ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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ラード

Author:ラード
千葉県在住
バイクはXR250「Baja」
クルマはE46「325i Touring」
メインアームは「SIG552 SEALS」


林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
バックパッキングの世界を愛する。
風流なオッサンとなるべく
奥義を研究する日々(w

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ラード的山がたり ロック・デイズ(その3)

2010/02/25(木) 00:31:36

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【本チャン初リード】
この年、10月初旬、先輩M氏に誘われて谷川岳・一ノ倉沢でもっとも手ごろなルート「南稜」へ出かけた。ワタシを本チャンのトップで攀らせるためのトレーニング、だったハズです。まあ、調子は上向き、モチベーションもかなり高まっていたからグッド・タイミング。いや、むしろ時間が無い。この翌春にはワタシが主将を張らねばならんからだ。
なんか大それたハナシですが、理由はいたってシンプル。同期は実質ワタシのみ、だったからですネ(汁 それにしても「ワンゲル」なんか女子も含めて新入りが毎年ザックザクでうらやましい限りだが、わが部なんかヒトが集まらなくてタイヘンだったのだ。思い出したくもないネタですけど。

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このときが一ノ倉沢の奥へと分け入るワタシの初体験。本谷の雪渓がほぼ消える秋口は、テールリッジ経由のアプローチがメンドくさくなる。この日、南稜のルートで順番待ちをした記憶は無いな。

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南稜ってのは谷川岳でもっとも手ごろで面白い、すなわち首都圏在住「山ヤ」最初の1本とも言うべき「本チャン」ルートと、昔から知られている。近ごろは、さらにアルパインの名高いクラシック・ルートに昇格して、順番待ちがハゲしいらしい。
ちなみにこのルートの初登は、このときから遡っても半世紀ちかく昔、1933年の秋(「単独行」の加藤文太郎の活躍と同時期といえば、世相や装備が分かりやすいでしょう)、東北帝大のスーパークライマー・小川登喜男らだ。

冒頭の写真は、最終ピッチをリードしているワタシ。代わる代わるトップを担当する「つるべ式」で登攀し、このときはワタシがリードする番だ。記憶が正しければ、無雪期の岩を登山靴で攀る機会は、これが最後。短い中にも色どり豊かな内容のルートだが、やっぱり今では壁の様子を思い出せない。
まあその。それまでのザイルのセカンドなんか気楽で怖くもなかったが、かたやトップでリードするというコトは「落ちたらダメ」だから、それは緊張感がイヤ増す。もちろん、バカスカ打たれている残置ハーケンの利いてそうなヤツにランニングビレーをいくつか取っているが、それらに全幅の信頼など置けないもんね。
そんな奮闘をし、たどり着いた終了点で先輩M氏と握手した(したのだろう、きっと)ときなんか、脳内をアドレナリンがどっぷり渦巻いていたに違いない(w 「これは面白い!」。ついにワタシが岩に開眼したときだった。

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このときの写真を、もう1枚。おそらく終了点にて。背景の圧倒的なナメナメが「滝沢スラブ」の上半分で、もっとも長い左のヤツが第3スラブ、通称「3スラ」。美しい。ようやく初級ルートを初めてリードしたワタシですが、いつかコイツをやっつけてみたいと大それた野望を抱いた。そしてこのルートを初登攀したのが、松本龍雄。ワタシのヒーローなのだった。

じつは忘れられぬデキゴトがある。終了点から懸垂下降で取付きの南稜テラスに下って休憩でもしていたとき、だったか。エボシ奥壁のどれだかをやってきたらしい、どこかの大学山岳部パーティが話しかけてきた。「ドコやったんですか?」「南稜です」と先輩が答えたときの、彼らの表情について、だ。あからさまに「なーんだ」的なカオをしたんです。
むーん。そりゃまあ、しょせん南稜デビューのワシですけどね(汁 帰路、その先輩といろいろ話して「じゃ、お前、見返すようなルートを登れ」となった、そんな記憶がある。まあその。ワタシもその後、南稜というルートは下降のために使うだけになったけどね。
【追記:2010年3月】
すっかり忘れてた。下降ルートって南稜そのものではなかった。その隣りの「6ルンゼ右俣」が、アプザイレンの場所です。いやはや。

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【バイブルとの出合い】
「初登攀行」松本竜雄著(中公文庫、昭和54年9月・初版)。奥付に書いたメモを見ると、この年の5月末に買っている。今シーズン最初の本チャン、「幽ノ沢」をやった翌日のコトだった。
かつてこんな記事を書いたワタシだが、コレが人生で「もっとも影響を受けた本」に今でも変わりはない。パーマのロンゲをバッサリ切って髪型(慎太郎刈り、ですかね)まで真似たくらい、入れこんだ(w 氏は「目ぢから」がスゴイ。著作とか部室に転がっていた昔の雑誌の記事などを見ても、なんつーかもう、目がキラキラ。全盛時の超人っぷりといい、日本人には珍しいハンター系のヒトですね。
それにしても自分が生まれる前の出来事を描いた作品にこれほどハマるとは、なんてアナクロなワシじゃろか。げほごほ。

当時のワタシには決して読みやすい内容ではないハズだが、再読三読し、文庫本じゃ有り難味がないと、神保町「悠久堂」にて単行本(あかね書房・中古の初版)をゲット。それが数年後に置き引きでカバンごと盗まれるという失意を体験した後、高校時代の岳友「H」君が同じモノをプレゼントしてくれるなどという紆余曲折のエピソードまである。
ところで、有り難味といえばこの本が最強でしょう。うらやましい。「奥山章兄」と著者の関係が分かるヒトなら尚さらです。
さておき、文庫版では内容の一部が省略されている。それは氏の労働組合活動に関するネタで、最終章などは改めて読み直すと違和感を少し覚える。「60年安保」へと向かう、あの時代ならではの闘いではありますが、氏はその活動のために山から離れざるを得なかった様子。

