなブームとは対照的なクライミング、既存の人工ルートをフリーでストイックにトレースし直す、その掉尾(とうび)を飾った偉業がコレだ、「衝立岩・雲稜第1ルート」のフリー化。

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数次に及んだこのチャレンジはこの年の中ごろのことで、秋に発刊された「岩と雪92号」の巻頭にカラー10頁という破格の扱いで特集されている。それだけ影響力と意義のある「ルネッサンス」だったと、ワタシですら心得る。「歴史を変えた1本」の誕生が、ワタシの現役「山ヤ」時代の最後あたりに成されたという事実は、改めて振り返ると面白いものです。

【ミッション・コンプリート】
そんな風雲急を告げるこの年の6月上旬、ワタシのロック・デイズのピークを成した数日がやってきた。そのとき入梅していたのか、平日か週末か、誰かのクルマで入山したのだったかも今では覚えていない。でも、登攀時の様子はソコソコ記憶に残っているんです。それだけ真剣だったのでしょう。

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6月10日、いつものBCで仮眠後、一ノ倉・烏帽子沢奥壁の「南稜フランケ」へ。2年部員の「O」と「F」(前年の11月末、富士山でビバークを共にしたヤツだ)を引き連れて攀った。
天気は曇りだったろうか。昨夏の目標だった「エボシ奥壁ダイレクト」(初登者の中に、あの今井通子がいますね)からコチラに変更した理由はもう、覚えていない。おそらく翌日の長丁場を想定して、わずか6ピッチ(実際は、ルート図に書き込んだように5ピッチで終了)ながら「5級下」という高いルート・グレードを付された南稜フランケにしたのだろう。Ⅴ+のフリーが連発するから、やりがいがある。
画像付きの記事はイマイチ見当たらないが、リンク記事の文章のみでもヒリヒリする難しいフリーのムードが伝わってくるだろう。

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かつて「国内でもっとも困難なフリー」と呼ばれたという3ピッチ目は、ジョギングシューズのワタシがリードしたのだが、レポにあるような「ランナウト」(昔はこんなコトバは無かったなあ。ランニングが遠すぎ、とか言っていたような)の恐怖感ってのは、それほど感じなかった。まあ、昔の本チャンなんか、そんなモンだったワケで。続いて上がってきた「O」が言ったセリフ「こりゃスゴイ。難しい。でも手を伸ばせば、何かしらホールドがある」ってのが、Ⅴ+というグレードを上手く表している。ま、セカンドはイイわな、気楽でサ(w

【追記:2012年5月】
南稜フランケのより詳細な登攀記録を発見したので追記。これは2002年時のものですが、攀っているときの写真がイイ。

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6月11日、曇り。ついに「滝沢第3スラブ」に取りくむ。
このときの記録メモは手元に無いけれど、その模様は何となく覚えている。BCの小屋を出たのは夜明け前、もっとも日の長い季節ですが、一ノ倉の出合あたりで明るくなったのだったか。パーティは昨日と同じ3名。この写真は前年の8月、「コップ」に向かう略奪点で撮影した滝沢スラブ、その迫力ある全景だ。じつはワタシは最初、イマイチ自信が持てなかった。というのも、晴れてはいなかったから。

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やはりこのルートが発散する圧迫感は、けっこう凄いものがある。ましてや登攀中に雨に降られたら地獄だからねえ。「南稜テラス」あたりでも、まだジクジク悩むワシに向かって「O」にハッパをかけられたもんだ。「そんなんだったら、一生攀れないッスよ?」と笑われつつ。「わかったわかった。やる!」、そうなった。いったん覚悟をキメたら、気分はラクになりました。

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通称「3スラ」とは、3ルートの継続登攀になる。「滝沢下部ダイレクト・ルート」「滝沢第3スラブ」「滝沢リッジ・ドーム壁」で、3本合わせると高低差は800㍍。スラブはフリーが主体とはいえ、前後の部分で「A1」の人工が連発する。たいして難しいピッチは無いが、ともかく長いルートだからスピードが第一。このときビバークの用意なんか、しなかったハズ。1日でやっつける予定。
おっと、その歴史にも触れておきましょう。「3スラ」の初登は、もちろん松本龍雄氏のパーティで、1958年10月。当時はボルト連打のダイレクト・ルートは存在せず、やっかいな「滝沢下部トラバース・ルート」経由だ。またドーム壁も登攀対象ではなく、松本氏らは冷雨に曝された立ちんぼビバークの後、小雪のちらつくBルンゼを登って終了している。
ところで「3スラ」を含めた滝沢スラブ一帯は、観光客が集う一ノ倉の出合からは、その姿がイマイチ見えない。見えるのは滝沢下部岩壁くらいなのだが、まあ、そんなところも「知るヒトぞ知る」ってなイメージというか、奥床しくて好きなのネ(w

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先行、後続パーティ共に無し。静かなもんだった。まずは「滝沢下部ダイレクト」に取り付く。この登攀では3名の「つるべ式」で攀ったんだっけか、イマイチ思い出せないが。サードでトップの登攀を見つめるという情景が記憶に多くあるからね。ココは垂直だがカブってはいないから、アブミの掛けかえも快調だ。

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いよいよ第3スラブへ。このルートで気をつけるべきは、ルート・ファインディング。ちょっと見誤ると身動き取れなくなるから、とはよく聞いたハナシだった。まあその。昔はクチコミ以外では、ルート図とこのガイドブック「谷川岳の岩場」しか資料が無かったからね。決行するときの「敷居」は高かったんだよ、ウン(w

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スラブ帯の半ば「F4」あたりでパラパラと小雨が降ってきた。ココは3スラの画像でドス黒く見える難しい場所だ。そのときは「F」がトップをしていたが、こんな場所で本降りになったら実際どうなる、などと心配したなあ。それからは持ちこたえてくれてラッキーだったが。
上部スラブ帯を攀り、じつはホントの核心部と言えなくもない200㍍に及ぶブヨブヨの「草付」をザイルを解いて登る。こんな確保支点ゼロでスリップされたら、3人ともお陀仏になるからですネ。このとき5㍍ほど先を行くトップの「F」がコブシ大のラクを出して、ワシのメットに炸裂。「おんどりゃあ、気ィつけろ!」。命が死ぬではないか(w

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ドーム壁の基部に着いたのは、はたして何時ころだったか。とっくに午後だったハズ。やはり上半身に疲れは溜まっている。出だしのⅣ・A1のピッチでアブミを引きつける動作がシンドかったからだ。長い継続登攀の最後をピリリとシメる、楽しいドーム壁のその先の記憶は残っていない。「ドームの頭」で登攀終了の握手をかわしただろうが、それも覚えていないのは、ちょいと悲しい(w 
国境稜線に出て、西黒尾根からガンゴー新道を下ってメンバーが集うBCに帰り着いたのは、とっくに日暮れてエレキを灯しながらだったハズだ。「やった…」。こんなレベルの岩登りなんですけどネ、自分にとっては長いこと目標にしていたコトを成し遂げたワケで、その安堵感は大らかにワタシを包みこんだ。これで「卒業」できる、しみじみとそう思った。

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「3スラ」をやった翌週、ナゼか知らんが再び谷川のBCに入った。新人部員の初めての本チャン体験、「南稜」の岩登り実地指導だったのかも知れない。
6月中旬過ぎなのだが、まだ梅雨空ではなく、曇り。そしてワタシは2年の「O2」と再びザイルを結び、一ノ倉の「烏帽子沢奥壁・中央カンテ・ルート」を攀っている。
コレはちょうど良い難しさのロング・ルートで、ワシらは「つるべ」で、二人ともオールフリーで快調に攀りきった。ルート図に書きこんでいるように中盤の様子が崩壊によってサマ変わりし、「Ⅴ」くらいになっていたようだが、それくらい楽勝。このときは部で一ノ倉に4パーティくらい取り付いていたんだっけか。楽しい思い出だ。これが、ワタシにとって現役時代の最後の1本になったからね。

【それから】
時が流れ、この2年後のこと。やめときゃイイのにワタシは「一の倉沢」へ再び戻って来た。社会人になった翌年の6月、だったか。
会社の山岳サークルに入部して、丹沢や奥秩父の沢登りとかキャンプといった軽い「レクリエーション」は続けていた。そしてその年のゴールデンウィークには、「S」(山岳部同期だが、ナゼか岩では一緒にならなかった)と初めてザイルを組んで残雪の「前穂・北尾根」を登攀し、ふたたびイロケを出し始めてもいたのです。

そのときは3年ぶり2回目となる「エボシ奥壁・変形チムニー」ルートを、ワタシが鍛えた「O」(彼も4年生になっていた)に連れて行ってもらったんです(w ええ。もちろんワシがオール・セカンドで。たまに「ひええっ」とか「しょっぺーなー」とか「もっとザイル、張ってくれ!」とか叫びながら(汁 すっかり憑きモノが落ちていたワタシにとって、それはもう、チビリそうな体験ではあった。

そうして、部員の誰かのクルマで送り帰してもらったその翌朝、ワタシはベッドから起き上がれなくなっていた。比喩ではない。実際にそういう事態で、それまで経験したコトのない電撃的な痛みがカラダを走る。アブラ汗をたらしながら、ようやく腰が痛いのだと理解した。フシギなのは、眠っていたときにはその痛みで目が覚めなかったコト。寝返りを打つような「ひねり」が少しでも入れば容赦なく電撃されたハズなのに、いったい何だ。身じろぎしないくらい熟睡していたというワケなのかネ。
それにしても、上向きに寝た姿勢から「よいしょ」と起き上がる所作ってのが、じつはタイヘンな重労働なんだと思い知らされた(w 片腕をソロリソロリと引きつけ、手首を返しながら体重移動して横向きになる。電気が走らぬよう、えらく慎重に動いてベッドの端に腰かけられたのは5分後くらいだったろうか。壁に手をつきつつ、それでも何度か激痛に悶絶しながらジリジリと階下に降りて母に泣きながら事態を告げるまでに、さらに5分はかかったような(汁

整形外科にかかって「椎間板ヘルニヤ」なんつー恐ろしげな病名を告げられたとき、ワタシはいろいろなコトを諦めた。まあ、登山が直截の原因なのだから、もうムリはできないなあ、ワシのボデーって頑丈では無かったんだなとか、今後はゴルフだけはやらないだろう、とかネ。
この翌月、夏休みを沖縄に遊んだ。残雪の前穂北尾根をやった「S」とふたりで、オープンしたばかりの「万座ビーチリゾート」なんつーナウいホテルでねーちゃんをナンパしつつ、なんと言いましょうか、妙にストイックだった学生時代とは違う軽やかで楽しい世界にアシを踏み入れていったワケです。

ワタシの若きロック・デイズは、こうして終わったのだ。


◆過去の山登りの個人的体験談を述べるものは、これで終わりです。
たいした体験ではないクセして、当時の世相を加味したり、思いきりカッコつけました。わはは。
この程度の登山歴なんざハナで笑っちゃう「山ヤ」なんかゴロゴロいらっしゃるとは思うんですが、しかし。
ネットで見られる登山記録を広く読んできましたが、こういう「くくりかた」での記事は無かった。
まあ、ちょっとは珍しいスタイルの昔バナシと言えるのではと考えます。
長いあいだ、ご愛読サンクスでした。

◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:10

ラード的山がたり ロック・デイズ(その5)

2010/03/07(日) 23:25:04

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【穂高の18日】
「第2次夏合宿」は、穂高岳の3大岩場「滝谷」「奥又白」「屏風岩」の面白そうなルートを根こそぎ攀ってやろうという企画で、7月23日の夜行列車でデッパツ、帰宅が8月10日というロングな日程。メンバーは新人の「O」と、年上だけど部歴は2年生扱いの「S」氏という、わずか3名。ただし途中のみ参加のOBと顧問の先生が、単調な日々に彩り(差し入れがコレまた美味いんだよね)を加えてくれました。
この本は、登攀ルートの全容などの画像を引用させてもらった、豊富な写真解説によるルート・ガイドブック「穂高岳の岩場」(武藤昭著・山と渓谷社刊・1979年3月初版・絶版)だ。合宿前にはコレを穴の開くほど読みこんで、ココロ踊らせたもんでした。終わったら終わったで、苦労しながら攀ったルートを思い返してジコマンにふけったり(w

すでに山も夏模様。日程の長さは食糧の重さに直結し、初日、涸沢までは40kgのザックに苦しめられたもんだ。
ああ。もうザックがパンパンです!ってゆってるのに、新宿駅に見送りに来てくれた方々がニコニコしながら「気をつけてな。じゃ、コレ持ってけw」と、スイカやらマンゴーやらを持たしてくれて(汁

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7月25日、まずはアイサツがわりに前穂の北尾根へ。涸沢を取り囲むゴジラの背中チックな岩稜ですナ。「穂高」は日本アルピニズムの発祥の地で、このルートも黎明期におけるブリリアントな歴史を放つ。初登攀争いの末に慶大がトレースしたのは、なんと大正13年の夏とのことだ。

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ワシらのタイムを記そう。(4:35)発(7:05)5・6のコル(10:50)前穂(12:50)奥穂(14:20)サイト着。このときも「ゴーロク」の残雪が異常に多く、また硬くて「5・6のコル」まではキックステップさえ利かない苦しい登行。近ごろはちょっととした雪渓でも軽アイゼンを付けるという風潮ですが、当時はこんな場面はピッケル1本。アイゼンを持っていこうモンなら「イモ!」とバトーされる、そんな時代です。

この日は晴れのち曇り。それにしても眺めがサイコーで楽しい岩稜ルートだ。「Ⅲ峰」あたりでフツーの岩登りになったり懸垂下降があったりと、北鎌尾根よりはヤヤこしいレベル。そのⅢ峰のガッチリした岩の様子は今も覚えている。引用させてもらったレポは画像が豊富で素晴らしい。行った気分に浸れます。

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7月26日、まずは「滝谷」を集中的に攀るべく、ベースキャンプを北穂・南稜のサイトに移動する。ボッカに苦しみ、4時間もかかっている(w 幕営地の半分は雪に埋まっていた。でも、これで水の心配はナシだ。そう。水は雪渓から滴るヤツを汲んでいたんです。今なら即ゲリ腹になるナ。

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【追記:2010年7月10日】
「滝谷」岩壁群のすばらしい画像を見つけたので、引用させていただきます。元ネタは、「ヤマレコ」のこちらの記事。滝谷の全容が見て取れる写真ってのは、なかなか無い。これは最高です。

この画像に解説を加えましょう。撮影場所は南岳小屋。「大キレット」越しに、真南を向いて撮影しています。
左端に上に「北穂高山荘」。そのあたりが「北穂」北峰頂上で、広いピークの右側が南峰、3,106㍍。小屋から画像左隅に下っている岩稜が「大キレット」へつづく一般縦走ルート。そして、画像真ん中の奥に望めるのが「奥穂」だ。

この画像は昨年9月の撮影とのことで、滝谷の主だった本チャン・ルートが赤裸々にして全裸々。隠れて見えないのは、「グレポン」と「C沢右俣奥壁」くらいか。
この合宿時に攀ったルートなどを示すと、北穂の小屋の右下に2段の垂壁を晒しているのが、「第1尾根」。その右、南峰ピークから明瞭な45度角で落ちるのが「第2尾根主稜」だが、その上から3分の1あたりが「P2」2番目のピーク)で、その下側の影になっている尾根側壁が「P2フランケ」だ。ところがこの壁は、1998年夏の大地震によって丸ごと崩落してしまい、10年を経たこの撮影時でも、崩壊後の荒れた様子がよく分かる。

第2尾根の向こう側にそそり立っているのが「滝谷ドーム」。左半分の影になっている部分が「北壁」。右半分が「西壁」だ。ドームの右奥には長大な「第4尾根」も見えている。とくに右下の「ツルム正面壁」が印象的。
それにしても、荒涼とした終末の風景だ。大正の末期などという時代から、こんな場所に取り付いて(夏どころか厳冬期も!)岩登りをしているアルピニストたちって、やっぱり相当ヘンだと思う。
(追記ここまで)

さて、設営後、「ドーム北壁・右ルート」を攀りに行く。昨年もやったルートだが、アプローチが近い小手調べ的な1本だ。
3名でのザイル・オーダーは、トップがワタシ、セカンドが「O」、ラストが「S」で統一。この組みかたでは時間を食うワケですが、まあ仕方がない。ホンネを言えば俺が攀りたいルートを俺がトップで、そんな鬼畜方針だったのはナイショ。

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7月27日、「ドーム西壁・雲表ルート」へ。ココはフリーがメインの楽しみにしていたルートだ。この写真が滝谷ドームの全容。右半分が「西壁」。右端のスカイラインが昨夏に攀った「ドーム中央稜」。左側の上半分が昨日やっつけた「北壁」。じつに岩壁っぽい佇まいでカッコいいでしょう。