ドコに惹かれたのかといえば、やはり著者の岩登りに向ける凄まじい情熱だ。著名な未踏の壁が日本にまだあったという幸せな時代に、鬼気迫る冒険をバシバシ行うパイオニアの実行力が、ヤングなワタシにビシッと刺さったのです。
これに先だって出版された氏の最初の著作「岩登りがうまくなる本」も、当然ながら初版の中古を持っているが、コチラでは岩登りをスポーツ的なフェアプレイで捉えようとしているところに氏の相当な先進性を見るコトができて、これまた唸ってしまう。

そして文章の良さも特筆もの。ルールに厳しい著者が日本で初めて「埋め込みボルト」を使うかどうか迷いに迷うあたりでは、その情景が面前にひろがるような男気あふれる内容にグッときた。
後にもご紹介するが、今では結構なプレミアムがついているらしい、谷川岳でのエポックな登攀クロニクルを集めた本「クライミング記録集・谷川岳」遠藤甲太編(白山書房、昭和57年7月初版・絶版)では、「初登攀行」をこのように評している。
「松本龍雄は戦後日本登山界が産んだ最も傑出したクライマーのひとりだ。足跡は、好著『初登攀行』にまとめられたが、ノンフィクション文学としても高い評価を受くべきものである」。

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先日、神保町の古書店「悠久堂」でゲットしてきた「岩と雪」75号(1980年5月発行)は、その文庫版を紹介した書評が載っている。

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平積みされた古雑誌の山からこの号を手にとってパラパラ見ていたとき、ワタシはすっかり忘れていた香り高きこの文章のことを電撃的に思い出したのだ。この号は手元に残っていないから、昔は誰かに見せてもらったのだろうか。とまれ、この書評のためだけに500円を投下して購入。この2枚の画像がその全文ですが、冷静な筆致のようで実は無茶苦茶ホットな評に即カブレて書店に走った30年前のワタシ。そして、この「初登攀行」のおかげで岩登りに対するモチベーションを徐々に上げるコトができたのです。

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【衝撃の連続写真】
「初登攀行」は個人的な啓示のハナシだが、同じころに、日本のクライマーのほぼ全員が思わず目をひん剥いた衝撃のネタが、コレでした。今は亡きクライミング専門誌「岩と雪」で、もっとも有名な72号。1980年1月の発行。後に「ミッドナイト・ライトニング」のルート名で知られる、ヨセミテでもっとも有名なボルダーの課題を攀るジョン・バーカー。

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日本のフリー・クライミングは、この「72号の衝撃」で実質的に始まった。戸田直樹、平田尚之氏によるヨセミテとコロラドでのクライミング体験レポートも印象的だが、やはりビジュアルは強烈。表紙を含めてこの連続写真にタマゲたのだ。
「V+」以上のピッチグレードが本チャンに存在しなかった当時の日本人には信じらんないムーブ、だけではない。登っている対象物が岩ではなく「石」だという事実と、「EB」というフラットソール・ブーツにジョギパン一丁というウエストコースト的なジョン・バーカーのカッコよさと氏の筋肉に驚いた。

今でもワタシはこの雑誌を初めて見たときの情景をクッキリと思いだせる。唐松岳ピストンと八方でのスキー、爺ケ岳東尾根から鹿島槍ピストンという正月をはさんだ10日ほどの山行を終え、久しぶりに部室に顔を出したとき、だったか。先輩M氏(南稜を一緒に攀ったヒトで、ワタシが1年坊主のときの主将)が大騒ぎしつつ持ちこんだ。「すげえよ、これ!」。
握力はナンボあるんじゃ、などと皆でワイワイ話しあったものだ。ところが、ワタシは今ひとつピンとこなかった。まあその。自分にはトンと無縁なイメージだったからでしょう。
以下の画像は、ジョン・バーカーのボルダリングについて記した平田氏のレポの核心で、画像3点組みでご紹介。

sunyside story-1

ミッドナイト・ライトニングのボルダリング、ありがたいコトに「ようつべ」にいくつも「うp」されている。コレとかコレとか。コレは新しいモノだな。そして、最新のこの動画は、すばらしい。別格のクオリティです。現在でも十二分に難しいグレードの課題とのことだが、今ならアクロバティックなその身のこなしについては馴染みがあるでしょう。ところがそのときのワシらにはアゼンとする他なく、「じつは猿なんじゃねーの」などとと毒づいたもんだ。

ちなみに、未だその名前を忘れられないクライマー、ジョン・バーカーは、昨年7月、フリーソロの最中に誰に見られるコトもなく墜死した。「岩と雪」の後継誌「ロック&スノー」で追悼特集をしていて、昨秋ようやく気づいたワタシですが、その間30年の功績とかを知らずにホザけば、その死にかたすら彼らしい、というか。
バーカーの「ようつべ」もいろいろあるが、コレとかコレが面白い。そのミッドナイト・ライトニングを「かるーく」こなすシーンも出てくる。

【追記:2010年3月】
このボルダー「ミッドナイト・ライトニング」にこだわり抜いたヒトの素晴らしいエッセイを見つけました。
文中にも出てくるジミ・ヘンドリックスの、ルート名の由来となった同題の曲がコレ。ジミが死ぬ半月前のギグ、1970年のワイト島ライブから、どうぞ。

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この取材をしたのは1979年の初夏のこと。戸田・平田両氏は、すでに「5.12」という異次元の高難度ルートを攀っていた米国のエース・クライマー、バーカーの芸術的なボルダリングを目撃したワケです。平田氏のこの記事、最後のあたりで「石登り」と「軽業」なんつーコトバを交えての感想が、彼らが「柔軟な視点」を持っていたにも係わらず出てしまうトコロに、バーカーが演じたエキジビジョンの衝撃度を読みとっていただきたい。

かたや戸田氏のレポートでは、現地のクライマーに「10年遅れている」と、面と向かって言われた日本の岩登りの現状を憂い、アジりまくった文章が頻発する。そしてこのアジテーションが、バーカーのボルダリング・シーンとセットになって日本のクライマーに革命をもたらした。
すなわち、「登れないからこそ目の色を変えて、自らを鍛えたくなる。そこにトレーニングの意義がある。よい水のあるところにうまい酒ができると同様に、ハード・ルートがあるところにすばらしいクライマーが誕生する」。「ピトンやボルトを平気で打ち足す登攀とは早くおさらばして、夏でさえ登れないハード・クライミングが生まれなければいけない時期だ」。

ワタシは伝統的な山岳部という枠組みの、そのまたビギナー・レベルという時点でこの超絶クライミングの写真を見たから、大方のクライマーが受けたカルチャー・ショックというものは無かったと言える。しかし、ボディ・ブローを打たれたように、ワタシにもゆっくりと芽生えてくる意識はあったようです。

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今回、このあたりのネタを書くにあたって、日本のフリークライミング20年史をブッチャケて綴った面白本、「我々はいかに『石』にかじりついてきたか」菊池敏之著(東京新聞出版局・2004年8月刊)をジックリ読み直した。著者はワタシと同年輩の元クライミング・バム。鷹取山で今で言うボルダリングを先史時代からやってきた筋金入りで、勃興から発展期を含めてフリーのムーブメントの中心を知る人物だ。現在は山岳ガイドとのこと。

そのクチの悪い「ニッポン・フリー小史」を参考にさせてもらうと、バーカー・ショックが80年代突入直後の1980年1月のコトで、その夏には、小川山という無名の「ヨセミテ」風岩峰群がニワカに脚光を浴びてビシバシとクラック・ルートが開拓されまくっていく。
なんたって、当時の憧れの地・ヨセミテの象徴的ルートってのは、ワタシでも名前を知ってるこんなヤツ。見るからに指がちぎれそうな天井クラックだ。ついでに、そのルートのフリーソロ。ジョン・バーカーが目指したクライミングの世界がコレなのだが、いやしかし(汁

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一方、バーカー・ショックを発信した当の戸田氏らは、一般クライマーに向けて「フリークライミング」の布教とも言うべき、分かりやすい実践を行った。つまり既存の「本チャン」人工ルートをフリー化していったワケだ。当時は「日本全国Ⅳ級A1」と言われた、誰でも同じように攀れちゃう本チャン・ルートばっかという「閉塞感」を、このデモンストレーションで解放する役割を演じたという。
また、「RCCⅡグレード改訂委員会」として全国各地のゲレンデを回り、新たな標準ルールを広め、またたく間に全国平定してベクトルを統一、そしてフリーの信者を獲得していったという。

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この画像2枚が、先に「初登攀行」でも紹介した「クライミング記録集・谷川岳」のラストを飾るクロニクルで、1980年5月、戸田氏による一ノ倉の人工ルート2本を初めてフリー化したときの画期的なレポートだ。ともかくルートを選ぶセンスがキャッチーだった。というのも「コップ状岩壁・雲表ルート」ってのが、日本で最初に埋め込みボルト(手製)を使って突破された、その後の長い「鉄の時代」を迎える先鞭を付けたルートだからです。それをフリーで軽く片づけちゃうってのがインパクト十分。もう1本の「滝沢下部ダイレクト」も、戦前からさまざまな因縁が盛りだくさんという垂壁のボルト・ラダーを、やはり自らの手足のみで下したところが画期的だったのだ。

じつはプチ面白い相関があるんです。このコップ雲表ルートがフリーで攀られたちょうどそのころ、ワタシは「初登攀行」の文庫化を知った。そしてこの「谷川岳」クロニクルの最終章「コップ、フリー化」に付された編者のコメント、その最後に「烏帽子奥壁に懸かる幻の大氷柱が登られた」とある。これは発刊時の最新ニュースで、一ノ倉登攀史における長年の懸案だった課題。その大氷柱ってのは「初登攀行」の文庫のモノクロ表紙にバッチリ見えている。そして第2登されるまで20年も間が空いたというエポック・メイキングなアイス・クライミングを行ったパーティのひとりが、「我々はいかにして…」のオチャラケな著者・菊池氏だったりするワケで。一ノ倉、そこにはディープな歴史がある。

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【あのころのゲレンデ・ガイド】
改めて思い返すと、ワタシのささやかなロック・デイズとは、この日本全国「ハードフリー」化というブームの中で、地味にクラシカルな登攀(それも、せいぜい中級レベルなw)ばっか、追い求めていたコトになる。とはいえ自己満足感は今でもあるんですけどネ。ワシらに限らず、その「ニュー・ウェイブ」に食いつかなかった、乗り遅れたというコンサバ・クライマーも多かったハズだと思うのだが、どうだろう。
ヤングさんにはワタシの語りクチに違和感を覚えるかも知れないが、ワタシにとってフリー・クライミングは「後から」出てきた流行で、その遊びが日本に根づいたころにはアシを洗っちまったから仕方ないんです。

まあその。自分がやってもいないフリーのハナシを一方的に進めるのもアレだから、ココで「ゲレンデ」について触れておこう。
首都圏クライマーのトレーニングの場「ゲレンデ」といえば、当時は、戦前から有名な「三ツ峠」のほか、奥多摩の「つづら岩」や「越沢バットレス」、秩父の「日和田岩」(上の写真)、丹沢の「広沢寺」あたりがラインナップ。ほかに三浦半島の石切場「鷹取山」というのが知られていた。