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朝方は雨で、スタートを遅らせる。Bフェース下部の複雑に割れたクラックをフリーで快適に攀り、上部フレークではフリーでリードできないものか考えたが、結局、アブミを2回使って小ハングを越える。レイバックをブチかます度胸はなかった様子(w Aフェースはチムニーから下り気味にトラバースするところが面白い。次の凹角は人工だとルート図にあるが、ワタシと「O」はA0を1回でハングを越えられた。「S」はアブミの掛けかえで上がってくる。気分爽快な充実ルートだった。(8:25)開始(12:30)終了

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7月28日、本日は登りがいのある「第4尾根~ツルム正面壁」の継続登攀だ。4尾根は1932年夏に初登されたクラシック。ここ滝谷でも、岩場の開拓はまず尾根ルートから攻略されていったワケですね。

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残雪が多いC沢左俣を下り、6:50、スノーコルからノーザイルで登攀開始。Aカンテ上でアンザイレン、Bカンテを快調に飛ばす。ここらへんはナイフリッジだから両側がスッパリ切れ落ちていて、オマケに背後もはるかに見下ろす蒲田川までスッキリ爽やか何もナシ。抜群の高度感だ。

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Cカンテ基部から15㍍の懸垂下降を行い、9:30、第4尾根の右脇にそそり立つ三角形の垂壁「ツルム」に取り付く。出だしのフリーは少し緊張する。まあその。「A1」の場所を「A0」で、「A0」ならフリーで突破したいと考える意欲的なワシらだった。ラストの「S」はいつでもアブミの掛けかえで上がってきたけど(w まあ、そうしてくれるほうが時間の短縮にはなります。

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2ピッチ目は垂壁の人工からマッタクいやらしいボロボロの凹角。冷や汗モノだ。そしてワタシが「ルートわかんない病」という不治の病を持つため、このときも左への水平トラバース地点を間違え、かなり時間を消費した。まあその。ワシらが攀ろうと考える著名ルートなんて残置だらけで、それを目で追いながらルートを探すという「残置ピトン・ファインディング」をしていたのが実情だ。チルチルミチルのおハナシみたいなモンね(w ただし間違った方へその残置が続いている場合も結構あり、そんなときに「わかんない病」が発症するとイタいワケです。

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コレはツルム正面壁の上部をリードするワタシ。ツルムだけで何と6時間もかかってしまった。いま思うと、時間のかかる理由ってのは決して休んでいるワケではなく、冷や汗かきつつ、手をかけようとしたホールドがグラグラなモンだから落とさぬよーに元へ戻し、極度のバランスの中、また別の手がかりをまさぐりまくるってワケです。そんな時ってもう、必死なのネ(w 
次第に濃くなってきたガスは雨に変わりそうな気配。再び取り付いた4尾根の最終ピッチ、Dカンテを強引に突破し、17:25、雨の中で登攀を終了した。10時間もかかってしまったのだが、充実感はあった。

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7月29日、昨年も攀った「P2フランケ早大ルート」へ。出だしのクラックでアブミを1回使ったほかはフリーで攀りきる。(開始)11:50(終了)15:20

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7月30日、「第1尾根ノーマル・ルート」へ。まさにクラシックで、初登は1932年。ちなみに冬季初登は1939年などという開戦前夜の時代に「風雪のビバーク」で知られる松涛明氏が成した。で、縦走路上にある「松涛岩」ってのは、そのときに氏がビバーク拠点にしたからその名が付いたというくらいの由緒を持つ。

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ところが、今回も各ルートの画像つき登攀記録をアレコレ探しているワケですが、この第1尾根は見当たらない。P2フランケなどと同じく、1998年の地震で崩壊してしまったのでしょう、きっと。ルート図で分かるように、じつに「ちょうどよい」難しさ。3P目の小ハングも含めてオールフリーで完登。爽快。

しかし本日も昼前からガスが巻いてきたのと、クライマーが増えてきたので継続はサボる。でもナンダ、いま思い返すともっと攀っときゃヨカッタ…、そう痛切に感じます。行けば登れた「グレポン」なんか、地震で尾根そのものが崩落しちまった、というんだからナ(汁 でもまあ、残るは「ダイヤモンド・フェース」と「クラック尾根」くらいで、ほぼ制覇したという状態だったのだ。
滝谷の各ルートってのが、縦走路である稜線から取付き点まで下降して登り返すという独特なスタイルで、さらに岩が風化しているから落石(人為的でも自然発生でも)の危険と恐怖にビビるルートが多いワケ。

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7月31日、滝谷での最終日にはメイン・イベントを持ってきた。「C沢右俣奥壁」だ。初登は松本龍雄氏ら雲表パーティで、1958年の夏のこと。その昔から絶え間ない落石に悩まされる悪相の垂壁で、滝谷最後の未踏壁だったのだ。わがヒーローが開拓した、そんなルートをやる。

4尾根Dカンテを懸垂で下り、ツルムのコルへ。小雨が舞い、しばし時間待ちの後、さらに懸垂でルンゼを下る。陰惨なムードの滝谷でも極めつけ的に荒れている奥壁が見えたあたりで、凄まじい落石が縦走路から出た。その奥壁中央部を轟音とともに落下。ひええ。ワシらは呆然と立ち尽くした。
「まさかアソコがルートじゃないよな」「そんなハズはないよな…」。えらく弱気になったワタシ、壁の右側のクラックに取り付いてしまった。Ⅳ+のフリーにしては難しいと冷汗かきつつ40㍍攀ると、やっぱり先ほどの岩雪崩の場所がオリジナル・ルート(8枚前の画像を参照してください)だったと気づく。死にに行くようなものですがナ(w あとで調べたら、ココは「右ルート」といい、このピッチはⅤのA1とのこと。ワタシはA0数回で攀ってしまった。
仕方なく、左へ下り気味にトラバースを試みる。これを2ピッチ、そして凹状部直上から直上クラックと2ピッチ攀ると、縦走路下のリンネに出て終了してしまった。まあその。途中から雲表ルートに合流はしたのだろうが、もったいないコトをしたもんだ。
この壁の落石は、初登される前から恐れられていたコト。ワシらが攀った時点で登攀禁止になっていなかったのは、フシギという他ない。命がけのクライミングってのは、「運」でもある。まあ、それが本チャンの意義であり面白味でもあるワケですが。(8:50)開始(13:00)終了

これで滝谷の岩場を終える。ちなみに今、登攀の無事を祝して杯をあげるとすれば、この酒に限るね。どーです(w クールなネーミングが美味そうじゃないか。
それを味わいつつ、ワタシのバイブル「初登攀行」をかみしめるように読みたい。攀り終えたC沢奥壁を後にするくだりで、松本氏は味わい深くこのように結ぶのだ。「南峰頂上で涸沢の灯を見る。二五歳の夏への決別を感じつつ、去りがたい思いで下る北穂沢に夏草が匂っていた」。

8月1日、涸沢にBCを移して休養とする。快晴。明日からは「奥又白」と「屏風岩」にとりかかる。

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8月2日、まずは奥又白の前穂四峰正面壁「北条・新村ルート」だ。奥又白エリアは初見参。すぐにガスが吹き上がる「滝谷」の陰惨な岩の墓場ってなムードと比べると、コチラは好対照、明るく豪快な印象だ。

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ただし涸沢からだとアプローチが遠い。北尾根をやってから8日ぶりとなる「5・6のコル」経由で奥又白の本谷を下り、また雪渓を登り返す。うだるような暑さの中、たっぷり3時間のアルバイトで取付き点へ。
写真は本谷雪渓上部から撮った「奥又白」の全容です。右半分が「前穂四峰」の岩壁群で、さらにその右側が本日アタックする四峰正面壁になる。奥まった写真左側が「前穂東壁」の立体的な岩壁群。
【追記:2010年7月10日】
奥又白の岩壁群を撮影した、すばらしい記事を見つけました。2006年とのことだから、コレが「大地震」後の最新の状態だ。前穂東壁・右岩稜ルートの崩落は悲しいが、四峰正面壁のカッコよさには、今でも胸がおどる。

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伝説のクライマー・北条理一氏が1933年に初登した、奥又白でもっとも有名な北条・新村ルートは、「RCCⅡ」が記した核心部についてのルート解説が印象的だ。すなわち、「初登攀者たちは始めの小ハングにピトン1本を打ち、大ハングはピトンなしで乗越したといわれている。現在(引用しているルート図集「日本の岩場」は1976年の発行)では約20本のピトンが残置されている。これを見ても、初登攀者の偉大さに頭の下がる思いがする。初登時のこのピッチはおそらくフリークライミングのⅥに相当していたと思われるが、1933年当時にⅥに到達するような登攀が成されていたことは非常に興味深い」。
前項でワタシが触れた「岩と雪72号」の衝撃までは、すなわち日本のアルピニズムとは、こんなんだったワケです。ゴムソールの靴など存在しなかった時代、北条氏は鋲靴で攀ったのか、あるいは地下足袋か。ちなみに昭和33年秋の一ノ倉・滝沢3スラを初登したときの松本氏なんか、素足にワラジだもんね。
ともかく、自分の技量で対応できないとスグにハーケンとかボルトを打ち足してソレを放置し、よってそのピッチの難易度が下げられてしまう「宿命」だったのだ。コレがつまり日本全国「Ⅳ級A1」化というコト。この合宿時のワシらは「ルート図にA0と書いてあればフリーで攀ろう」などと、意識をちょいと高めに持って臨んでいたのだが、コレも「岩と雪72号」のアジテーションのオカゲと言えました。

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とはいえ快晴で酷暑のアプローチに痛めつけられたワタシは、キモチとは裏腹、全身に脱力感がみなぎって困ってしまった。フラフラと「ハイマツテラス」へ攀る。いま思うと熱中症みたいなもんかな。暑さとアブがワンワン飛び回るキジくさい場所で順番待ち。その素晴らしい核心部「青白ハング」帯では、小ハングはA0で突破するも、大ハングはアブミに乗ったくせしてチカラ尽き、ザイルにブラ下がってしまう。これはかなわん。「初登者はピトンなしで乗越した」とは、さすがのロック・レジェンド。次のトラバースからリッペを越すピッチもしんどかったとメモに残っている。
「5.6のコル」まで北尾根を下り、雪渓をグリセードで帰幕。(開始)8:15(終了)12:35

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8月3日、引き続き快晴のもと、前穂東壁「右岩稜・古川ルート」へ。コレも奥又白を代表する1本として知られ、Ⅴのフリーのピッチを含むというチャレンジングなルートだ。再び前日と同じアプローチを辿って、あえぎながら取付きへ。

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じつはこの右岩稜も、1998年の大地震でルートが崩壊した。現在は再び「新」古川ルートが引かれたとのことだが、もちろん内容は変わっている。とりあえず、数少ない写真付きの中からこの記録をご紹介しておきます。

さて、ワシらのコトだった。先行パーティが4つもおり、けっこうな順番待ち。核心部の4ピッチ目、A0とフリーでハングを回りこんでから、右にしぶいトラバース。ココで少々ルートを誤った。Ⅴのクラックは垂直で威圧的だが、快調にリード。そういえば「おお。コイツが5級かあ」などと感激しながらリードしたのを覚えている。
下を見下ろしたら梓川までドバーッと絶景が拡がっていたコトだろう。もっとも当時は高度感がマヒ(否。順応と言うべきかw)していたから、とくにモンダイ無し。ちなみに今では、まったくダメです(w これは訓練が必要なモノらしい。継続ルートの「Aフェース」、Ⅲ+程度の3ピッチを急いで片づけ、終了点となる前穂のピークへ。きょうは顧問の先生とOBが合流してくるからだ。
そしてこの涸沢への帰路、北尾根「3・4のコル」からグリセードしたら止まれなくなって雪渓を300㍍ほど滑り落ちるというアトラクションを図らずも敢行したワシでした。(開始)8:20(終了)14:20

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8月6日、2日間の停滞の後、屏風岩のクラシック「1ルンゼ」へ。この日はパーティを分け、「O」とふたりで攀る。快晴だった。その名のとおり屏風のように展開した岩壁の左端に位置し、初登は1931年、これまた伝説のクライマー・小川登喜男氏。キチンと温故知新を踏まえて取り組むのが、ワシらの偉いトコロだ。うおっほん。
ところがこのルート、ネットを巡回しても夏の記録が見当たらない。ヒットするのは「東壁・雲稜」ばっか(w まあその。今どきルンゼ登攀なんか不人気なんでしょうナ。でも、ルート図集には「穂高岳でも代表的な明るい花崗岩の大ルンゼであり、岩は硬くテラスも豊富なので思いきり登ることができる」などと、魅力的なコトが書いてあったんです。

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涸沢から本谷橋へと駆け下り、横尾の岩小舎から「一ルンゼ押し出し」を登り、雪渓の下をくぐってこのロング・ルートに取り付いた。下部はまぶしい花崗岩のチムニー状が続いて、内面登攀ばかり。ジョギングシューズだとまったく快適だとメモにある。こんな溝状のルートで上からラクにやられたらイチコロなのだが、このとき落石は起きなかったように思う。
中段台地でザイルを解き、ゆっくり登って上部岩壁へ入っていく。このあたりはとても暑くてシンドかった。非常にモロい井戸底状の壁をA0で突破して終了。グズグズの恐ろしい場所で、こんなのが最後に出てくると評価が下がっちまうワケですね。下半分だけならサイコーなルートだ。パノラマコースを辿って帰幕する。(開始)6:45(終了)12:30

【追記:2010年3月13日】
昔の資料をあさっていたら、たまたま、この「1ルンゼ」に関する大事故の報道を見つけた。
「岩と雪」1987年12月号(125号)で、この年9月に大規模な岩の崩落が発生、登攀中の4パーティ・8名が巻き込まれて、5名が死亡または行方不明、3名が重軽傷を負ったとのこと。
1ルンゼ最上部、屏風ノ頭まで30㍍の付近で岩が剥落し、幅100㍍長さ300㍍の岩雪崩となってルンゼ内を襲ったもの。ほとんど逃げ場のないクライマーたちは次々にその犠牲となった、という。ぐは。リアルに想像できてしまう(汁 さらに、飛び石連休の初日とのコトで、5パーティが登攀していたというその集中ぶりが被害を大きくした模様だ。
その後、当分の間は登攀を自粛する立て看板を現地に設置したようだが、以来20余年、無雪期に攀るクライマーは絶えて久しいというコトなのだろうか。

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8月7日、続いて屏風岩の人気ルート「東壁・雲稜ルート」へ。コレも由緒あふれる1本で、「穂高岳の岩場」には、このように記される。「人工登攀について賛否両論渦巻く1950年代末期、このルートの開拓が百論を一掃、堤の一角が崩れて新しい波が押し寄せた。ピトンやボルトの積極的仕様が肯定され、やがてディレッティシマの時代へとつながった画期的な意義を持つ登攀であった」。
初登(しょとう)は雲稜会の南博人氏らで、1959年4月のこと。前年6月に松本龍雄氏らによって、一ノ倉沢コップ状岩壁で初めて埋め込みボルトを使って「従来の攀りかたでは、誰も登れなかった場所」が突破された。その方法論を発展させたのが、見るからに攀れなさそうな角度で聳えるこの屏風の東壁の開拓だったワケ。さらに南氏は、この4カ月後に決定打といえる初登攀、エキスパート・クライマーたちの「最後の目標」だった一ノ倉の衝立岩を成し遂げたのです。

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本日も「O」と2名だ。また涸沢から駆け下りて、「T4尾根」に一番で取付く。50分ほどでルート取付き点の「T4」(上の画像で、中央の雪渓の右あたり)に到着。きょうは曇天だ。1、2ピッチ目はさすがの初登ライン、フリーの要素が強くてセカンドの「O」などオールフリーで上がってきた。扇岩テラスで、素晴らしい高度感に大休止して眺めを楽しむ。

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そこから始まる直上ボルト列が、新兵器「埋め込みボルト」が最大活用された垂直に近いスラブのフェース。ただし29年前でもすでにボルトのリング部分が抜け落ちて、細ヒモなんかで代用しているヤツがほとんどだからアブミの掛けかえというムーブでも冷や汗モノ。4ピッチ目はハングを避け、右にトラバースして東壁ルンゼに入る。ついに雨が降りだし、ツルツル滑るルンゼを強引にA0で突破して終了。長いパノラマコースを風雨に打たれながら涸沢へ向かった。(T4尾根取付き)6:50(T4)8:00(終了)13:20

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8月9日、雨で停滞した翌日、穂高で最後となるルートはコレ、「前穂東壁Dフェース・田山ルート」。奥又白エリアで最後まで取り残された奥壁だ。田山ルートが初登ラインだから、弱点を巧みに突きながらフリーで攀るピッチが多いというワタシ好みの内容です。ただし、ココも今では後に拓かれた人工ばっかの都立大ルートの記事しか出てこない。やはり大地震の影響を受けたのだろうか。

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「S」とザイルを結んでいたOBが帰京し、久しぶりの3人パーティとなる。天気は晴れ、そして再び「5・6のコル」越えというロング・アプローチ。やれやれだ。ところが攀ってみると、ルート図(8枚上の画像です)にエンピツ書きしてあるように、各ピッチの長さが実際と異なっているのもフシギだが、それより何より、ずいぶん楽勝で攀れちまったのがフシギ。
中間部の印象的なスラブ帯でもアブミをさして必要と感じなかったし、3ピッチ目の核心部、ハング帯の右上トラバースは「Ⅴ、A2」とあるが、アブミ1回、A0を数回で抜けてしまい、「やけにカンタンだなあ。またルートを間違っちまったのか?」などと不安になったり。セカンドの「O」など、このピッチを「A0」1回のみで上がってきた。「S」は例によってアブミの掛けかえ、余裕のスマイルだが。
3ピッチ目のビレイ点で話しあったのだが、結局「ワシらのレベルが向上したんだろう」という実にイージーな結論に落ち着いた(w そして上部のボロボロ凹角から簡単な左上ピッチと攀り、あっけなく終了。いちばん手ごたえがありそうで、とっておきにしてたルートなんですがネ。帰路は「Ⅲ峰」を懸垂下降し、「3・4のコル」から今度は滑らぬように涸沢カールへ下る。(10:35)開始(14:20)終了

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8月10日、無事に下山日を迎えた。本日も晴れ。入山日は重荷にあえいで、横尾からココまで5時間もかかったんだよナ。ヨーシ、松本でビールとトンカツ定食だ! いや、合宿中は小屋での買い喰いを禁じていたからです。先生とOBが来られていた数日のみ、アルコールは例外だったけどね。だもんでこの下りは速いよ(w (7:15)発(9:10)横尾(11:35)上高地だ。

さて、約1週間の休養および準備期間を設けて、「第3次夏合宿」は谷川岳での登攀を2週間ほど行う。穂高でつけた自信を引っさげて、やるぞ「3スラ」。



◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:4

ラード的山がたり ロック・デイズ(その4)

2010/03/04(木) 17:39:16

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【冬の壁について】
わずかばかりの氷壁体験も、恥ずかしながら、まとめて触れておこう。
積雪期の登攀といっても、ワタシは八ケ岳でのみ。アプローチがラクだし手ごろなルートがあるからね。冬山入門的エリアの「ヤツ」ってのは、このジャンルにもキチンと当てはまる。鹿島槍なんかには個人山行を組むヒマが無かったのがホンネです。わが部のメイン・イベントが春合宿の長期縦走だから、その準備合宿という位置づけで、毎年2月末から赤岳鉱泉でベースキャンプを張ったワケ。

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2年続けて攀っているのがこのルート、赤岳西壁「主稜」。「ヤマケイ」誌1月号から迫力の画像を拝借。こうして見ると、なんかスゴいムードですが、実際は大したコトない。もちろんザイルを結んでスタカットで攀ってはいるけれど。

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それより何よりこのルートで思い出ぶかいデキゴトは、2年連続、同じポイントで発生した例の事件、なんである。2回ともスッキリ晴れ渡った天気だという記憶もないから、まあその。ワシの必死なそのときの様子をウォッチしていたギャラリーはいなかった、そう思いたい(w

「主稜」よりもヤリがいがあって、また楽しいのが赤岳西壁「ショルダー右」リッジだ。コレは2年のときに攀ったのだが、やはりルートの内容については忘れている。よく覚えているのは、こういう登攀では手袋の消耗がハゲしいこと。当時はウールのこんなグローブしかなかったが、まあ、指先部分がすぐに穴が開いちまうんです。ホールドを探して岩をナデナデしてるとね。2ルートやっったら1㌢大の穴になったのって、いつのコトだったか。

立派な氷瀑で昔から有名な「ジョウゴ沢」には、1年次に行っている。でもアイス・クライミングが盛んになる以前の時代だから、ダブルアックスではなかった。もちろん大滝は巻いたハズ。いま思うと意味ないが、アイスハーケンなんて装備は部になかった。今ではアルパインの1ジャンルとして特化したスポーツ風に広まっているが、30年前は特殊な趣味ってムード。最初の写真は、ジョウゴ沢を詰めて硫黄岳直下を登るワタシ。

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これは横岳の頂上か。小同心クラックをやっつけた後、だと思う。無雪期のグレードでは、Ⅳ-、Ⅳ-、Ⅲの3ピッチ。そして3年次ですね、「ICI石井」オリジナルの青いサロペットだから。
ちなみにこのサロペットは当時の部内で流行ったモノだが、高級ラインのゴアテックス・バージョンは高級すぎて、ワタシはフツーのナイロン製を買った。背中から雪が入らないスタイルってのは、えらく雪山で実戦的でした。ほかは「カモシカ」のゴアテックス雨具ジャケットに「ショイナード」のオーバーゲイター。そして「ゴロー」の登山靴。
アイゼンは「サレワ」の12本で、ピッケルは「グリベル」(今ではちょっとブランド化してるらしいけれど、昔は有り難味なんかナシ)のバーゲン品だったウッドシャフト。こんな装備で別に不都合も感じなかった幸せな時代、ではあった。

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【夏合宿に向けて】
この年、最初の本チャンは、6月上旬、幽ノ沢中央壁正面ルートだった。それにしても素晴らしいこのレポートよ。ザイル・パートナーは新人の「O」。横岳の写真で赤の上下のセーネンですが、とくに岩登りをやりたいと入部してきた有望株。ルートはすべてワタシがリードして、なんらモンダイなし。幽ノ沢は明るくてヒトが少ないところが好きだった。

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前年の秋に「開眼」してから、いきなり今シーズンはレベルアップした登攀をやるワタシですが、まあ、イキオイとモチベーションはかなり持っていた。

ところで、いろんなヒトの近年の本チャン登攀レポートを改めて読んできて注目しているのは、確保支点のこと。今どきはランニングビレイを含めて、ビレイの確保支点について神経質なんだな、と。「ビレイ・ステーション」なんてコトバもできている。今では一般的な埋め込みボルトのハンガー・タイプのモノって、ワタシが現役のころには存在してなかった。
どころか、昔なんてアセって打ちこんだのか半分くらいしか入ってないリングボルト1本で確保した、なんてのが日常茶飯事捕物帖だったと記憶する。もちろん、きちんと確保するのは良いことです。ただしこの風潮ってのは、やはりスポーツ的に整備されたフリークライミングという過保護な環境で育ったヒトが、あまりにお粗末なプロテクション状態に呆れて打っているんでしょう、きっと。
昔は本チャンをやる「山ヤ」がたくさんいたので、生きてるというか何とか使えるレベルも含めて、残置ハーケンとか残置ボルトを活用できたのかも知れない。

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今は死語なのだろうが、かつては岩登りの「三つ道具」と呼ばれる基本グッズがあった。ザイル、ハンマー、ハーケンのコトだが、いずれにせよワタシは「本チャン」の場でボルトはおろかハーケンすら打ったコトが無い。この3年次なんか、ハーケンはおろかロック・ハンマーも携行していない。使わないから、なのだ。もしかするとザックの中に仕舞っていたかも知れないが、ともかくブラ下げてはいない。今どきのヒトはビックリするのかな(w すべて残置にクリップしてコト足りていたんです。

写真はこのルートの終了点かな、これから堅炭尾根を下ろうとしているところ。背景は一ノ倉尾根。半分お手製のハーネスは、コレを最後に「Mt.Dax」(当時売り出し中の国産メーカー。地味ながら現在も商い中)オリジナルのシット・ハーネスに買い替えた。左腰にブラさがっているのはアブミ。ザックは、大学時代に使い倒した思い出満載の「さかいや」オリジナル、フレネイ・ザック。1979年9月購入、3,950円。当時「さかいや」は怪しげな自社商品をいくつか販売していたのだが、コレは「ラフマ」のアタックザックのパクリ。ボトム部分に灰色の牛皮を広く貼っているそのデザインが好みだったし、内側に折りこんだ部分を引っぱりだすと約1.5倍のザック容量(40㍑くらいか)になり、重宝したものだ。この後の夏合宿でも登攀ではすべてコイツを背負った。
それにしても服装がテキトーですなあ。スウェットはフツーの綿だし、ただのチノパンだし、こんな残雪の上でジョギングシューズだ。ちなみにコイツはアプローチ専用で、本チャンでは別のジョギシューに履き替えていたハズ。

さて、7月早々、南アで「第1次夏合宿」を行う。北岳バットレス第4尾根をやっつけてから塩見岳越えのカモシカ縦走というトレーニングだ。いま思うと梅雨の真っ最中ですからネ、予定調和的にヒドい目に遭った。すなわち、スーパー林道が崩落したとかで夜叉神峠の先からエンエンと歩かされ、登攀はあきらめて雨の大樺沢を登ったら「ゴーロク豪雪」の名残が異常に多くてルートが不明、ハイマツの海をエンエンと泳いで、夜は夜でツエルト内が酸欠になって死にかけ、翌日やっぱり雨の中を、お荷物でしかない登攀用具で18kgくらいのザックのまま、12時間半を歩き通して三伏峠の無人小屋に転がりこんだら爆睡中にネズミにメシを喰われてビビったりしつつも計画は完遂して、やっぱり下山日だけはドピーカンになりやがる、などと天を恨みつつヨレヨレになりながら鹿塩の集落まで歩いた。
いやその。わがパーティの基礎体力は十分であるとの結論だけは得た(w


◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。
 
元「山ヤ」の体験談CM:14

ラード的山がたり ロック・デイズ(その3)

2010/02/25(木) 00:31:36

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【本チャン初リード】
この年、10月初旬、先輩M氏に誘われて谷川岳・一ノ倉沢でもっとも手ごろなルート「南稜」へ出かけた。ワタシを本チャンのトップで攀らせるためのトレーニング、だったハズです。まあ、調子は上向き、モチベーションもかなり高まっていたからグッド・タイミング。いや、むしろ時間が無い。この翌春にはワタシが主将を張らねばならんからだ。
なんか大それたハナシですが、理由はいたってシンプル。同期は実質ワタシのみ、だったからですネ(汁 それにしても「ワンゲル」なんか女子も含めて新入りが毎年ザックザクでうらやましい限りだが、わが部なんかヒトが集まらなくてタイヘンだったのだ。思い出したくもないネタですけど。

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このときが一ノ倉沢の奥へと分け入るワタシの初体験。本谷の雪渓がほぼ消える秋口は、テールリッジ経由のアプローチがメンドくさくなる。この日、南稜のルートで順番待ちをした記憶は無いな。

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南稜ってのは谷川岳でもっとも手ごろで面白い、すなわち首都圏在住「山ヤ」最初の1本とも言うべき「本チャン」ルートと、昔から知られている。近ごろは、さらにアルパインの名高いクラシック・ルートに昇格して、順番待ちがハゲしいらしい。
ちなみにこのルートの初登は、このときから遡っても半世紀ちかく昔、1933年の秋(「単独行」の加藤文太郎の活躍と同時期といえば、世相や装備が分かりやすいでしょう)、東北帝大のスーパークライマー・小川登喜男らだ。

冒頭の写真は、最終ピッチをリードしているワタシ。代わる代わるトップを担当する「つるべ式」で登攀し、このときはワタシがリードする番だ。記憶が正しければ、無雪期の岩を登山靴で攀る機会は、これが最後。短い中にも色どり豊かな内容のルートだが、やっぱり今では壁の様子を思い出せない。
まあその。それまでのザイルのセカンドなんか気楽で怖くもなかったが、かたやトップでリードするというコトは「落ちたらダメ」だから、それは緊張感がイヤ増す。もちろん、バカスカ打たれている残置ハーケンの利いてそうなヤツにランニングビレーをいくつか取っているが、それらに全幅の信頼など置けないもんね。
そんな奮闘をし、たどり着いた終了点で先輩M氏と握手した(したのだろう、きっと)ときなんか、脳内をアドレナリンがどっぷり渦巻いていたに違いない(w 「これは面白い!」。ついにワタシが岩に開眼したときだった。

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このときの写真を、もう1枚。おそらく終了点にて。背景の圧倒的なナメナメが「滝沢スラブ」の上半分で、もっとも長い左のヤツが第3スラブ、通称「3スラ」。美しい。ようやく初級ルートを初めてリードしたワタシですが、いつかコイツをやっつけてみたいと大それた野望を抱いた。そしてこのルートを初登攀したのが、松本龍雄。ワタシのヒーローなのだった。

じつは忘れられぬデキゴトがある。終了点から懸垂下降で取付きの南稜テラスに下って休憩でもしていたとき、だったか。エボシ奥壁のどれだかをやってきたらしい、どこかの大学山岳部パーティが話しかけてきた。「ドコやったんですか?」「南稜です」と先輩が答えたときの、彼らの表情について、だ。あからさまに「なーんだ」的なカオをしたんです。
むーん。そりゃまあ、しょせん南稜デビューのワシですけどね(汁 帰路、その先輩といろいろ話して「じゃ、お前、見返すようなルートを登れ」となった、そんな記憶がある。まあその。ワタシもその後、南稜というルートは下降のために使うだけになったけどね。
【追記:2010年3月】
すっかり忘れてた。下降ルートって南稜そのものではなかった。その隣りの「6ルンゼ右俣」が、アプザイレンの場所です。いやはや。

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【バイブルとの出合い】
「初登攀行」松本竜雄著(中公文庫、昭和54年9月・初版)。奥付に書いたメモを見ると、この年の5月末に買っている。今シーズン最初の本チャン、「幽ノ沢」をやった翌日のコトだった。
かつてこんな記事を書いたワタシだが、コレが人生で「もっとも影響を受けた本」に今でも変わりはない。パーマのロンゲをバッサリ切って髪型(慎太郎刈り、ですかね)まで真似たくらい、入れこんだ(w 氏は「目ぢから」がスゴイ。著作とか部室に転がっていた昔の雑誌の記事などを見ても、なんつーかもう、目がキラキラ。全盛時の超人っぷりといい、日本人には珍しいハンター系のヒトですね。
それにしても自分が生まれる前の出来事を描いた作品にこれほどハマるとは、なんてアナクロなワシじゃろか。げほごほ。

当時のワタシには決して読みやすい内容ではないハズだが、再読三読し、文庫本じゃ有り難味がないと、神保町「悠久堂」にて単行本(あかね書房・中古の初版)をゲット。それが数年後に置き引きでカバンごと盗まれるという失意を体験した後、高校時代の岳友「H」君が同じモノをプレゼントしてくれるなどという紆余曲折のエピソードまである。
ところで、有り難味といえばこの本が最強でしょう。うらやましい。「奥山章兄」と著者の関係が分かるヒトなら尚さらです。
さておき、文庫版では内容の一部が省略されている。それは氏の労働組合活動に関するネタで、最終章などは改めて読み直すと違和感を少し覚える。「60年安保」へと向かう、あの時代ならではの闘いではありますが、氏はその活動のために山から離れざるを得なかった様子。

ドコに惹かれたのかといえば、やはり著者の岩登りに向ける凄まじい情熱だ。著名な未踏の壁が日本にまだあったという幸せな時代に、鬼気迫る冒険をバシバシ行うパイオニアの実行力が、ヤングなワタシにビシッと刺さったのです。
これに先だって出版された氏の最初の著作「岩登りがうまくなる本」も、当然ながら初版の中古を持っているが、コチラでは岩登りをスポーツ的なフェアプレイで捉えようとしているところに氏の相当な先進性を見るコトができて、これまた唸ってしまう。

そして文章の良さも特筆もの。ルールに厳しい著者が日本で初めて「埋め込みボルト」を使うかどうか迷いに迷うあたりでは、その情景が面前にひろがるような男気あふれる内容にグッときた。
後にもご紹介するが、今では結構なプレミアムがついているらしい、谷川岳でのエポックな登攀クロニクルを集めた本「クライミング記録集・谷川岳」遠藤甲太編(白山書房、昭和57年7月初版・絶版)では、「初登攀行」をこのように評している。
「松本龍雄は戦後日本登山界が産んだ最も傑出したクライマーのひとりだ。足跡は、好著『初登攀行』にまとめられたが、ノンフィクション文学としても高い評価を受くべきものである」。

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先日、神保町の古書店「悠久堂」でゲットしてきた「岩と雪」75号(1980年5月発行)は、その文庫版を紹介した書評が載っている。

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平積みされた古雑誌の山からこの号を手にとってパラパラ見ていたとき、ワタシはすっかり忘れていた香り高きこの文章のことを電撃的に思い出したのだ。この号は手元に残っていないから、昔は誰かに見せてもらったのだろうか。とまれ、この書評のためだけに500円を投下して購入。この2枚の画像がその全文ですが、冷静な筆致のようで実は無茶苦茶ホットな評に即カブレて書店に走った30年前のワタシ。そして、この「初登攀行」のおかげで岩登りに対するモチベーションを徐々に上げるコトができたのです。