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都下の学園から比較的近く、いつも空いていたから最も足しげく通ったのが「つづら岩 」。今では五日市線のどの駅で降りたのかも忘れているけどサ(w 先日、関東岩場ガイドみたいな本を立ち読みしたら、もう忘れ去られた岩場みたい。それはそれで悲しいな。上記のサイトで「オケラルート」ってのがある。この珍しい穴ボコくぐりだけは思い出すコトができました(w
そこが混雑していたら、近所にある小規模な「天狗岩 」でトレーニングした。ロンゲにしていた最後のころの肩がらみ確保をしているワシの写真が、天狗だったかな。
いずれにせよ、エスパース・テントを背負って、岩の基部で前泊(宴会もw)しながらトレーニングするってのは、学生の特権ですナ。

「つづら」には恥ずかしい思い出も残る。それは1979年の初夏、ワタシが山岳部に入りたてで、最初の岩訓練でソコに拉致されたとき。「肩がらみ」での懸垂下降訓練のときにナゼかザイルが外れ(ナゼだろうw)、外れちゃったらフツーは墜落するワケだが、ヘタレのワシには確保用のトップロープがもう1本結ばれていたからコトなきを得た。しかし完全に動転したワシは、地べたに降ろすべくトップロープをズリズリゆるめるセンパイに、一方的にイノチを託しているのが心もとないっつーか信用ならんというかで、「ひええ。もっとゆっくりやってくださいっ」などと半ベソで叫んだら余計にラフにザイルを流されたりして、半狂乱(w その確保用ザイルをむやみに握りしめて握力がゼロになったりと、アホ丸だしの苦い「岩デビュー」だったんです。

「広沢寺」のスラブは電車とバスを使って1回行ったきり。そんなに面白い場所ではなかったなあ。それよりも、当時は都心の大学が郊外に移転するブームで、小田急線の駅からゲレンデに向かう乗り合いバスの行き先が「青山学院大学」だったってのが、よほど印象に残っている。

「つづら」の次に通ったゲレンデが「日和田岩」。ココはそのころ「女岩」のハングがフリーで突破され、独自フリー路線を突っ走っていた先端のゲレンデだ。「ヤマケイ」誌でも、日和田に集うクライミング・バムのハードフリーに打ち込む日常という手記が載ったくらい、ハジケていた時期となる。
もっともワシらは、そんなヒトたちを「うおー。スゲー」などとクチ開けて見上げていたワケですが、いま振り返ると、日和田だけが「黒船」的クライマーを見られるトレンディ・スポットなのだった。
ココもテントで前泊しながらが練習した(傾斜のゆるい、カンタンな男岩のほうネ)ものだが、いつもヒトが多すぎのザイルがスダレ状ってのがタマに傷。

【秘密の特訓場を発見する】
この年の夏前くらいのコトだったか。週3でトレーニングをしていたワシらだったが、ランニング・コースのひとつに小さな池を湛えた「S公園」ってのがある。ともかく「使えそうな石垣」を探して鵜の目鷹の目だったんです。あるときワタシが「もしかして」とこの池の放水路とでもいう場所に降り立ったら、じつにナイスな「ゲレンデ」ってコトが判明。
人工の一片30㌢くらいの石垣をダイヤモンド状に貼りつめた、ドコにでもありそうな高さ2㍍ちょっとの涸れた用水路の両側面、その長さ(横幅)は10㍍くらいあっただろうか。もともと腕力はヒトより劣っていたワタシは、全盛時(体重60kg)で懸垂(もちろん両手なw)が12~3回くらいしかできなかった。
高グレードのピッチを攀るには、早いハナシがフィンガー・パワーの鍛錬が必須で、日常的にソレを鍛えられる場所としてココはうってつけに思えたワケ。この石垣の造形ってのが、たまたまトラバースの訓練にピッタリな小さいエッジの立ったホールドを拾えるもの。
◆ようやく、同じムードの石垣の画像を見つけた。あのその。背景がメインなんだからネ(w 
ジョギングシューズで両足はスメアリングか親指のハラで5mmのエッジング、左手指2本が第1関節(腕がプルプルしてやがるw)で右の遠く高い小さなホールドへ伸びあがってつかむ、なんてのをやったら、最初はわずか半周で腕が上がってしまったもんだ。

皆で書きつけていた「部誌」に大発見!とか書いたもんだが、ある先輩からは岩登りにマストな高度感がマッタク無いってのはどうかと反論が書かれたり。でもサ、それは当時にあって無いモノねだりだ。ある意味、恐怖感を覚えずにムーブだけ集中して訓練できるのが強みじゃんか、などとアカデミックにヘリクツをコネたりしたっけな(w

この1年後くらいに、日銀本店の近くにある「常盤橋公園」という江戸城遺構の立派な石垣がある場所でフリーのトレーニングを行うのがブームになったコトがある。ソコはワタシも何回かチャレンジしたもんだが、まあ、てんで小粒ながら似たようなヤツが近所にあるコトが嬉しい。慣れてきたら、落ちずに3周できたりした。トレーニングの成果が目に見えると励みになるもんね。

特訓場所について、もうひとくさり。部室の真ん前にケヤキの大木があって、ソコに先輩たちの労作「直登ルート」ってのがあった。いやその。ハーケンとロックハンマーでホールドを切ってあっただけだが(w 5㍍分はあったかも。しかしその間隔がけっこう遠く、また樹皮が盛りあがって丸まっちくなった第1関節3本がけのホールドでは、当初のワタシでは歯が立たなかったもんだ。あるとき某センパイがチャレンジ中、たまたま通りかかった学生課の職員に見つかって大目玉。それから登攀禁止の憂き目をみた(汁
他に、プレハブ長屋の部室の中で、むき出しになっている天井部分の鉄骨の梁にハーケンが4本ほど等間隔に打ちこんであった。ガッチリ効いてる。それをアブミの架けかえ、つまり「A2」の人工で渡るという荒っぽい遊び。狭い部室のテーブルの真上でソレをやられると迫力はあるがケトばされそうでオッカネー、そんなシロモノ。ああ。古き良き時代よ(w