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【衝撃の連続写真】
「初登攀行」は個人的な啓示のハナシだが、同じころに、日本のクライマーのほぼ全員が思わず目をひん剥いた衝撃のネタが、コレでした。今は亡きクライミング専門誌「岩と雪」で、もっとも有名な72号。1980年1月の発行。後に「ミッドナイト・ライトニング」のルート名で知られる、ヨセミテでもっとも有名なボルダーの課題を攀るジョン・バーカー。

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日本のフリー・クライミングは、この「72号の衝撃」で実質的に始まった。戸田直樹、平田尚之氏によるヨセミテとコロラドでのクライミング体験レポートも印象的だが、やはりビジュアルは強烈。表紙を含めてこの連続写真にタマゲたのだ。
「V+」以上のピッチグレードが本チャンに存在しなかった当時の日本人には信じらんないムーブ、だけではない。登っている対象物が岩ではなく「石」だという事実と、「EB」というフラットソール・ブーツにジョギパン一丁というウエストコースト的なジョン・バーカーのカッコよさと氏の筋肉に驚いた。

今でもワタシはこの雑誌を初めて見たときの情景をクッキリと思いだせる。唐松岳ピストンと八方でのスキー、爺ケ岳東尾根から鹿島槍ピストンという正月をはさんだ10日ほどの山行を終え、久しぶりに部室に顔を出したとき、だったか。先輩M氏(南稜を一緒に攀ったヒトで、ワタシが1年坊主のときの主将)が大騒ぎしつつ持ちこんだ。「すげえよ、これ!」。
握力はナンボあるんじゃ、などと皆でワイワイ話しあったものだ。ところが、ワタシは今ひとつピンとこなかった。まあその。自分にはトンと無縁なイメージだったからでしょう。
以下の画像は、ジョン・バーカーのボルダリングについて記した平田氏のレポの核心で、画像3点組みでご紹介。

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ミッドナイト・ライトニングのボルダリング、ありがたいコトに「ようつべ」にいくつも「うp」されている。コレとかコレとか。コレは新しいモノだな。そして、最新のこの動画は、すばらしい。別格のクオリティです。現在でも十二分に難しいグレードの課題とのことだが、今ならアクロバティックなその身のこなしについては馴染みがあるでしょう。ところがそのときのワシらにはアゼンとする他なく、「じつは猿なんじゃねーの」などとと毒づいたもんだ。

ちなみに、未だその名前を忘れられないクライマー、ジョン・バーカーは、昨年7月、フリーソロの最中に誰に見られるコトもなく墜死した。「岩と雪」の後継誌「ロック&スノー」で追悼特集をしていて、昨秋ようやく気づいたワタシですが、その間30年の功績とかを知らずにホザけば、その死にかたすら彼らしい、というか。
バーカーの「ようつべ」もいろいろあるが、コレとかコレが面白い。そのミッドナイト・ライトニングを「かるーく」こなすシーンも出てくる。

【追記:2010年3月】
このボルダー「ミッドナイト・ライトニング」にこだわり抜いたヒトの素晴らしいエッセイを見つけました。
文中にも出てくるジミ・ヘンドリックスの、ルート名の由来となった同題の曲がコレ。ジミが死ぬ半月前のギグ、1970年のワイト島ライブから、どうぞ。

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この取材をしたのは1979年の初夏のこと。戸田・平田両氏は、すでに「5.12」という異次元の高難度ルートを攀っていた米国のエース・クライマー、バーカーの芸術的なボルダリングを目撃したワケです。平田氏のこの記事、最後のあたりで「石登り」と「軽業」なんつーコトバを交えての感想が、彼らが「柔軟な視点」を持っていたにも係わらず出てしまうトコロに、バーカーが演じたエキジビジョンの衝撃度を読みとっていただきたい。

かたや戸田氏のレポートでは、現地のクライマーに「10年遅れている」と、面と向かって言われた日本の岩登りの現状を憂い、アジりまくった文章が頻発する。そしてこのアジテーションが、バーカーのボルダリング・シーンとセットになって日本のクライマーに革命をもたらした。
すなわち、「登れないからこそ目の色を変えて、自らを鍛えたくなる。そこにトレーニングの意義がある。よい水のあるところにうまい酒ができると同様に、ハード・ルートがあるところにすばらしいクライマーが誕生する」。「ピトンやボルトを平気で打ち足す登攀とは早くおさらばして、夏でさえ登れないハード・クライミングが生まれなければいけない時期だ」。

ワタシは伝統的な山岳部という枠組みの、そのまたビギナー・レベルという時点でこの超絶クライミングの写真を見たから、大方のクライマーが受けたカルチャー・ショックというものは無かったと言える。しかし、ボディ・ブローを打たれたように、ワタシにもゆっくりと芽生えてくる意識はあったようです。

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今回、このあたりのネタを書くにあたって、日本のフリークライミング20年史をブッチャケて綴った面白本、「我々はいかに『石』にかじりついてきたか」菊池敏之著(東京新聞出版局・2004年8月刊)をジックリ読み直した。著者はワタシと同年輩の元クライミング・バム。鷹取山で今で言うボルダリングを先史時代からやってきた筋金入りで、勃興から発展期を含めてフリーのムーブメントの中心を知る人物だ。現在は山岳ガイドとのこと。

そのクチの悪い「ニッポン・フリー小史」を参考にさせてもらうと、バーカー・ショックが80年代突入直後の1980年1月のコトで、その夏には、小川山という無名の「ヨセミテ」風岩峰群がニワカに脚光を浴びてビシバシとクラック・ルートが開拓されまくっていく。
なんたって、当時の憧れの地・ヨセミテの象徴的ルートってのは、ワタシでも名前を知ってるこんなヤツ。見るからに指がちぎれそうな天井クラックだ。ついでに、そのルートのフリーソロ。ジョン・バーカーが目指したクライミングの世界がコレなのだが、いやしかし(汁

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一方、バーカー・ショックを発信した当の戸田氏らは、一般クライマーに向けて「フリークライミング」の布教とも言うべき、分かりやすい実践を行った。つまり既存の「本チャン」人工ルートをフリー化していったワケだ。当時は「日本全国Ⅳ級A1」と言われた、誰でも同じように攀れちゃう本チャン・ルートばっかという「閉塞感」を、このデモンストレーションで解放する役割を演じたという。
また、「RCCⅡグレード改訂委員会」として全国各地のゲレンデを回り、新たな標準ルールを広め、またたく間に全国平定してベクトルを統一、そしてフリーの信者を獲得していったという。

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この画像2枚が、先に「初登攀行」でも紹介した「クライミング記録集・谷川岳」のラストを飾るクロニクルで、1980年5月、戸田氏による一ノ倉の人工ルート2本を初めてフリー化したときの画期的なレポートだ。ともかくルートを選ぶセンスがキャッチーだった。というのも「コップ状岩壁・雲表ルート」ってのが、日本で最初に埋め込みボルト(手製)を使って突破された、その後の長い「鉄の時代」を迎える先鞭を付けたルートだからです。それをフリーで軽く片づけちゃうってのがインパクト十分。もう1本の「滝沢下部ダイレクト」も、戦前からさまざまな因縁が盛りだくさんという垂壁のボルト・ラダーを、やはり自らの手足のみで下したところが画期的だったのだ。

じつはプチ面白い相関があるんです。このコップ雲表ルートがフリーで攀られたちょうどそのころ、ワタシは「初登攀行」の文庫化を知った。そしてこの「谷川岳」クロニクルの最終章「コップ、フリー化」に付された編者のコメント、その最後に「烏帽子奥壁に懸かる幻の大氷柱が登られた」とある。これは発刊時の最新ニュースで、一ノ倉登攀史における長年の懸案だった課題。その大氷柱ってのは「初登攀行」の文庫のモノクロ表紙にバッチリ見えている。そして第2登されるまで20年も間が空いたというエポック・メイキングなアイス・クライミングを行ったパーティのひとりが、「我々はいかにして…」のオチャラケな著者・菊池氏だったりするワケで。一ノ倉、そこにはディープな歴史がある。

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【あのころのゲレンデ・ガイド】
改めて思い返すと、ワタシのささやかなロック・デイズとは、この日本全国「ハードフリー」化というブームの中で、地味にクラシカルな登攀(それも、せいぜい中級レベルなw)ばっか、追い求めていたコトになる。とはいえ自己満足感は今でもあるんですけどネ。ワシらに限らず、その「ニュー・ウェイブ」に食いつかなかった、乗り遅れたというコンサバ・クライマーも多かったハズだと思うのだが、どうだろう。
ヤングさんにはワタシの語りクチに違和感を覚えるかも知れないが、ワタシにとってフリー・クライミングは「後から」出てきた流行で、その遊びが日本に根づいたころにはアシを洗っちまったから仕方ないんです。

まあその。自分がやってもいないフリーのハナシを一方的に進めるのもアレだから、ココで「ゲレンデ」について触れておこう。
首都圏クライマーのトレーニングの場「ゲレンデ」といえば、当時は、戦前から有名な「三ツ峠」のほか、奥多摩の「つづら岩」や「越沢バットレス」、秩父の「日和田岩」(上の写真)、丹沢の「広沢寺」あたりがラインナップ。ほかに三浦半島の石切場「鷹取山」というのが知られていた。

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都下の学園から比較的近く、いつも空いていたから最も足しげく通ったのが「つづら岩 」。今では五日市線のどの駅で降りたのかも忘れているけどサ(w 先日、関東岩場ガイドみたいな本を立ち読みしたら、もう忘れ去られた岩場みたい。それはそれで悲しいな。上記のサイトで「オケラルート」ってのがある。この珍しい穴ボコくぐりだけは思い出すコトができました(w
そこが混雑していたら、近所にある小規模な「天狗岩 」でトレーニングした。ロンゲにしていた最後のころの肩がらみ確保をしているワシの写真が、天狗だったかな。
いずれにせよ、エスパース・テントを背負って、岩の基部で前泊(宴会もw)しながらトレーニングするってのは、学生の特権ですナ。

「つづら」には恥ずかしい思い出も残る。それは1979年の初夏、ワタシが山岳部に入りたてで、最初の岩訓練でソコに拉致されたとき。「肩がらみ」での懸垂下降訓練のときにナゼかザイルが外れ(ナゼだろうw)、外れちゃったらフツーは墜落するワケだが、ヘタレのワシには確保用のトップロープがもう1本結ばれていたからコトなきを得た。しかし完全に動転したワシは、地べたに降ろすべくトップロープをズリズリゆるめるセンパイに、一方的にイノチを託しているのが心もとないっつーか信用ならんというかで、「ひええ。もっとゆっくりやってくださいっ」などと半ベソで叫んだら余計にラフにザイルを流されたりして、半狂乱(w その確保用ザイルをむやみに握りしめて握力がゼロになったりと、アホ丸だしの苦い「岩デビュー」だったんです。

「広沢寺」のスラブは電車とバスを使って1回行ったきり。そんなに面白い場所ではなかったなあ。それよりも、当時は都心の大学が郊外に移転するブームで、小田急線の駅からゲレンデに向かう乗り合いバスの行き先が「青山学院大学」だったってのが、よほど印象に残っている。

「つづら」の次に通ったゲレンデが「日和田岩」。ココはそのころ「女岩」のハングがフリーで突破され、独自フリー路線を突っ走っていた先端のゲレンデだ。「ヤマケイ」誌でも、日和田に集うクライミング・バムのハードフリーに打ち込む日常という手記が載ったくらい、ハジケていた時期となる。
もっともワシらは、そんなヒトたちを「うおー。スゲー」などとクチ開けて見上げていたワケですが、いま振り返ると、日和田だけが「黒船」的クライマーを見られるトレンディ・スポットなのだった。
ココもテントで前泊しながらが練習した(傾斜のゆるい、カンタンな男岩のほうネ)ものだが、いつもヒトが多すぎのザイルがスダレ状ってのがタマに傷。

【秘密の特訓場を発見する】
この年の夏前くらいのコトだったか。週3でトレーニングをしていたワシらだったが、ランニング・コースのひとつに小さな池を湛えた「S公園」ってのがある。ともかく「使えそうな石垣」を探して鵜の目鷹の目だったんです。あるときワタシが「もしかして」とこの池の放水路とでもいう場所に降り立ったら、じつにナイスな「ゲレンデ」ってコトが判明。
人工の一片30㌢くらいの石垣をダイヤモンド状に貼りつめた、ドコにでもありそうな高さ2㍍ちょっとの涸れた用水路の両側面、その長さ(横幅)は10㍍くらいあっただろうか。もともと腕力はヒトより劣っていたワタシは、全盛時(体重60kg)で懸垂(もちろん両手なw)が12~3回くらいしかできなかった。
高グレードのピッチを攀るには、早いハナシがフィンガー・パワーの鍛錬が必須で、日常的にソレを鍛えられる場所としてココはうってつけに思えたワケ。この石垣の造形ってのが、たまたまトラバースの訓練にピッタリな小さいエッジの立ったホールドを拾えるもの。
◆ようやく、同じムードの石垣の画像を見つけた。あのその。背景がメインなんだからネ(w 
ジョギングシューズで両足はスメアリングか親指のハラで5mmのエッジング、左手指2本が第1関節(腕がプルプルしてやがるw)で右の遠く高い小さなホールドへ伸びあがってつかむ、なんてのをやったら、最初はわずか半周で腕が上がってしまったもんだ。

皆で書きつけていた「部誌」に大発見!とか書いたもんだが、ある先輩からは岩登りにマストな高度感がマッタク無いってのはどうかと反論が書かれたり。でもサ、それは当時にあって無いモノねだりだ。ある意味、恐怖感を覚えずにムーブだけ集中して訓練できるのが強みじゃんか、などとアカデミックにヘリクツをコネたりしたっけな(w

この1年後くらいに、日銀本店の近くにある「常盤橋公園」という江戸城遺構の立派な石垣がある場所でフリーのトレーニングを行うのがブームになったコトがある。ソコはワタシも何回かチャレンジしたもんだが、まあ、てんで小粒ながら似たようなヤツが近所にあるコトが嬉しい。慣れてきたら、落ちずに3周できたりした。トレーニングの成果が目に見えると励みになるもんね。

特訓場所について、もうひとくさり。部室の真ん前にケヤキの大木があって、ソコに先輩たちの労作「直登ルート」ってのがあった。いやその。ハーケンとロックハンマーでホールドを切ってあっただけだが(w 5㍍分はあったかも。しかしその間隔がけっこう遠く、また樹皮が盛りあがって丸まっちくなった第1関節3本がけのホールドでは、当初のワタシでは歯が立たなかったもんだ。あるとき某センパイがチャレンジ中、たまたま通りかかった学生課の職員に見つかって大目玉。それから登攀禁止の憂き目をみた(汁
他に、プレハブ長屋の部室の中で、むき出しになっている天井部分の鉄骨の梁にハーケンが4本ほど等間隔に打ちこんであった。ガッチリ効いてる。それをアブミの架けかえ、つまり「A2」の人工で渡るという荒っぽい遊び。狭い部室のテーブルの真上でソレをやられると迫力はあるがケトばされそうでオッカネー、そんなシロモノ。ああ。古き良き時代よ(w

【富国強兵の時代】
さて、そういう遊びや合宿や沢や岩をやっているワタシの山歴とまるで併走するように、フリークライミング(ごく初期には「ハードフリー」と言われていた)は猛烈なイキオイで発展していった。
たとえば、ジョン・バーカーのボルダリングを戸田氏らが見せつけられたのは、ワタシが山岳部に入部した直後のころで、それが「イワユキ」に載ってビックリさせられたのが、80年代を迎えた直後。
その年の夏には「小川山」「ミズガキ山」のクラック・ルートがビシバシ開拓され、グレード・アップもウナギのぼり。81年になると、伊豆東岸の「城ケ崎」という広大な岸壁エリアが発見、開拓され、今も続く人気の場所となっていく。
このあたり、諸外国に遅れをとっているのを取り戻そうと、勤勉な日本人が明治維新を経て富国強兵に走りまくったのとマッタク同じ構図だったりするワケだが、ワタシの関知していたのは、せいぜいこの「勃興期」まで。

この後、前述した「我々はいかにして『石』にかじりついてきたか」から引き続いて引用しますと、フリーの大きな流れは、ヨセミテかぶれのクラック登攀からヨーロッパ風前傾壁へとトレンドが変わり、高難度化とスポーツ化がさらに進行し、今世紀あたりになるとクライミングジムが林立して、インドア・コンペの隆盛と相まって「外岩」(なんつーコトバじゃw)に出かけるのはボルダーのみ、といった極端とも言えるセグメント・スポーツになっているとのこと。

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【ラード的ビッグバン】
そんな年の11月下旬、首都圏でもっとも遠くてもっともデカいゲレンデ「三ツ峠」を初めて訪ねた。ニューウェイブとは無縁と言いながらも、ともかくステップアップしなきゃという、アセリにも似たキモチを持っていたのだ。
この写真は「峠の岩」で異端的に有名な、トップロープで「Ⅴ+」のクラシックな課題「大根おろし」を攀るワタシ。このときから、こんなカッコに変身しているワケですが、これもフリー化の影響といってイイかと(w

大根おろし」は、それ以前の時代に重登山靴で攀るもっとも難しいグレードと言われていた。ワタシは「S公園」をジョギングシューズでトレーニングして実力を上げていたから、ゲレンデや本チャンも慣れ親しんだソイツで攀ろうとしたんですね。ところで、ジョギングシューズ(これ、そのころ一般化した「Popeye」語だったような)なんてカッコつけた呼びかたをしているが、じつはスーパーのワゴンセールで千円くらいのペラペラのノーブランド(w ただしグリップしそうなゴムソールを持つモノを、じっくりと選んでいた。
ともかく輸入されているフラットソール・シューズが「EB」しか無い時代で、そんな高価いのなんか要らんと、その後ほとんどの無雪期の岩はジョギングシューズで登攀したワシ。本チャンで「V+」のリードまではビビることなく攀れたもんだ。習うより慣れろ、ですナ。

【追記:2010年3月30日】
運動靴でクライミングするヒトなんか二度と現れないだろうから、少し追記しておこう。
当時、ジョギングシューズという呼び名が「ナウい」ものだったのは、一般ピープルにとっては確かなハナシ。そして「スニーカー」もナウかった。1979年の夏に流行った名曲「虹とスニーカーの頃」を思い出せ(w では、それまで何と呼んでいたのかと記憶をたどっても、イマイチ思いだせません。運動靴、だったかな。ワシの母は「ズック」と呼んでいたが、さすがに昔のその流行語はダサくなっていたのも確かだ。

そのころ全盛を迎えていた「平凡出版」のメンズ・ライフスタイル誌「Popeye」では、ウエストコーストの世界観を強烈に発信し続けていて、それまで高級スポーツシューズといえば「アディダス」が代名詞だった日本に、新興ブランド「ナイキ」を周知させたものだった。ブームを牽引したのはジョン・マッケンローだったと思うけれど。何しろ当時はテニスをやっていないとナウくなかったからな(w 「山ヤ」なんざ、どんだけ学園内で肩身が狭かったコトか(汁

ところでジョギシューのワイズは「D」くらいのモノしかなく、典型的バンビロ足型のワシがジャストサイズを履いていると両側の小指あたりのナイロン地が徐々に破けてきたもんだ。それでも1㌢程度のフットホールドなら親指のハラで余裕で立ちこめるくらい熟練したのだが、ワタシが履いたことのない現在のクライミング・シューズよりは、絶対に攀りにくいモノだったハズ。
後に登場する新人の「O」は、フザケたことにナイキのナイロン「コルテッツ」なんつー高級品で本チャンをやっていた。アナが開いたらもったいねーッス。「このプチブルめが」などとイヤミをカマしたもんだが、ちなみに今でもそのころに刷り込まれたブランド観は強固で、コルテッツはフツーに愛用しているワタシです。(追記ここまで)

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ハーネスも替えた。南稜まで使った重たい全身用「ICI森田モデル」を、「トロール」のスワミベルトに12mmくらいのテープをレッグループに組みこんだ半分手製のモノにしたんです。コイツを巻いていて落ちたコトは無かったが、しかし強度は十分だったのか、いま考えるとオッカネー(汁
この写真は、たしか「地蔵左」ルートといい「Ⅳ」だったかな。このときもテント泊だったハズだが、主に岩場の右側のショートルートをアレコレとトレースして、大いに自信をつけた。

そのイキオイを駆って、12月の初頭だったか、奥多摩の「越沢バットレス」へ出かけた。ココはマルチピッチの難しいゲレンデで知られていた。そしてついにワタシは「Ⅴ」のリードを攀れたのだった。何というか、自分の臆病な「シバリ」を解放できたような、強い高揚感を覚えたもんでした。これがワタシの「ビッグバン」。
しかしモンダイは、これから半年近く無雪期の岩登りをできなくなるスケジュールだってこと。やっと楽しめるようになったのにと、なんか切なさを覚えたもんだ。岩登りとは本チャンの登攀だったから。そしてこの3週間後、ワシらは「ゴーロク豪雪」の八方尾根を、ヒイヒイ言いつつラッセルしていたワケでしてね。

ワタシは、主将として部をまとめたこの翌年度にアレだけ岩登りを集中的にやろうとは、この時点では思ってもいなかったんです。まあ、部員構成の流れで、そうなった。
この同時進行的な「フリークライミング」勃興期と併走して感じたことは、まず、クラック登攀とかは指が痛そうでイヤだった。当時のフリーとはクラック・ルートを差したからね。また、腕力イノチの人工ルートはパスしたかったワタシなんだから、より力量が丸見えのフリーには興味が向かないしサ。
それから、フリー・クライミングだけに熱中するのはムリだなと、ハナからあきらめていたコトも事実です。ほら、オールラウンドの登山を標榜するから、「同好会」みたいな浮き草的ブカツ、ソレをしたくてもできなかった。
しかし、何より正統的に自分の登山を組みあげたかったという思いが強くあって、そんな中から、来年はトラディショナルなフリーを主体とする超ロング・ルート「一ノ倉・3スラ」を目標にしてやれ、そう考えたワタシだった。


◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:6

ラード的山がたり ロック・デイズ(その2)

2010/02/11(木) 23:50:26

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1年ぶりに、続きを書こう。

◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。

【山岳部とロック・クライミング】
2年生になったワタシ、いよいよ「本チャン」の登攀(とうはん)が多くなってきた。「オールラウンドな登山」を標榜するわが部にとってロック・クライミングは避けて通れない課題なのだが、じつはワタシ、1年の新人時代には「岩登りはキライなんですぅ」などと諸先輩に泣きゴトを言ったくらい、苦手意識を持ってもいた。高校のときには単独で沢の滝に取り付いてたってのにネ。
この年、そんなワタシに、なんというか「ビッグバン」が起こる。今回は、そこに至る道のりをご紹介します。

ワタシが現役時代の岩登りといえば、それは「本チャンの登攀」を指す。本チャンとは今でいう「アルパイン・クライミング」。誰でも知ってそうなクラシック・ルートで言えば、北岳バットレス第4尾根とか谷川岳一ノ倉沢南稜とかですね。どっかのブログで「アルパイン=エイド(人工登攀)」なーんて書いてるヤツがいたけれど、それはとんだ思い違いで、本チャンとは「人工登攀」系と「自由登攀」系という2系統があったワケ。

当時の岩登りがどんな装備で行われていたか、昨秋、ドンズバの動画を発見しました。1973年制作、研修用教材と思しき映画。基礎編と応用編で、3話ずつ計6篇が「うp」されています。なんたってワタシの愛読書「なんで山登るねん」の著者、高田直樹氏(黒メガネ、あごひげ)がモデルってのがイカス。
当時は燦然と輝くザックの雲上ブランド「ミレー」の「グランドジョラス」(だっけ?)を背負ってる。ザイルの結びかたとか、懐かしいな。ブーリン(今でも自分の胴で即結べる。カラダで覚えているらしい)、エバンス、8の字、プルージック…。応用編では装備群の中にカムナッツが見えて驚かされるが、だいたいウェアといい装備群といいワタシの時代と同じようなムード。いやしかし、まったく懐かしい気分にさせてもらえる作品ですナ。

さて、本チャンを攀(のぼ)るためのトレーニングの場を「ゲレンデ」と呼んでいた。首都圏近郊にいくつかある天然の小さい岩場で、ソコで先輩たちに基礎から学んで修練を積んで、そうして一ノ倉とか穂高などでの本チャン・デビューを目指す。
いまなら首都圏にいくつもあるという「クライミング・ジム」に通って、それこそ毎日でも取り付いて動作に慣れ、高度感に馴染み、テクとパワーを磨くコトはできるだろう。その整ったインフラはものすごく羨ましい。何しろ昔はゲレンデまで出かけるのにも労力がかかったからね。

その当時、岩登りをする目標ってのが、より難しい本チャン・ルートを攀ること「のみ」にあった最後の時代、とは以前にも述べた。あとで触れますが、1980年1月発行のクライミング専門誌「岩と雪」72号に載ったジョン・バーカーの「信じられん」ボルダリングの連続写真と、それを撮影した戸田直樹氏らによるヨセミテ取材記事が日本のクライミング界に衝撃を与え、それ以後、ビシバシと自己変革が始まっていった。
そういう先鋭の流れに乗りたいクライマーは、大学山岳部などよりも社会人山岳会の門を叩くべきだったろう。限界を追求したい、自分の名前をルートに刻みたい、そんな情熱家にとってはだ。

ワタシには、しかしそんな上昇志向なんかマッタク無かったけどネ。大学のブカツなんか「コンサバ」もイイところだもんね。「体育会」所属の組織のクセして、コンペティションという行為が無い、自己研鑽のための活動ってのは、いま思い返すと特異な存在でしょうね。
ただし今から30年前の当時も、そのまた20年前でも、大学山岳部というのはルーティン的な活動で、記録に乗るようなな先鋭的山行はできない、しないってのが事実だった(ごく一部を除いて)。
わが部も、メイン・イベントが3月に行う長期縦走合宿で、その1年間の山行は、本チャン・ルートの登攀も含めて全てが、その春合宿のためのトレーニング山行と位置づけていたのだ。
大学生としての登山活動は、たかだか3年間ちょっとだから、その中でオールラウンドな登山を目指せば、それは「広く浅く」という内容になる。部員の育成も重要ですしね。
とくに他の体育会団体と異なるのは、山岳部という組織はそのリスキーな活動内容から「遭難対策」という側面を欠かせない点で、そこは社会人であるOB会のネットワークにハゲしく依存していたのだ。万一の場合の人材面でも、また資金面でも、先輩諸氏の好意に依存して合宿や個人山行をしていたのは事実で、それゆえに「コンサバ」な山行となるワケです。

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【バットレスと幽ノ沢】
おっと。ウザいハナシがまた長引いちまった(w では、楽しそうなネタを投入しましょう。
このGW、谷川岳での新歓・雪訓合宿を終えてから、個人山行が活発化していった。5月から6月にかけて、谷川岳幽ノ沢での本チャンを2本と、北岳バットレスを攀ったのだが、その前後にも、裏丹沢のエビラ沢とか、日和田岩、つづら岩での岩訓練を行っている。なんか、晴れていれば毎週でも出かけていたんじゃないか、そんなイキオイです。2年次のワタシの入山日は、ちょうど100日を数えた。

ロック 北岳1

ひとつ上の古ぼけたモノクロ写真は、いささか時代が前後しますが、1977年7月、南ア・鳳凰三山。高3当時のボクがフレッシュでしょう(w 今ではリッパなタレ目だが、当時はキツネ目だったのです。加齢ってのはザンコクだ。さておき、「背景」に注目していただきたい。大樺沢の上に凛々しく展開する岩壁が、「北岳バットレス」。その左側に弓なりに長く伸びる岩稜が「第4尾根」だ。

北岳 2

ワタシはこのルートを、6月初旬にK先輩と攀った。この日は快晴だった。そのまま縦走に出て、両俣小屋を経て仙丈ケ岳へ登り、伊那へ下ったと記憶する。ルート図に「マッチ箱のコル」というポイントがあり、この翌年に地震で崩落してしまうピナクルが、このときはキチンとあった。
すべてセカンドだったが、今でも覚えているのが、マッチ箱から先の「Ⅳ」のフェース。ワタシの足元はゴローの重登山靴だったが、つま先の小さいホールドがツルッと外れ、アレレという間に両手指も支えきれず、およそ50cmくらい落ちてザイルにブラ下がったワケ。ケアレス・ミスだ。「あー、ハズカシー」ってな軽いムードで、その後はフツーに攀りきってビレイ点に着いたら、先輩が「お前、さっき落ちたろ?」。「う…。バレてましたか」、そう嘯(うそぶ)いたら、「あったりまえだ、バーロー」とお見通し。えらく怒られた。いやしかし、本チャンの登攀では絶対に落ちてはいけない、そうキモに銘じた一件だった。

ロック 谷川挿図

このバットレスをやる直前、5月下旬には谷川岳・幽ノ沢の「左俣中央ルンゼ」を攀っている。幽ノ沢はこの動画で旧道の出合から見上げたシーンが美しい。目標ルートは滝になっているルンゼのすぐ右の凹状ですが、この岩場に取り付くには雪渓で埋まった入梅前のほうがアプローチがラクですナ。

谷川岳・東面

そういえば、谷川岳の岩場で「一ノ倉」のみに偏っていないのがワシらのエライところだ(w というのも、ワタシの身元がアレになるからナニしますが、このあたりの「岩」をヤルのに最適なBC(ベースキャンプ、非営業の山小屋)を母校は持っていたワケです。ソコから出撃して堅炭尾根などを下って戻ってくるから、良好な行動拠点を持つメリットがあった。

ロック 左俣ルンゼ

さて、ルートは先輩2名に連れられてオールサードで攀っているのだが、今ではほとんど記憶がない(「コレが小ハングの乗ッ越しってヤツか」くらいで「Ⅴ-」のピッチはトンと覚えていないから、楽勝だったんだろう)が、こんなルートとのこと。
お天気がどうだったかも覚えていないが、コレが前年8月の剱・八ツ峰以来となる「本チャン」となった。豪雪に磨かれた幽ノ沢の岩場ならではの白く輝くありさまを、記事の写真たちで懐かしくちょっとだけ思い出しました。

ロック V字

6月下旬には、同じく幽ノ沢の「V字状岩壁・右ルート」を攀っている。梅雨の中休み、だったのだろうか。たいしたグレードではなく、やはりルートの記憶は残っていない。ところで、この参照サイトの上から2番目の画像が秀逸です。あらためて幽ノ沢の全容が見てとれるステキな写真だ。

このルートの思い出、じつは別にある。同じ「V字」の難しいほう、左ルートをやったパーティの悲劇だ。社会人になってから北海道のキャンプ・ツーリングを一緒に行った同期の「S」のコトなのだが、セカンドで確保中にトップが墜落。ハーケンを飛ばしつつ10㍍以上も落ちたのを「肩がらみ」ビレイで止めたのは見事なのだが、彼の背中はシャツを着ていても流れたザイルで皮膚が焼け、背中一面「袈裟懸け」状のケロイドが残るキズを負ったのだ。その晩、BCに戻って痛さにモンゼツしている彼に向かってつぶやいた、落ちた某センパイのヒトコトが伝説的だ。「傷口にキンカンを塗ってやろう」(w

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【岩の殿堂へ】
次の岩登りは、北ア・北穂高岳の「滝谷」。縦走合宿の打ち上げ後、そのまま岩の殿堂に定着して、数日間を遊ぶという準合宿のような山行だった。このころになるとワタシも岩に馴染んだというか、自信がついて恐怖感が拭えたというか、ヤル気が充満していた。とはいえ、未だ修行的な「ザイルのセカンド」時代が続いている。それでアセリを覚えるなんてコトは無かったけれど。

ところで、その第1次夏合宿の北ア・南下コースの縦走ってヤツが、いま振り返ると結構すごい。ちなみに、こんなのだ。黒四ダムからハシゴ段乗越経由で入山、剱をピストンして立山から薬師岳へとひたすら南下、太郎平から赤木沢をワンデイで遡行し、黒部五郎から鷲羽岳経由で雲の平に入って休養。続いて竹村新道を湯俣へ下り、北鎌尾根を登り返して槍から北穂で涸沢入り。休養後、ザイテンから奥穂に登って西穂経由で上高地に下山。
これで夜行11泊12日、そのうち2日が休養日というスピードだもんな。しかしまあ、4~5人用のエスパース1張りに5人で暮らした真夏の苦行、ではあった(w
その合宿をいったん解散させて、新たな参加者も含めて7名で、そのまま涸沢経由で北穂の幕営地に舞い戻ったワケ。むーん。充実している。縦走時は雨の日が多くて天を呪ったものだが、滝谷では微笑んでくれたようだ。

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記録によるとワタシは4日間で5本を攀っている。このときは入門的なグレードのルートばかりだが、やはり大正時代の昔から燦然と輝くアルピニズムを育んできた殿堂ですからね、荒涼とした光景の中に凛々しさを覚えたワタシ。ココで逝った先達が、はたして何百名いるのか詳しく知りたくはナイが(汁

【追記:2010年7月10日】
「滝谷」岩壁群のすばらしい画像を見つけたので、引用させていただきます。元ネタは、「ヤマレコ」のこちらの記事。うーむ。大キレット周辺の正しい光景とは、このように見えていたんですね(汁

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この画像の解説を少々。カメラは真南を向いている。手前は南岳の小屋で、「大キレット」越しにテラテラと赤く映えているのが「鳥も止まらぬ」滝谷の岩場。左端は「前穂」のピークと北尾根で、その右にある広い山頂が「北穂」。右側の南峰で、3,106㍍。ピーク左端に「北穂高小屋」も見えているが、ココでは分かりづらい。そして滝谷の奥にある広いピークが「奥穂」で、右端に「ジャンダルム」。