【富国強兵の時代】
さて、そういう遊びや合宿や沢や岩をやっているワタシの山歴とまるで併走するように、フリークライミング(ごく初期には「ハードフリー」と言われていた)は猛烈なイキオイで発展していった。
たとえば、ジョン・バーカーのボルダリングを戸田氏らが見せつけられたのは、ワタシが山岳部に入部した直後のころで、それが「イワユキ」に載ってビックリさせられたのが、80年代を迎えた直後。
その年の夏には「小川山」「ミズガキ山」のクラック・ルートがビシバシ開拓され、グレード・アップもウナギのぼり。81年になると、伊豆東岸の「城ケ崎」という広大な岸壁エリアが発見、開拓され、今も続く人気の場所となっていく。
このあたり、諸外国に遅れをとっているのを取り戻そうと、勤勉な日本人が明治維新を経て富国強兵に走りまくったのとマッタク同じ構図だったりするワケだが、ワタシの関知していたのは、せいぜいこの「勃興期」まで。

この後、前述した「我々はいかにして『石』にかじりついてきたか」から引き続いて引用しますと、フリーの大きな流れは、ヨセミテかぶれのクラック登攀からヨーロッパ風前傾壁へとトレンドが変わり、高難度化とスポーツ化がさらに進行し、今世紀あたりになるとクライミングジムが林立して、インドア・コンペの隆盛と相まって「外岩」(なんつーコトバじゃw)に出かけるのはボルダーのみ、といった極端とも言えるセグメント・スポーツになっているとのこと。

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【ラード的ビッグバン】
そんな年の11月下旬、首都圏でもっとも遠くてもっともデカいゲレンデ「三ツ峠」を初めて訪ねた。ニューウェイブとは無縁と言いながらも、ともかくステップアップしなきゃという、アセリにも似たキモチを持っていたのだ。
この写真は「峠の岩」で異端的に有名な、トップロープで「Ⅴ+」のクラシックな課題「大根おろし」を攀るワタシ。このときから、こんなカッコに変身しているワケですが、これもフリー化の影響といってイイかと(w

大根おろし」は、それ以前の時代に重登山靴で攀るもっとも難しいグレードと言われていた。ワタシは「S公園」をジョギングシューズでトレーニングして実力を上げていたから、ゲレンデや本チャンも慣れ親しんだソイツで攀ろうとしたんですね。ところで、ジョギングシューズ(これ、そのころ一般化した「Popeye」語だったような)なんてカッコつけた呼びかたをしているが、じつはスーパーのワゴンセールで千円くらいのペラペラのノーブランド(w ただしグリップしそうなゴムソールを持つモノを、じっくりと選んでいた。
ともかく輸入されているフラットソール・シューズが「EB」しか無い時代で、そんな高価いのなんか要らんと、その後ほとんどの無雪期の岩はジョギングシューズで登攀したワシ。本チャンで「V+」のリードまではビビることなく攀れたもんだ。習うより慣れろ、ですナ。

【追記:2010年3月30日】
運動靴でクライミングするヒトなんか二度と現れないだろうから、少し追記しておこう。
当時、ジョギングシューズという呼び名が「ナウい」ものだったのは、一般ピープルにとっては確かなハナシ。そして「スニーカー」もナウかった。1979年の夏に流行った名曲「虹とスニーカーの頃」を思い出せ(w では、それまで何と呼んでいたのかと記憶をたどっても、イマイチ思いだせません。運動靴、だったかな。ワシの母は「ズック」と呼んでいたが、さすがに昔のその流行語はダサくなっていたのも確かだ。

そのころ全盛を迎えていた「平凡出版」のメンズ・ライフスタイル誌「Popeye」では、ウエストコーストの世界観を強烈に発信し続けていて、それまで高級スポーツシューズといえば「アディダス」が代名詞だった日本に、新興ブランド「ナイキ」を周知させたものだった。ブームを牽引したのはジョン・マッケンローだったと思うけれど。何しろ当時はテニスをやっていないとナウくなかったからな(w 「山ヤ」なんざ、どんだけ学園内で肩身が狭かったコトか(汁

ところでジョギシューのワイズは「D」くらいのモノしかなく、典型的バンビロ足型のワシがジャストサイズを履いていると両側の小指あたりのナイロン地が徐々に破けてきたもんだ。それでも1㌢程度のフットホールドなら親指のハラで余裕で立ちこめるくらい熟練したのだが、ワタシが履いたことのない現在のクライミング・シューズよりは、絶対に攀りにくいモノだったハズ。
後に登場する新人の「O」は、フザケたことにナイキのナイロン「コルテッツ」なんつー高級品で本チャンをやっていた。アナが開いたらもったいねーッス。「このプチブルめが」などとイヤミをカマしたもんだが、ちなみに今でもそのころに刷り込まれたブランド観は強固で、コルテッツはフツーに愛用しているワタシです。(追記ここまで)

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ハーネスも替えた。南稜まで使った重たい全身用「ICI森田モデル」を、「トロール」のスワミベルトに12mmくらいのテープをレッグループに組みこんだ半分手製のモノにしたんです。コイツを巻いていて落ちたコトは無かったが、しかし強度は十分だったのか、いま考えるとオッカネー(汁
この写真は、たしか「地蔵左」ルートといい「Ⅳ」だったかな。このときもテント泊だったハズだが、主に岩場の右側のショートルートをアレコレとトレースして、大いに自信をつけた。

そのイキオイを駆って、12月の初頭だったか、奥多摩の「越沢バットレス」へ出かけた。ココはマルチピッチの難しいゲレンデで知られていた。そしてついにワタシは「Ⅴ」のリードを攀れたのだった。何というか、自分の臆病な「シバリ」を解放できたような、強い高揚感を覚えたもんでした。これがワタシの「ビッグバン」。
しかしモンダイは、これから半年近く無雪期の岩登りをできなくなるスケジュールだってこと。やっと楽しめるようになったのにと、なんか切なさを覚えたもんだ。岩登りとは本チャンの登攀だったから。そしてこの3週間後、ワシらは「ゴーロク豪雪」の八方尾根を、ヒイヒイ言いつつラッセルしていたワケでしてね。