この画像は昨年9月の撮影とのことで、滝谷の主だった本チャン・ルートも良く見えている。この合宿時に攀ったルートを示すと、北穂南峰から右下に明瞭な45度角でスイーッと落ちるのが、「第2尾根主稜」なのだが、その上から3分の1あたりが「P2」(2番目のピーク)で、こちらに四角く腹を晒している日陰の尾根側壁が「P2フランケ」ってワケだ。
ところが「P2フランケ」は、1998年夏の大地震によって丸ごと崩落してしまい、それから10年を経たこの撮影時でも、むき出しの白っぽい壁の様子が見て取れる。
第2尾根の向こう側に、これは分かりやすい「滝谷ドーム」。なんとなくヨセモテの「エル・キャピタン」に似てないか? ドームで影になっている部分が「北壁」。右半分の「西壁」の右端のエッジ・ラインが「ドーム中央稜」。そしてドーム奥側から右下まで落ちているのが「第3尾根」。ちなみに陽の当っている部分の最も奥が「第4尾根」だ。
(追記ここまで)

ドーム北壁写真

8月3日。最初はアプローチがラクで短いルート、ドーム北壁の左ルートへ。3名パーティだが、トップがセカンド2名を同時に確保する登りかた(なんて名前だったか、忘れたw)だったかも。ちなみに壁の画像は「穂高岳の岩場」(山と渓谷社・1979年発行・絶版)より。写真ではおっかない印象を与えるが、ルート内容は単調だった、ような。

3尾根写真

8月4日。第3尾根へ。ガレキを敷き詰めたような急峻なルンゼ「C沢左俣」をガシガシ下っていくアプローチの方が印象に残るな。
このときの足元は、北穂のサイトでくつろぐバッチイ(もう3週間くらいフロに入ってないハズw)けれど引き締まった(このころは、通常なら61kgくらい。こんな長期の合宿で58まで減った!などと喜んでいたワタシ、つまりスリムだったワケじゃん)ワタシの写真で分かる。ニッピンの皮製登山靴だ。ゴローは冬の登山用に温存するコトにしたのだった。
ガラガラの滝谷でのアプローチに重登山靴は適している。コレがフツーの岩登りのカッコという時代の、最後のころですね、そういえば。たしかこの年に社名変更した「アシックス」がリリースした登山用スニーカー「ガントレ」(トレラン用シューズの元祖みたいなモンだ)ってのが一部でブームになったものだが、しかし荒れ果てたこのエリアにあっては1日で穴が開きそう、そんなムードです。


3尾根トポ

初登が1931年8月という滝谷でもっともクラシックな尾根ルートは、ガスってなければ眺めがバツグンだ。この記事最初の画像、青いゴアテックス・ジャケットがマブい登攀中の写真は、この「3尾根」の上部で撮られたモノ。今となっては思い出せないけれど、こんなショート・ルート1本で登攀を打ち止めするとは、昼前あたりから雨でも降り始めたのかも。

ところで、いきなり思い出したコトがある。途中参加のOBの差し入れのブツについて、です。
合宿中の小屋での買い喰いは厳禁で、実直にそれを守って(ま、そんな小遣いも持ってないしw)半月ちかいワシらに、その差し入れは燦然と輝いていた。ナニかというと、「QBB」のチーズだ。業務用っつーんですかネ、長さ25cmくらいの一本棒。それまでのメシが粗末もイイとこだったから、チーズのあの味が美味くてたまらぬ。たしかワシひとりで5cm分くらい、バクバクいただいてしまった。当時の合宿でのメシは、ある意味で極限状況と言って良いシロモノだったからなあ(汁

P2フランケ写真

8月5日。第2尾根「P2フランケ」の易しいほう、「芝工大」ルートへ。フランケとは側壁という意味。記憶がオボロなのだが、たしかこの登攀の途中でトップがコブシ大の「ラク」を出したのだ。見上げていたワタシがアタマを丸めた後ろを「ブンッ」と落ちていった。オッカネー。

P2トポ

ところで、この壁の記事をネットで検索してもナゼか昔のネタしか見つからない。そういえば、10数年前の地震によって登攀禁止となったルートがいくつかあると何かで読んだコトを思い出した。そこでググったら、この記事を見つけた。そうか。ゴッソリと崩れ去ったワケか。なんか切ないね。

実際、ワシらが攀っていた30年前でさえ滝谷の岩はグズグズな部分が多かった。老年期に入った地質(岩と砂だけど)とでも言うんでしょうか、危険なほどに腐っていたのだ。この翌年の夏のコトだが、どのルートだったか、ホールドはいちいち叩いて引っぱって確かめながら攀っていたのだが、OKと判断したホールドに荷重したら周辺ごとひとかかえ(50㍑のザック大)もスッポ抜けて、轟音とともに落ちていったという茫然体験がある。そんなのが下にいるヤツに当たってしまったらと考えると気が気じゃない。人為的な「ラク」は、食らうのも出すのもイヤだからね。
昨年の夏、28年ぶりにこの北穂の幕営地で張ったワタシはクライマーたちがいないことをフシギがったもんだが、今ようやく納得できた。
「ヤマケイ」誌の2008年7月号に大キレット縦走の紹介記事があり、その中にヒントが書いてあった。少し引用します。「忘れもしない98年8月16日未明、群発地震でも最大の震度6といわれた地震が発生。その日の午後、この稜線に行ってみると、まるで将棋倒しの駒を積み上げたように浮き石だらけで、とてもではないが登る気にならない」。

ドーム北壁トポ

8月6日、この日は2本やっている。まずはドーム北壁・右ルート。左よりはキモチ難しい。快適にフォローしたような記憶が、うっすら残る。

中央稜トポ

この夏最後のルートは、ドーム中央稜。グレードからすると最も難しいというコトになる。Ⅳのピッチが連発だからね。この動画(後半)を見ると、なかなか攀りごたえがあり楽しそう。む。やっぱり覚えてないッス(w

さて、「滝谷の日々」を終えたワタシは、けっこう岩登りに対する自信をつけたと思う。怖いよりも面白い、楽しいという感情が勝ったというワケだ。ラード的モチベーションの「ビッグバン」が起こるのは、この直後、10月の「一ノ倉沢・南稜」を攀ってから。そしてその燃料になったのが、この年5月に買って耽読していた「初登攀行」の文庫本。それらは次項で述べていきましょう。

元「山ヤ」の体験談CM:5

山について思ったこと 弔う死・手痛い温床

2010/01/25(月) 18:30:07

昨年7月のトムラウシ遭難事件で、先月、こういう新聞記事が載った。

もちろんホントは昨年中に仕上げる予定だったネタ、なんですがネ(汁 ワタシは同じ記事を、通勤時の日経新聞社会面で読んだワケであって、昨夏の大事件として「日経」でもかなり大きい扱いだった。そして、えらく久しぶりに懐かしい人の名を見た。

事故調査委員会・座長の節田重節さん。氏はワタシがもっとも多感な時期(うひゃw)に、「山と渓谷」誌の編集長だったヒト。高校2年になったころから、ヤマケイ誌を毎号買うようになった、とは以前にも書いたネタですが、書物や雑誌でしか登山技術を知る・学ぶ機会がなかった30数年前のワタシにとって、同誌は有意義なテキストだったのだ。さらに古本屋で面白そうな特集の「ちょっと前」のヤマケイや「岳人」誌を見つけると、買い足してもいた。
そうして、ワタシが高校山岳部に入った1975年の「ヤマケイ」の表紙写真が、この節田編集長が登場するシリーズだったのだ。氏が各地の山で出会った人たちと一緒に収まった朗らかなスナップってのが1年間くらい続いていたのを今も覚えている。なんつーかもう、折り目ただしいヒトに違いない、そんな印象的なお名前だからでしょう。

言わずもがなですが、雑誌の表紙には編集長の方針・主張が込められている。ワタシが向学心を持って買い始めた高2時代の1976年度は、そのころ上り調子のクライマー、山学同志会の川村氏が毎号の表紙で活躍していた。
や。ついでに思い出した。ワタシの山のバイブル第2号、「なんで山登るねん」は、この節田編集長のアイデアでヤマケイ本誌での連載がスタートしたのだった。編集長が高田直樹氏をうまくおだてて実現に持ち込み、叱咤激励しつつ2年間ほど書き続けさせる、そんなエピソードが後に大ヒットしたそのエッセイ群をまとめた単行本に書かれてれている。

ところで、参考になる画像を求めてググってみると、この1976年あたりの「ヤマケイ表紙」ネタが即ヒット。おお。何とすばらしい。
この記事写真の右下、バンダナにナッツをぶらさげて攀るアメリカンな表紙の号が、ワタシが初めて買ったヤマケイなのです。その直前の4月号(左上)のデカいパックフレームを背負ったバックパッキングの表紙も、そういえば覚えている。ナッツぶらさげてクライミング中の足もとがラバーソールのブーツを履いているかは覚えていないが、はたして当時の国内でそんなヨセミテ流クライミングを実践していたヒトなんか、いたのだろうか。
この表紙シリーズは、あの時代のアウトドア遊びの新たなトレンドを紹介しているかのようだ。そもそも「アウトドア」なんつーコトバ自体も、このころに初めて登場したのではなかったかしらん。ちょうど「Popeye」誌が創刊したころでもある。ファッショナブル(死語?)なヤング(死語?)たちが、シェラデザインズの60/40マウンパとかノースフェイス製ダウンベストをヒケラカシながら着ていた時代だ。

閑話休題。タイトルにした「弔う死」とは、ご想像のとおり、昨夏に「2ちゃん」で飛び交ったコトバです。不謹慎のようでいて正鵠を射るネーミングと思うんですが、どうだろう。「手痛い温床」とは、低体温症をイッパツ変換すると、こうなる。コレも何やら暗喩のような含みがある、よーには見えませんかネ(w
そのトムラウシ大量遭難事故を俯瞰した検証は、ヤマケイ・岳人両誌の10月号(だったかな?)にも載っていたし、また、こういう踏み込んだ検証動画も「うp」されている。

最初に貼った事故調査委員会の新聞記事を要約しまくると、こうなる。ツアー・ガイドたちのマインドおよび経験値が低レベルであること。危機管理面でずさんな運営。そしてツアー参加者たちが持つ3つの問題、すなわち工夫ができないという低レベルのアウトドア・スキル、名のあるツアー会社だからと妄信すること、それによって事前に調べたり研究するという当然の事前作業を行わない甘えがあったと。
こうした原因がからみあって、起こるべくして「再び」起こった遭難というワケですね。と言うのも2002年にも同じ山、同じ状況で前例となる遭難があったのだ。この新聞記事に書いてあるコトバ「小屋を出なければ、何も起きなかった」、これが発端としてふたつの事件を象徴している。

ところでワタシの感想としては、これからも「ツアー登山」などというイベントには参加するつもりもなく、また「アミューズ」をはじめとするツアー主催社の(えてしてアコギな)実態も知らんワケで、ココでは触れない。しかしながら、ツアーの参加者たちに対しては思うところが多い。ソコについて述べていこう。

というのも、こんなレベルなんだもん。ナニもここまで「お客さん」マインドを極めなくてもイイではないか。マッタク(w ハイキング・レベルを超越した山岳、トムラウシでサ。もちろん、こんなシロートさんはごく一部だとは思う。しかし、ひとつのパーティとして行動する場合、これらのヒトは言いかたが悪いが「地雷」となる。たまたま同宿や同道した他者も巻き込みながら、歩く地雷となる。

言わずもがな、登山の世界は「自己責任」が基本です。ハナから誰かを、また何かを頼って行く場所ではない。最近では、そんな基本すら理解できずに「山に入れちゃう」というイージーなシステムがあるという点に、留意するべきだろう。
以前とは違って、ネット環境と少しのPCスキルさえあればナンボでも無料でさまざまの情報を得られるワケだから、何ひとつ準備を行わないヒトって余計に始末が悪いと思うんだが、どうか。
前述のわがバイブル、「なんで山登るねん」にあった印象的なコトバを改めて紹介しよう。「山ではおんぶに抱っこと、何でもせんとイカン。せんでもエエのは、産婆だけ」。

ワタシ、もちろん人助けをするのがイヤってワケではない。でも、自分の準備不足を棚上げしてヒトさまに当然とばかりの施しを受けてたりする、「山ヤ」の風上にも置けない輩が気にいらんのだ。え。いやいや。登山の領域に分け入ってくるかぎり、誰だって「山ヤ」であります。「山ヤ」であることを求められるのです。甘えんなよナ。
たとえば、どっかのブログで見たネタですが、ある登山時にひどい頭痛が始まったのだという。もったいねーと感じたのか進むことに決めたから、さあタイヘン。ドロドロのヨレヨレで目的地に辿りつき、その後、見かねたキャンパーから頭痛薬を恵んでもらってコトなきを得たとかナントカ(w これが高校生ならカワイイかも知れんが、小きたねえヒゲを生やしたアラサーの兄ちゃん(当該ブログからカクニンした)だから冷笑もの。あまつさえザックの軽さとパッキングの小ささを自身のブログでネタにして、いつもジマンしているらしい。それにしても基本医薬品すら持ちものから省いてひけらかす「ちっこいザック」って、どんだけ。あはは。 

さて。7月の、たかだか2千チョボチョボの山、しかしながら北海道という別格のロケーションにあるトムラウシでバタバタと倒れた原因が「低体温症」だったという。ラード的には「おニュー」なコトバ、ですね。ワタシが馴染んでいるのは「疲労凍死」だ。この記事によると、疲労凍死は「見た目の様子」であって、低体温症はその「原因」、という解釈でイイのかな?

20年くらい前の「ヤマケイJOY」みたいな雑誌の印象的な記事を今でも覚えている。ある年の8月、北ア・白馬岳の夏山取材レポだった。大雪渓で遭難者が出て、そのヒトを回収している現場に出くわした、というネタだ。「うーむ」と唸ったのは、遭難者が30歳前後で、ビギナーではない単独行の男性。そんなヒトでも夜行列車で入山して、岩陰で冷たい雨を避けながら「ほんのちょっと」居眠りをしたら、そのまま昇天してしまったという。これが疲労凍死。ヒトってこんなカンタンに死んじゃうワケか、と驚いたものだ。
昨年7月の、こんなニュースも「うp」されている。このショップはICIの神保町本店ですナ、正しいチョイスだ。内容は一般の視聴者に発信しているものだろうが、夏山しか考えていないビギナーたちは、もしかしたら知らないヒトも多いのかも。まあその。いかにワシがイモ野郎とはいえ、こんなアルミホイルにくるまりたくはないですが(w 

若いころのワタシはカラダもメラメラと燃えていたから、今では信じられぬくらいの薄着で真冬の3千㍍に暮らしていたし、指は1本も落とすコトなく健在だ。まあ、その程度の山行だったワケですが、当時は「末端あったか症」と自分でネタにするくらい、凍傷にはなりそうもない優秀な手足だった。
そして、上記の装備アドバイスにあるような「濡れても冷えない」ウェアの工夫を取り入れるのは、恥ずかしながら、じつは結構あとになってから。最初の冬山である奥秩父・金峰山(高2の12月、山岳部の友人と2名で、増富からピストン、小屋泊)を登るにあたって、オヤジの着古した「ラクダ」の下着上下をもらったときだった。当時の機能素材なんて、ラクダとウールくらいしか無かったワケです。
それまでは、あまり汗をかかない体質だったコトもあり、フツーのコットン製Tシャツで夏の北岳だの赤石岳だの丹沢の沢登りなんてのを行っていた。それでヒドい目に遭遇していないのは、ただのラッキーか「末端あったか症」のオカゲだったのか。
そういえば、この記事を「うp」した後、当ブログに「末端あったか症 そんなもの ない」とかゆー香ばしいワードで検索にきたバカがいた。そりゃ、ないわサ(w ワテクシの勝手な造語なんだから。ま、そんなマヌケでも啓発にあふれた当記事をお読みくだすっているワケですね。へえ。

そんなころ、自発的に立案・実施した個人山行で今も忘れられぬ「つらい目」に遭遇したときのハナシを、恥をしのんでご紹介しよう。かつて、ワタシにも遭難予備軍のような登山体験があったのです。

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写真は八ヶ岳山麓、清里。背景はこの山行の目標、主峰の「赤岳」。2,899㍍。高校2年生になったばかりの1976年、GWのことです。山岳部の同期のヤツと2名で真教寺尾根からピストン、頂上小屋で素泊まりする「夜行1泊2日」という予定。蛇足ながら、まだ「清里」がクソ恥ずかしいメルヘンチックに町に変貌する直前で、タダの高原の寂れたオミヤゲ街だった。

ともかく、このときのウェアが無知もいいトコなのだ。コットンTシャツ+デニム長袖シャツ、千円くらいのナイロン・ポケッタブルかぶりヤッケ、帽子の類はナシ、下半身はコットンのブリーフ、ウールのニッカー、靴下はニッカホーズとショートのウール2足、靴はタダのナイロン製「元祖」キャラバンシューズで、当時はまだピッケルとかアイゼンは触ったコトすら無く、さらに綿軍手だ。防寒着はウールセーターとボア襟付きナイロン製ドカジャン。
右に見える紺色のパックフレームが時代を感じるでしょう。この山行のために買ったモノだったか記憶はオボロだが、三信製織というメーカー(現存してますナ。昨年、「ウィルダネス・エクスペリアンス」という懐かしいザックのブランドをリメイクした)の「ワイルドグース」というブランド。いま思うとチャチな造りだが、当時は愛用のマイ・ザックではあった。アウターフレームのバックパック、そのころ「だけ」流行ったワケだが、欲しくてね。それまでデカいザックといえば山岳部共同装備のカビ臭いキスリングしかなかったからネ。
オレンジのヤッケは、この日、登りルートのどこだかで休憩時に置き忘れるというお仕置きつき。胸に見える「2」という紙製のタグは、ブタ混み状態の中央本線の乗車指定票(指定席券ではなく、自由席の2号車に乗ってよろしいという権利だ)だと写真裏面のメモにある。うーむ。時代ですナ。
それにしても、ですね。ワシ、5月アタマの2900メートルの山に雪があるとは思ってもいなかったのかも知れん。行けば何とかなるだろう、そんなレベルで。バカな16歳なのでした(汁

今では登山道の様子なんか何ひとつ覚えちゃいないが、キョーレツな印象が残るのが、宿泊した「赤岳頂上小屋」でのデキゴトだ。その夜は「満員だもんね」なんつーナマやさしいレベルではなかった(w 敷布団1枚に3名。完全サシミ。後にも先にも不滅の体験です。となりのオッサンが寝返りをグルグル打って、ワシと共有している掛け布団をローラー的にアッチ側へと剥ぎ取っていきやがる。えらく苦しい一夜だった。

そうして翌朝、さらにモンダイが起こる。ヒトより遅れがちにデッパツしようとするときに気づいた。なんてこった、ワシらのキャラバンシューズが「無くなってる!」。今回、この写真プリント裏面にメモ書きがしてあるのを発見、すでにオボロだった当時の記憶が正された。今まで友人の靴のみが無くなったと思っていたのが、ワタシのも含めて二人分、片方だけを、誰かが間違えて履いていったらしい。小屋の従業員の対応はソッケなかったとメモにある。まあ、そうだな。コレも自己責任です。こういうイタイ思いをしつつ、オトナになっていくワケで。
暗い小屋のゲタ箱で、同じ靴なんかナンボもあるだろう。まさか悪意をもって持ち帰るコトもないだろうが、その場に残されたキャラバンシューズはワシらの足にはキツいサイズだった。ちょっとデカい靴を履いていったヤツめ、気づけよ、マッタク。友人はビニール袋を足に巻いて下る、とかホザいてるし。ナニ言ってるんだと必死で止めましたよ。そんなカッコ、外にでたら数歩でスリップして即昇天できるだろう。

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ようやく小屋を出たら、こんなファンキーな天候になっていた。天は試練を与えたもうた(w 
ドカジャンを着てますナ。この場所が赤岳のてっぺんなのかは記憶にない。それでも何でも、こんなコンディションをピッケルもアイゼンも持たずに下って行けたんだから、16歳のワシらもヤルではないか。怖くはなかったのか。
しかし、これこそ遭難予備軍だよなあ。「天気を気にかけたか?」、いや。そもそも当時は天気図を読めたのか疑問だったり。「防寒、防水は気にかけたか?」、いや。気にかけていたのかも知れんが、お門違いっぽいわな(汁
再び清里へと下山したワシら、とくに濡れて寒くて死にそうとかいうほどでは無かったと思う。まあ、発育途上のバーニング・バディのおかげで持ちこたえたというコトでしょう。

ところで、昨年末から新たな冬山シーズンが始まって以来、いくつかのネットをにぎわす山での事件が起きた。たとえば富士山での片山右京パーティの遭難は、あれだけヒマラヤでの実績があるヒトたちがテントを強風に飛ばされるなんて、と思った。また、荒れた正月の北ア・黒部五郎で、プロ山岳ガイド・山田哲也氏が天気を読めずにツアー登山を強行、しかし雪に阻まれて動けず、安直に救出してもらうべく「ヘリ」を呼んで「全員、元気に」下山するというイベントも。コレなんか「ガイドが、ヘリタク!」と例の掲示板の有力スレで、ハゲしい祭りになりました。つまりタクシー代わりに無料ヘリを回してもらうという所業に非難が集中したワケ。あまつさえ、このツアーの参加者を募集するときの案内コピーが、こんな香ばしいモノだったからだ。

>八ヶ岳辺りで多くの「雪山登山者」がチャラチャラと食事付きの山小屋泊で行うチンケな
>登山が主流となる中でテント泊で無いと行けない真の雪山は閑古鳥が泣いています。
>わが「風の谷」は絶対に他の登山者が行かない北アルプスのど真ん中・黒部五郎岳で
>合宿講習を行います。豪雪の原生林の森を延々とラッセルし、稜線へと 這い上がり、
>コンパスでルートを捜して立つ僻遠の山頂。数年前に北ノ俣岳で風雪の前に撤退した
>痛恨のリベンジです。

なんという「燃料投下」(w まあ、竜頭蛇尾の典型と言えますね。報道でも「みじんも疲れを見せず」などと茶化されとるし。この山田氏、登山の技術ガイド本などを出版するなど手広く活躍するガイドだということだが、さて今後は…。

こんなときに思いだす有名な動画がある。身につまされるような、冬の「吾妻連峰」での大量遭難事件の検証ドキュメンタリです。未だ見たことがないヒトは、「ニコニコ」の全3話を、じっくりごらんいただきたい。
これ、典型的な「擬似晴天」という悪魔のトラップにやられた山スキー(今ではBCスキーと言うらしいね)のパーティ。しかしまあ、冬山をナメていたということになるワケですね。3度目となるコースだから慢心したのか、7名パーティにして誰もラジオ、ツエルト、スコップを持っていない。予定調和的にドンドン「いくない」方へとナダレこんでいく。怖い。なんとなく「トムラウシ」の一件に似ているムードでもある。
このときの大荒れだった首都圏の様子ってのは、ワタシもよく覚えている。ヨメがちょうど臨月で、ヨコハマの外れにあったアパート周辺では積雪が30cm近くになったのだ。コーフンしたワシはムービーを持ちだして、町内をひと回り(w
ああ。あんな状況の冬の稜線にいたワケか。山を知らぬ「ニコ厨」のガキどもが糞くらえなコメント、あ。いや失礼。ウンコ食べなさい的な放言をしていますが、言っておくと、1994年とはケータイ電話は一般的でなかった。まだ「8」系の電話番号が登場する前、だったんではないか。いずれにせよ、こんな山中でつながるワケない(w もちろん「ガーミン」などハンディGPSがあるワケもない。
最後、死を悟った女性メンバーの「今まで親切にしてくれて、ありがとう」というコトバには、ツアー登山ではありえないだろう山仲間の「絆」を覚えて、見るたびに涙腺がブチ切れてしまうワタシだ。

もうひとつ、「ようつべ」の動画をご紹介しよう。こちらには、希望がある。詳しくは書かない(うp主のコメントを参照されたし)けれど、ある山岳救助隊の活動記、全5話だ。
この中では、第2話の冒頭、穂高で滑落したソロ登山者を救出するところが、グッとくる。「死んじゃうのかな」「言わない!救助隊員に、そういうこと言わない」。泣ける。

あらためて思う。
山ってのは、いつでもドコでも、誰にとってもリスキーなのだなと。
それでも何でも、そこに行く、そこに登る価値を、すべての登山者は思い定めているワケですが。

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クソッタレの想い出

2009/03/30(月) 23:42:33

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モンベルのハンディスコップを買ってきました。1,200円也。
「ミゾー」のチタン製は店頭で見たコトなんかないし、100均の園芸グッズはチープなワタシですらイマイチと思う。持つヨロコビが少しは欲しい。で、コイツだ。久しぶりにショップで発見。再生産したのだろうか。

スコップの使いみちはひとつだが、これまでラード的には必然性が無いモノだったんですね。もちろん便所がヨコにあるキャンプ環境であれば、野グソでアタマを悩ますコトなどない。
また林道野宿ツーリング時、テキトーな場所で朝の儀式を執り行うときは「ガエルネED」というオフロード・ブーツを履いているから、やはり不要だ。アレってば、まことに穴を掘るために蹴っ飛ばすのに好適な頑丈っぷりだからね。ワタシのバイク旅では河原や海辺で張ることが多いから、そういう場所なら砂地で穴堀りがラクなのだ。

ところが近ごろワタシが好む「野宿バックパッキング旅」では、クソ穴を掘るのが結構シンドい。山の尾根は地べたが硬いからね。いきおい、クソを垂れた後を軽く土をかけて枯葉で隠すというよーな状態で野宿地を辞するワケで、何となく「フンギリ」が悪いのだった。やっぱりオトナだからキチンとしたい。こんなプチ・サイズが実際に使えるかは、まあ、やってみないと分かりませんが。

何回か書いたけれど、日常生活でのワタシの排泄サイクルは完全に不定期なんです。朝になると便意を催す、なんて一切カンケーなかった。それがこの10年くらいで「変調」して、アウトドアに身を置くとナゼか必ず毎朝に「お呼び」がかかるのだ。理由など分かるハズも無いですが、まあその。ココロからフィットしている遊びなのかも知れないなァ。



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ラード的山がたり ロック・デイズ(その1)

2009/01/23(金) 17:35:35

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これは山と渓谷社・1977年発行のガイドブック「日本の岩場 グレードとルート図集」。使い込んでボロボロです。ルート図は今なら「トポ」と呼ぶようだが、馴染めないね。当初、国内の岩登りのルートを詳細に解説したものはこの本しか存在せず、すなわち現役「山ヤ」時代のワシらには貴重なバイブルでした。

上に乗っているビナ、コイツは「シュイナード(当時はショイナードと呼んでいた)」のジュラルミン製。そのころ実際に使っていた登攀用具が、たまたま手元に残っている。いやらしくワンポイントにして撮影(w もう劣化しているだろうから実用には耐えらないと思うんですが、今ではちょっとしたプレミアム・グッズになっているようだ。
というのも、今は亡きブランドだから。あのイボン・シュイナードが「パタゴニア」より先に興したこのギア・メーカーは、あるマヌケなクライマーがココのハーネスの胴ベルト末端を折り返さなかったために墜死して裁判沙汰に。そんなの、死んだヤツの自己責任なのだが、御大はその事態を恥じて手製ピトンの手売りから始めたこのブランドを畳んだのだと聞く。そしてその後継が、今をときめく「ブラック・ダイアモンド」ってワケですね。

さて。またまたワタシの昔バナシにおつき合いいただこう。ワタシが行った岩登りのコトを記事にします。そんな身軽で熱心な時代もあったのだというジマン話が半分で、残りは個人史の側面をもつ当「アラモード」の体系化、そんなムード。いやその。山ヤは例外なく「お山の大将」なんだから、あの。お許しをネ(w 

どうってことない登攀歴ですが、自己満足はしているんです。ヒマな文系の大学生ならではといえる贅沢な時間の使いかたをしたからね。日本のロック・クライミング界、その過渡期の様子も見聞しているし。少しは何かの参考になれば良いナと思います。

ところでワタシの「現役時代」とは、いつごろだったのかを記しておこう。キチンと岩登りを始めたのは、都下のある私立大に入学した1979年、山岳部に入ってからだ。スカウトされたんです。後にも先にも人生で初めて(w まあ、願書のブカツ歴を調べて、先輩が勧誘の電話をしてきたというだけですが。そうして前向きな登攀は、1982年、4年生の6月で完結する。
ついでに言えば、社会人になって2年目の1984年の初夏、一ノ倉・烏帽子奥壁・変形チムニーを、育てた後輩に引っぱりあげてもらって帰宅した翌日、前触れもなく椎間板ヘルニアが発症した。どえらい激痛だったのだが、それよりも突然そんな事態に陥ったコトに畏れを抱いた。それが直接のキッカケとなって、ワタシの若き「岩登りの日々」は終わったのだった。

そうだ。登山用語について触れておこう。ヤングさんには申しわけないが、すべてその約「30年前」の呼びかたで書いていくからソコんとこヨロシク(w やっぱ、ドイツ語メインで英語まじりってスタンスが落ち着くからネ。ロープ? ピトン?
さらには当時のルートの難易度、すなわち「グレード」なんて、今どきの「デシマル」が身についたヒトにはチンプンカンプンかもしれないが、そもそもデシマル体系がワシには理解不能。そんな難しい岩は攀っておりません。そこんとこヨロシク(汁 
気になったから、先ほど本屋で「アルパインクライミング」というガイドブックを立ち読みしてきた。ルートグレード、ピッチグレードについては昔ながらのUIAA表記を使っていた。ふむ。メデタシ。

【「剱」で洗礼を浴びる】
ワタシが1年次、部の第3次夏山合宿は北ア「剱岳」での岩登りで、たしか10日間弱を予定した。真砂沢サイトに定着で、基本は「八ツ峰6峰」の岩峰の登攀と源次郎尾根から剱岳本峰アタック、そんなレベルです。ところが当時の剱岳ってのは、じつに首都圏から遠かった。大町駅から黒四ダム、ハシゴ段乗越経由という2日がかりでの入山だったのだ。

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8月のお盆すぎ、ベースを設営後、まず「Cフェース剣稜会」ルートを攀った。初めて「本チャン」ルートを完登したワケだ。ちなみに写真で右側にケツを見せてるのがワタシ。絶好の岩登り日和ですね。このときは3人パーティ編成で、もちろんオール・サードだったけどね。

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翌日、今度は2名で「Cフェース・RCC」ルートを同じくオール・セカンドで登攀。さて、これが「日本の岩場」に出ているCフェースのルート図だ。「Ⅱ」だの「Ⅲ」だのというピッチ・グレードを見て「これ、手を使うの?」なーんて思っちゃうヒトもいるかも知れん。いないか(w

しかし実際には、こうであり、またこういうルートなのだ。あまたある記録ブログから「うむ!」と唸った記事を、すみません。お借りします。
【2010年1月】リンクを貼り替えました。

どーです! 思い描いていただきたい。真夏でも豊富な雪渓が眩い長次郎谷、そこから凛々しく突き上げる日本離れした光景の中にわが身を晒した爽快なクライミングを。これぞ「本チャン」、これぞアルパイン・クライミングだ。ちっさい岩(とかウォールとか)で自分のフィンガー・パワーをストイックに鍛えあげるのもイイが、一回は(若いうちにw)こういうクライミングも体験しておいて損はない。TPOのすべてが自分の五感にビシッと響くこと請け合いです。

とはいえ、この2本の登攀の模様というのは、その後に起きたテンヤワンヤでキレイさっぱりと忘れるハメになる(汁



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山について思ったこと 「魔の岩壁」

2008/03/27(木) 23:55:11

いちのくら

谷川岳、一ノ倉沢の衝立岩。
昔むかし、そこで宙吊りになったロック・クライマーの遺体を自衛隊員の銃撃によって回収したという荒っぽいデキゴトについては、ワタシが現役「山ヤ」のときも聞いたことはあった。そして、そんなルートの存在にビビったものだ。でも、そのデキゴトの詳細は知らないし、谷川岳を根城にしていた山岳部のOBたちも同様だったように思う。こういうコトに触れるのは山ヤのタブーであって、忘れ去りたい事件だからなのだろうか。
写真は1981年の8月、その一ノ倉沢の出合に立つ気負ったワタシ。第3次夏山合宿のときで、主将として10日間ほど一ノ倉と幽ノ沢での岩登りを実施した。そして背後に聳え立つ特徴的な三角錐が銃撃事件の起こった現場、衝立岩正面壁だ。

それにしても良い時代になったナと感じ入る。その「事件」のニュース動画がカンタンにPCで見られるってんだからネ。
谷川岳の魔の岩壁

一ノ倉ザイル事件

【追記その3◆2010年4月28日】
「朝日ニュース」が映像配信を止め、同じ内容の「ようつべ」動画も、デリられたようです。現在、このニュース動画を見るコトができません。
いま思うと、この動画は画質が悪く、岩を知っている「山ヤ」なら凄惨なそのアリサマを具体的に想像できるだろうが、一般のヒトにとっては映像のリアルな詳細については判別できなかっただろうから、グロ動画というワケでは決してない。デリられた理由は何か。個人情報保護の観点から、なんでしょうかね。

「当ブログの歩きかた」という自選ベスト記事集にも詳述しましたが、相変わらず「衝立岩」「魔の岩壁」「正面岩壁」なんてコトバでこの記事を検索してくるヒトたちが引きもきらない。すべて当ブログにとっては一見さんなのだろうが、そしてまた、岩登りとは無縁のヒトがそのほとんどなんでしょうが、今月も合わせて40名くらいがこの記事にトンできているワケだ。50年も昔の、ついこないだまでは「ほぼ」忘れ去られていたカルトな事件に。この数が決して多いとは思わないし、きちんとこの一文を読み込むヒトなんざ、ごく少数だろう。しかしながらこの「検索」にまつわる一件というのは、ネット社会のさまざまな特性を端的に表していると思えてならない。