ワタシは、主将として部をまとめたこの翌年度にアレだけ岩登りを集中的にやろうとは、この時点では思ってもいなかったんです。まあ、部員構成の流れで、そうなった。
この同時進行的な「フリークライミング」勃興期と併走して感じたことは、まず、クラック登攀とかは指が痛そうでイヤだった。当時のフリーとはクラック・ルートを差したからね。また、腕力イノチの人工ルートはパスしたかったワタシなんだから、より力量が丸見えのフリーには興味が向かないしサ。
それから、フリー・クライミングだけに熱中するのはムリだなと、ハナからあきらめていたコトも事実です。ほら、オールラウンドの登山を標榜するから、「同好会」みたいな浮き草的ブカツ、ソレをしたくてもできなかった。
しかし、何より正統的に自分の登山を組みあげたかったという思いが強くあって、そんな中から、来年はトラディショナルなフリーを主体とする超ロング・ルート「一ノ倉・3スラ」を目標にしてやれ、そう考えたワタシだった。


◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


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元「山ヤ」の体験談CM:6

褒めてやろう

2010/02/19(金) 23:56:06

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いや、自分で自分を、ですけどね。明日という日は、ラード的超メモリアル・デイなのだ。

ついに、禁煙して丸10年が経ったワケです。
よくやった、ワシ。
がんばったな、俺。

おっと。こう書くと「10年もよくガマンしたね~」的ニュアンスになっちまうのだが、まあその。それが真実でもある(w あい変わらずタバコから「解放」されていないとも言えて。

この10年間、紙巻タバコをクチにしたことは1回もナシ。2年くらい前に「モンテクリスト」なんつー葉巻を丸々一本、たわむれにシガーバーで吸いきったコトがあるのみ。葉巻は、しかし吸っちまったという後悔と共に、後々まで胸のキモチ悪さが尾を引いたもんでした。

この記事にもアレコレ書きましたが、今から10年前ってのはオフィスの自分のデスクで吸ってもよかった最後の時代。ああ、吸わないヒトからすると「良き」ことなど無かったハズですがネ。
勤め先のオフィスは一昨年からフロアに1ヶ所づつある狭い喫煙室でしか吸えなくなってますが、しかしそれは某得意先の喫煙環境に比べたら格段にマシだ。ナゼならその得意先が入居する35階建てのビル内ではいっさい吸えず、1Fビル裏の青空喫煙所のみという仕打ちだからです。ああ、寒そう。それにしても、そんな仕打ちを理由にやめたりしないんでしょうかネ(w
ともあれワタシにとっては、タバコの値上げラッシュおよび喫煙環境の締め付けという点から、良いタイミングで「いち抜けた」と思います、ハイ。

というワケで10年記念だ。じつに区切りがイイでしょう、10年。とりあえずナニか褒美を、自分にご褒美をと、アウトドア・ショップをいくつか見て回ったんですが、とくにコレといって欲しいブツが無いときた。それはそれで悲しい(w

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そういや、禁煙7周年の達成を記念したとき、トランギア「TR-25」とか発売されたばかりのトライアングルグリッド、それとスノピの「チタントレック700」なんてのを買ってきたワタシでした。ところがトランギアを実際にアウトドアで使ったのは3回あったかどうか、だがネ(w
アルコール系ストーブを「盆栽」するヒトたちのキモチは、わかる。不安定なブツだから、ワタシはメンドくさくて使わないけどね。ああ。改めて考えると、ワタシの場合はそのアウトドア「盆栽」的な楽しみを、焚火と焚火関連グッズに求めているからなのかも知れません。

ともかく「ナニか買わねば」と逸(はや)るワタシ、皆さんよおっくご存知の固形燃料「エスビット」525円と、そのゴトク「チタニウム・ウイングストーブ」1,365円を購入。このお値段なら後悔はしなくて済みそうだよナ。

「さかいや」を覗いたとき、エバニューの新しいアルコール系システムゴトク、「チタンDXスタンド」ってヤツが4k円弱で棚に並んでいて、妙に質感が高くてガジェット感も満載のコイツに一瞬「おおっ」とは思ったのだが、結局、使い勝手がイマイチ(途中で消火ができない)かなとあきらめた。愛でるだけにしては値が張るからね(w

それにしても「エスビット」、近ごろでは存在価値がずいぶん復権しているね。面白い。ワタシが高校生のころにも「ICI石井」あたりの山道具屋で売られていたハズですが、当時は「メタ」という製品のほうが「山ヤ」の利用者は多かった。その用途は、もっぱら白ガスとか灯油ストーブのプレヒートのためだったけどね。だから、復権というよりも改めて脚光を浴びている、そんなムードなのかネ。

ワタシが改めて「エスビット」という固形燃料に関心をもったキッカケが、5年くらい前に知った有名なこの記事。文中のアリゾナの旅人が演じる、どシンプルで身軽な野宿というスタイルには強く憧れるものの、しかし日本で、慎重というか臆病なこのワタシができるワケもない。印象には深く刻まれながらも違う路線を考えてきました。そうしたら、いつの間にやら「業界」でこのシンプル・スタイルが大ブレークしてたり(w

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コイツを買ったショップは「WILD-1」印西牧の原店。エスビットはタブがデカい「ミリタリー」しか置いてなかったんですが、ノーマルと比べて優劣がわからん(w このタブ1ケで15分間燃えるらしい。3年ほど前に「ODbox」で買って放置していたUL風防が、ようやく日の目を見そうなのは善哉。

そうして、とりあえず室内で着火の儀。手で半分に割った7gをセットする。禁煙7周年グッズのひとつ「トレック700」は、今までもワタシの考えたスタッキング・ラインナップから外されたイマイチなヤツだったが、今回もゴトクにキッチリ乗らないというハンパ具合。ルックスはカッコよろしくて好きなんですが、なんかねえ。
エスビットの能力は、無風で20℃くらいという最高の燃焼条件にあって、300ccを沸騰させるのに、約8分。それもグツグツとはいかず、だった。2分の1のタブ自体は9分過ぎまで有効に燃えてはいた。ところで、なんかリビングが烏賊臭いんだけど、やっぱコイツのせいか?