【追記その4◆2010年11月1日】
現在、ニコニコだけは、同じモノが見られます。

【追記その5◆2011年2月14日】
wikipediaの該当記事に新しいネタが出ていた。1963年に公開されたカルトな風俗映画に、この銃撃の映像シーンが唐突にインサートされているとの由。その映画評を記したブログ記事が、コチラ。今ではその映画もDVD化されているようです。
そして、もうひとつ。朝日ニュースではカットされていた「部分」が見られるモノを、発見。ああ。こんな「モロ」なヤツがうpされていたから、当記事の注目度も上がっていたのかと、今さらナットク(w 4:35から20秒ほどだが、クライマーの親御さんがたは、出合でこのシーンを見ていたのだろうか・・・。(追記ここまで)

さて、この事件(というか事故の顛末というべきか)が起きたのは、1960年の9月のこと。ちなみにワタシが生まれて半年後だ。暑い夏だったなァ。いや、ウソです。覚えてるもんかっての(w この動画サイトは、かつて映画館で流していたニュース映像のクリップ集と思われる。「ワイドの眼」というタイトルから、当時は映画館でしか味わえない珍しいワイド画面の映像だったのでしょう。それが、ココではフツーのヨコ幅に圧縮されちゃっていますね。画面が暗いから、余計に見づらい。
それにしても、このオドロオドロしたBGMは如何なモンかと(w だってサ、機関銃で銃撃して遭難者を回収するという、ただでさえショッキングなネタに、この圧倒的な一ノ倉の凄惨な光景が映っているワケでしょう。なんかもう、岩なだれと共にゴジラが現れそうなムードではないか。

以前にも書いたことですが、1950年代後半からは、マナスル登頂ブームを受けてのハイキングや登山が国民的なレジャーになっていた。町には社会人山岳会がさまざまのレベルで林立して、「3人寄れば、さん岳会」なんてニュアンスで言われていたらしい(「初登攀行」松本龍雄著より)。それでも、こんな信じらんない岩壁をヒトが攀じているなんて、一般レベルのハイカーたちには理解できなかったに違いない。だから事故死しても当然、「そんな場所に逝くからこんな最期を迎えちまうのだ、親不孝ものめ」などと、ハゲしく世間に対してトラウマを与えるニュース動画だったのではないかと想像する。

ザイル・パートナーの2名が共に死んでしまったというレア・ケースの理由は、調べてみてもよく分からない。当時のビレイ方法は「肩がらみ」式という古典的なやりかただったろうし、ハーネスは、使っていたとしても胴ベルトのみだろうから、大きな墜落をした場合、両者のカラダへのダメージは深刻だったのかも知れない。当事者である山岳会の事故報告書が編まれていたら、そこには「推測」の考察が記されていたのではあるまいか。
しかし遺体だけ切り落とし捨てて、いっさいの現場検証は行わなかったコトになる。現代では考えられないハナシだが、あのころ、衝立岩とはそれくらい隔絶された場所だったワケだ。
このサイト「誰か昭和を想わざる」の中に「恨みのザイル一斉射撃」という記事があり、ネット上では現在もっとも詳しくこの事故について報じている。まあその。文中、不謹慎ながら「伝書鳩で連絡」ってところで笑ったね。時代を満喫。伝書鳩の到着タイムを競うコンテストが盛んだったんだっけ。

【追記その2◆2009年10月】
あまりにも多くの読者がこの記事を検索して読みに来るので、より正確を期さねばイカン、そう一念発起(w
「あの現場」のもっとも近くで、銃撃による解決を図るよりも前に、当事者山岳会と一緒に遭難者2名を収容するべく奮闘を続けた凄腕のクライマー・小森康行氏のエッセイを引用してきました。「続き」を開けて、ご覧ください。(追記ここまで)

wikipediaにも事件の項目が掲載されている。しかし記述にマチガイがあるナ。「当時登頂に成功したのは1例のみの超難所」という部分。先のニュース動画中でも大時代な読みかたをするアナウンサーが「15人しか登られていない」と言ってるじゃん(w

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ただし「超難所」というのはまったく事実で、1960年当時のクライマーたちにとって衝立岩正面壁は最高難易度の登攀ルートで、生半可に挑戦すらできない圧倒的な存在でもあったのだ。ちなみに「難しい登攀」という尺度もさまざまなのだが、この壁の場合は、オーバーハングだらけで困難な人工登攀に頼るハメになるからだ。詳しいクライミング・スキルの解説は端折るけど。

こういう登攀ってのは、最初に完登したパーティが当然ながらもっとも偉大だ。数十年間にわたって未踏の王冠を誇った壁に、登れるラインが存在することを証明できたから。だから第2登はグッと気楽になる。初登パーティが猿でなく同じ人類なら、なんとか対応できるワケだ。ルートに埋込みボルトやハーケンを打ち足せば、よりラクに登攀できるし、また続登されるにつれ、残置された補助支点も増えていく。そんなこんなでそのルートが100登くらいされたら、技術的な難易度はドンドン引きずり降ろされてしまうという嘆かわしい事態になる。今は初登から50年近くたっているから、数万登を数えるくらいなのだろうか。

ヨセミテから発信された「クリーン・アッセント」という倫理的ガイドラインが日本に根づくまでは、長きにわたってわが国の人工的なアルパイン・ルートは埋め込みボルトなどの支点がバシバシ打ち足され、残置され、そのためにルートの難易度が下げられてしまう運命にあったワケだ。
この衝立岩の初登時は、それまで「雲稜会」による数次の試登で、固定ロープを難関の第1ハング上まで張ってある状態でスタート、それから4日間を費やして完登している。第2登はその2週間後、ワタシのココロの師「雲表倶楽部」の松本龍雄氏パーティだ。これは2日間のラッシュ・アタックで攀りきっている。それから20年後となるワタシが現役のころには、所要5~7時間というのが一般的な登攀タイムというルートになっていた。

衝立トポ

その後、この衝立岩正面壁には何本も別のルートが拓かれ、初登ラインはそのクライマー・南氏が属する「雲稜会」の名を取って「雲稜第1ルート」と呼ばれている。その初登攀のレポートがネットで読めるから、うれしいものだ。
http://unryo.cliff.jp/data/history/tuitateiwa1st.htm

谷川岳は昭和の初頭に「近くて良い山なり」と紹介されて以来、最近までに800名近くの遭難者を出しているという世界的にみても珍しい場所だ。中でも一ノ倉沢での岩登り中の事故死が最多なのだろう。象徴的なモノがある。沢の出合、車道と水流がぶつかる場所に、今は知らないが大がかりな「ネット」が設置されていたのだ。それは本谷の雪渓を長い間かけて運ばれてきた「オロク」さんを掬い取るための金網製のネット、なんですけどね(汁
衝立岩という大岩壁は国内の大方の岩場と違って、観光客でもその凄惨な姿を一ノ倉「出合」という間近で安全な位置から簡単に眺めるコトができる。これが大きな特徴であって、つまり悪目立ちするスター性を持つ壁と言えるのだ。

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これは、初登攀から20年後に発行された写真によるルート図集「谷川岳の岩場」(山と渓谷社・1980年5月刊・絶版)。ロッククライミングをご存知ないヒトはアゼンとしちゃうに違いない表紙カバー写真は、衝立岩「A字ハングルート」の核心部。背景にはワタシの最終目標だった「滝沢スラブ」が美しい。
この本は豊富な写真で当時の日本3大岩場、すなわち「穂高」「剣」とこの「谷川」の各アルパイン・ルートを紹介するガイド図集なのだ(後で気づいたのだが、「北岳・甲斐駒」も出ていました)が、ワタシが現役クライマーのときに刊行したから、アタックする際の実技的アンチョコとして、まったく重宝するモノだった。まあその。今ならば、そんな一挙手一投足がバレバレになるルート解説を見て、あたら挑戦のヨロコビを減じるなんて意味ないじゃんとも思える。しかし当時は自分の能力で完登できるかどうかのジャッジは死活問題、正しく「イノチがけ」だったもんでネ。
こういった「本チャン」の登攀ルートにおいては、技術的なムーブの難しさのみでなく、アプローチを含めた登攀の所要時間、岩の脆さ、濡れ、落石、確保支点の数と効き具合、さらに悪天につかまった場合の脱出の難しさ、あるいはザイル・パートナーのコンディションなど、さまざまのヤヤコシい心配ごとがあってモチベーションを維持するのが結構タイヘンなワケです。

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とりあえず衝立岩のシチュエーションに近い、自前の写真で勝負しますと、コレは同じ一ノ倉「コップ状岩壁」正面壁の「緑ルート」、約4㍍のハングを乗越そうとしているトップのワタシ。取り付き点から真上を仰いで撮影しています。1981年の8月、雨に降られまくった合宿だった。「コップ」とは、セピア色の一ノ倉沢全景画像で、ツイタテの右上に位置する岩壁だ。
このときは台風後の悪コンディションで、足元は何とフエルトを貼った渓流タビ(w ヌメヌメの壁では有効でした。逆に雪渓ではすぐに目が詰まって滑りまくりだったけれど。じつはワタシが本チャンでいつも愛用していたシューズは、千円のズック靴だったのだ。あの時代、ラバーソールのクライミングシューズなんてのは元祖「EBシューズ」が輸入されたかどうかという時期であり、峠の岩とか日和田のようなゲレンデならイザ知らず、一ノ倉の草付ミックスで「実際ソイツは使えるんかい、え?」、そんな時代。
写真が暗いのだが、右足はアブミ最上段に乗って巻き込んでいます。ザイルは9mm40㍍のドッペル。間違ってもダブル・ロープなどと言わぬよーに(w 「人工」が苦手なワタシは、アブミのかけかえとはいえ、このハングと続く濡れた垂壁では苦労の連続だった。これに取りつく前、すぐ右にある「雲表ルート」をやっつけていたのが原因かも知れませんが。

この「コップ正面」のクラシックな両ルートも日本登攀史にその名を刻んでいる。ひとつは、わが国の岩壁で初めて手製の埋め込みボルトが実用的に使われたコト。もうひとつは丁々発止の初登攀争いとして、1958年の6月、同日同時刻に攀られたというドラマを持つ、「戦後」の重点課題だった難攻不落の壁。その日は「ツイタテ銃撃」のときのように取材のTVカメラ(日テレ)が一ノ倉に入って、初登攀争いの様子を茶の間に放映したというエポック・メイキングな場所なのだ。それが映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のあの時代のこと。

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またまたハナシが本筋からそれてしまいました(w さて、梅雨明けどきから秋にかけて、残雪が消えた一ノ倉の人気ルートに取り付くには「テールリッジ」というアプローチ・ルートを登るハメになるのだが、その尾根の上部までくると、ごらんのように壁はクライマーを威圧するがごとく覆いかぶさる。それでは年季の入ったこのガイドブックから、銃撃事件の現場である「衝立岩」という壁の存在を引用してみよう。
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衝立岩正面壁は一ノ倉沢に残された最大の課題でありながら、垂直のフェースとオーバーハングのために、登攀は不可能視されていた。ところが、1959年8月18日に南博人、藤芳泰の両氏により、埋込みボルトと縄梯子による新しい人工的テクニックを駆使して拓かれたルートである。
初登から2年で、あのショッキングな宙吊り事件が起きたことでも知られ、国内でも最も難しいルートとされていた。しかし、60年代から70年代にかけて奥鐘山西壁や海谷山塊などにおいて、このルートをしのぐ困難な壁が次々と開拓された現在、スケールやテクニックも最高のものではなくなった。しかし、ルートの合理性、ルートの存在する位置、明るさなど抜群であり、ルートに要求されるすべての要素を備えているから、日本の岩場の中でも代表的なすばらしいルートのひとつに数えることができる。
(後略)
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くわあ。たまらん。じつにココロ踊る。え。踊らないか?(w ただし白状しますと、ワタシは衝立岩のルート(当時は5本ほど)は1本も登攀したコトがないのだ。いわゆる人工登攀よりもフリー主体の難しいルート、つまり「滝沢第3スラブ」を攀りたかったワケ。腕力イノチという「人工」は苦手だったし、最後まで惹かれるコトはなかった。
そんなワタシの現役時代の後半期は、いま思い返すとロック・クライミングという遊びにおける大きな流行の「端境期」。20年ほど続いた「鉄の時代」と呼ばれる人工登攀主体の長く困難なルートがグレード・ヒエラルキーの頂点、そんな考えかたの最後の時期だったと言えるだろう。それからは、アメリカナイズされた「フリー・クライミング」というスポーツ的なロック・クライミング思想とルールやスタイルが輸入されて、現役クライマーの意識革命が湧き起こり、国内に根付き、そうしてハードなルート開拓がガンガン実践され始めていった。それ以前の「命がけ」という外的な危険要素をなるべく排除したやりかたで、あくまでもスポーツ的に。まあワタシなんか、そのフリーの潮流が押し寄せる直前で活動を終えたワケで、なんとも前時代的クライマーであったコトよ。

そして日本ロック・クライミング界の大きな流れという観点からも、この衝立岩正面壁は象徴的な役まわりの場になったというのが興味ぶかい。「鉄の時代」とは、埋め込みボルトという人工補助用具が多用され、この壁が初登攀されたコトで実質的にスタートしたコトになるし、ワタシが最終目標の「3スラ」を登った数ヵ月後(1982年夏)には、なんてこった、この衝立岩の初登ラインである「雲稜第1」ルートがオールフリーで完登(その場合のルート名は「グリズリー」)され、それが現在に続く本格的なフリー・クライミング発展の嚆矢(こうし)となったからだ。
「本チャン」と「ゲレンデ」のふたつだけだった岩登りを行う「場所」というのは、そのころから、おもしろい「課題」があれば東伊豆にある海沿いの断崖(城ケ崎の開拓が始まった)でもイイし、江戸城遺構の石垣(常盤橋公園ってのがブームになった)でもイイし、河原の大石(奥多摩のボルダーがブームになった)でもイイし、さらに時を経て、建物の側壁にしつらえた人造のウォールでも結構という「内容を厳しく問われる」新たな時代に突入していったのだ。そうしてワタシは完全に前時代のヒトに成り果てた。

【追記その1◆2008年4月】
こういう紹介記事を書くと、当然のコトながら、検索でトンで来てくれるヒトがたくさん出てくるワケです。いま、ワレながら恥ずかしい思いなんですけどね。もしかしたら相当な数のホンモノ「山ヤ」が「攀ってもいないでヨタ飛ばしやがって」、なーんて感想をお持ちかも知れん。
逆に、アクセス解析から知ったというか教えられた、こんなナイス・ブログをご紹介しましょう。ツイタテの初登者・南博人氏のブログです。なんと言いましょうか、見事な好々爺におなりになっている。風流な老人とは、ワタシの理想。すばらしい。人生のお手本とさせていただきたいものです。

南氏の昨年末の記事に、ともかく注目しました。コレ、「岳人」誌に記載された20世紀の偉業として衝立岩初登攀が紹介されており、その文章をそっくり引用しているもの。けっこう誤字(打ち間違い)があって微笑ましい、なんて言ったら失礼なんですが、その登攀の内容は凄まじい。でも、ちゃっかりとジマンをくれてるところなんか、じつにオチャメだ(w 神さまだから許されるワケですが。いやその。こういうおじいちゃんになりたい。(追記ここまで)

まあしかし、現代では絶対に有りえない「超」荒っぽい事故の解決法「ザイル銃撃遺体収容」が起きたころのわが国は、コレに限らず、無茶苦茶に荒っぽく騒然とした時代だったようだ。その年の5月・6月は「60年安保闘争」。東大生の樺美智子が殉死したコトで有名な国会突入デモがあったり、岸内閣が総辞職したり、三池炭鉱での壮絶な労使闘争が続いたり、そして10月には社会党の浅沼委員長が演説中に右翼少年に刺殺されたり
ハナシが逸れるけれど、この浅沼暗殺事件の「ようつべ」もある。フシギと消されないのだ。最後のスロー映像(ドスが丸見え)が、恐怖。「60年安保」のまとめ動画もあるから、ごらんいただくと凄まじくホットな世相がよく分かるハズだ。

それにしても、現代では理解不能な珍妙な文化風俗とか事件が多くて目がくらむ。泉麻人の名著「B級ニュース図鑑」っぽいネタも多い。この「昭和35年・上期」ニュースでの「吸血少年団」なんか最高だ。ギョッとしたもんね、このタイトル(w ただし当時の社会世相として、自分の血を売って生活する底辺のヒトたちが大都市にワンサカいたことや「黄色い血」というその撲滅キャンペーンなどは、知っておかねばならないだろう。映画「ALWAYS 3丁目の夕日」なんかじゃ決して描かれない生活を、だ。

誰か昭和を想わざる・昭和35年



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