ま、こんなモンだよね、コケネンなんか(w ギリギリのULバックパッキングでコレのみ携えて出かけるヒトって、ある意味すごいな。ワタシはせいぜいバックアップ用にするけれど、愛用のキャニスター・ストーブ「チタン地」が壊れるコトも考えられないからね、買ったその日からビミョーな立ち位置のエスビット君と言えそうです。

バックパッキング・道具考CM:8

ラード的山がたり ロック・デイズ(その2)

2010/02/11(木) 23:50:26

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1年ぶりに、続きを書こう。

◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。

【山岳部とロック・クライミング】
2年生になったワタシ、いよいよ「本チャン」の登攀(とうはん)が多くなってきた。「オールラウンドな登山」を標榜するわが部にとってロック・クライミングは避けて通れない課題なのだが、じつはワタシ、1年の新人時代には「岩登りはキライなんですぅ」などと諸先輩に泣きゴトを言ったくらい、苦手意識を持ってもいた。高校のときには単独で沢の滝に取り付いてたってのにネ。
この年、そんなワタシに、なんというか「ビッグバン」が起こる。今回は、そこに至る道のりをご紹介します。

ワタシが現役時代の岩登りといえば、それは「本チャンの登攀」を指す。本チャンとは今でいう「アルパイン・クライミング」。誰でも知ってそうなクラシック・ルートで言えば、北岳バットレス第4尾根とか谷川岳一ノ倉沢南稜とかですね。どっかのブログで「アルパイン=エイド(人工登攀)」なーんて書いてるヤツがいたけれど、それはとんだ思い違いで、本チャンとは「人工登攀」系と「自由登攀」系という2系統があったワケ。

当時の岩登りがどんな装備で行われていたか、昨秋、ドンズバの動画を発見しました。1973年制作、研修用教材と思しき映画。基礎編と応用編で、3話ずつ計6篇が「うp」されています。なんたってワタシの愛読書「なんで山登るねん」の著者、高田直樹氏(黒メガネ、あごひげ)がモデルってのがイカス。
当時は燦然と輝くザックの雲上ブランド「ミレー」の「グランドジョラス」(だっけ?)を背負ってる。ザイルの結びかたとか、懐かしいな。ブーリン(今でも自分の胴で即結べる。カラダで覚えているらしい)、エバンス、8の字、プルージック…。応用編では装備群の中にカムナッツが見えて驚かされるが、だいたいウェアといい装備群といいワタシの時代と同じようなムード。いやしかし、まったく懐かしい気分にさせてもらえる作品ですナ。

さて、本チャンを攀(のぼ)るためのトレーニングの場を「ゲレンデ」と呼んでいた。首都圏近郊にいくつかある天然の小さい岩場で、ソコで先輩たちに基礎から学んで修練を積んで、そうして一ノ倉とか穂高などでの本チャン・デビューを目指す。
いまなら首都圏にいくつもあるという「クライミング・ジム」に通って、それこそ毎日でも取り付いて動作に慣れ、高度感に馴染み、テクとパワーを磨くコトはできるだろう。その整ったインフラはものすごく羨ましい。何しろ昔はゲレンデまで出かけるのにも労力がかかったからね。

その当時、岩登りをする目標ってのが、より難しい本チャン・ルートを攀ること「のみ」にあった最後の時代、とは以前にも述べた。あとで触れますが、1980年1月発行のクライミング専門誌「岩と雪」72号に載ったジョン・バーカーの「信じられん」ボルダリングの連続写真と、それを撮影した戸田直樹氏らによるヨセミテ取材記事が日本のクライミング界に衝撃を与え、それ以後、ビシバシと自己変革が始まっていった。
そういう先鋭の流れに乗りたいクライマーは、大学山岳部などよりも社会人山岳会の門を叩くべきだったろう。限界を追求したい、自分の名前をルートに刻みたい、そんな情熱家にとってはだ。

ワタシには、しかしそんな上昇志向なんかマッタク無かったけどネ。大学のブカツなんか「コンサバ」もイイところだもんね。「体育会」所属の組織のクセして、コンペティションという行為が無い、自己研鑽のための活動ってのは、いま思い返すと特異な存在でしょうね。
ただし今から30年前の当時も、そのまた20年前でも、大学山岳部というのはルーティン的な活動で、記録に乗るようなな先鋭的山行はできない、しないってのが事実だった(ごく一部を除いて)。
わが部も、メイン・イベントが3月に行う長期縦走合宿で、その1年間の山行は、本チャン・ルートの登攀も含めて全てが、その春合宿のためのトレーニング山行と位置づけていたのだ。
大学生としての登山活動は、たかだか3年間ちょっとだから、その中でオールラウンドな登山を目指せば、それは「広く浅く」という内容になる。部員の育成も重要ですしね。
とくに他の体育会団体と異なるのは、山岳部という組織はそのリスキーな活動内容から「遭難対策」という側面を欠かせない点で、そこは社会人であるOB会のネットワークにハゲしく依存していたのだ。万一の場合の人材面でも、また資金面でも、先輩諸氏の好意に依存して合宿や個人山行をしていたのは事実で、それゆえに「コンサバ」な山行となるワケです。

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【バットレスと幽ノ沢】
おっと。ウザいハナシがまた長引いちまった(w では、楽しそうなネタを投入しましょう。
このGW、谷川岳での新歓・雪訓合宿を終えてから、個人山行が活発化していった。5月から6月にかけて、谷川岳幽ノ沢での本チャンを2本と、北岳バットレスを攀ったのだが、その前後にも、裏丹沢のエビラ沢とか、日和田岩、つづら岩での岩訓練を行っている。なんか、晴れていれば毎週でも出かけていたんじゃないか、そんなイキオイです。2年次のワタシの入山日は、ちょうど100日を数えた。

ロック 北岳1

ひとつ上の古ぼけたモノクロ写真は、いささか時代が前後しますが、1977年7月、南ア・鳳凰三山。高3当時のボクがフレッシュでしょう(w 今ではリッパなタレ目だが、当時はキツネ目だったのです。加齢ってのはザンコクだ。さておき、「背景」に注目していただきたい。大樺沢の上に凛々しく展開する岩壁が、「北岳バットレス」。その左側に弓なりに長く伸びる岩稜が「第4尾根」だ。

北岳 2

ワタシはこのルートを、6月初旬にK先輩と攀った。この日は快晴だった。そのまま縦走に出て、両俣小屋を経て仙丈ケ岳へ登り、伊那へ下ったと記憶する。ルート図に「マッチ箱のコル」というポイントがあり、この翌年に地震で崩落してしまうピナクルが、このときはキチンとあった。
すべてセカンドだったが、今でも覚えているのが、マッチ箱から先の「Ⅳ」のフェース。ワタシの足元はゴローの重登山靴だったが、つま先の小さいホールドがツルッと外れ、アレレという間に両手指も支えきれず、およそ50cmくらい落ちてザイルにブラ下がったワケ。ケアレス・ミスだ。「あー、ハズカシー」ってな軽いムードで、その後はフツーに攀りきってビレイ点に着いたら、先輩が「お前、さっき落ちたろ?」。「う…。バレてましたか」、そう嘯(うそぶ)いたら、「あったりまえだ、バーロー」とお見通し。えらく怒られた。いやしかし、本チャンの登攀では絶対に落ちてはいけない、そうキモに銘じた一件だった。

ロック 谷川挿図

このバットレスをやる直前、5月下旬には谷川岳・幽ノ沢の「左俣中央ルンゼ」を攀っている。幽ノ沢はこの動画で旧道の出合から見上げたシーンが美しい。目標ルートは滝になっているルンゼのすぐ右の凹状ですが、この岩場に取り付くには雪渓で埋まった入梅前のほうがアプローチがラクですナ。

谷川岳・東面

そういえば、谷川岳の岩場で「一ノ倉」のみに偏っていないのがワシらのエライところだ(w というのも、ワタシの身元がアレになるからナニしますが、このあたりの「岩」をヤルのに最適なBC(ベースキャンプ、非営業の山小屋)を母校は持っていたワケです。ソコから出撃して堅炭尾根などを下って戻ってくるから、良好な行動拠点を持つメリットがあった。

ロック 左俣ルンゼ

さて、ルートは先輩2名に連れられてオールサードで攀っているのだが、今ではほとんど記憶がない(「コレが小ハングの乗ッ越しってヤツか」くらいで「Ⅴ-」のピッチはトンと覚えていないから、楽勝だったんだろう)が、こんなルートとのこと。
お天気がどうだったかも覚えていないが、コレが前年8月の剱・八ツ峰以来となる「本チャン」となった。豪雪に磨かれた幽ノ沢の岩場ならではの白く輝くありさまを、記事の写真たちで懐かしくちょっとだけ思い出しました。

ロック V字

6月下旬には、同じく幽ノ沢の「V字状岩壁・右ルート」を攀っている。梅雨の中休み、だったのだろうか。たいしたグレードではなく、やはりルートの記憶は残っていない。ところで、この参照サイトの上から2番目の画像が秀逸です。あらためて幽ノ沢の全容が見てとれるステキな写真だ。

このルートの思い出、じつは別にある。同じ「V字」の難しいほう、左ルートをやったパーティの悲劇だ。社会人になってから北海道のキャンプ・ツーリングを一緒に行った同期の「S」のコトなのだが、セカンドで確保中にトップが墜落。ハーケンを飛ばしつつ10㍍以上も落ちたのを「肩がらみ」ビレイで止めたのは見事なのだが、彼の背中はシャツを着ていても流れたザイルで皮膚が焼け、背中一面「袈裟懸け」状のケロイドが残るキズを負ったのだ。その晩、BCに戻って痛さにモンゼツしている彼に向かってつぶやいた、落ちた某センパイのヒトコトが伝説的だ。「傷口にキンカンを塗ってやろう」(w

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【岩の殿堂へ】
次の岩登りは、北ア・北穂高岳の「滝谷」。縦走合宿の打ち上げ後、そのまま岩の殿堂に定着して、数日間を遊ぶという準合宿のような山行だった。このころになるとワタシも岩に馴染んだというか、自信がついて恐怖感が拭えたというか、ヤル気が充満していた。とはいえ、未だ修行的な「ザイルのセカンド」時代が続いている。それでアセリを覚えるなんてコトは無かったけれど。

ところで、その第1次夏合宿の北ア・南下コースの縦走ってヤツが、いま振り返ると結構すごい。ちなみに、こんなのだ。黒四ダムからハシゴ段乗越経由で入山、剱をピストンして立山から薬師岳へとひたすら南下、太郎平から赤木沢をワンデイで遡行し、黒部五郎から鷲羽岳経由で雲の平に入って休養。続いて竹村新道を湯俣へ下り、北鎌尾根を登り返して槍から北穂で涸沢入り。休養後、ザイテンから奥穂に登って西穂経由で上高地に下山。
これで夜行11泊12日、そのうち2日が休養日というスピードだもんな。しかしまあ、4~5人用のエスパース1張りに5人で暮らした真夏の苦行、ではあった(w
その合宿をいったん解散させて、新たな参加者も含めて7名で、そのまま涸沢経由で北穂の幕営地に舞い戻ったワケ。むーん。充実している。縦走時は雨の日が多くて天を呪ったものだが、滝谷では微笑んでくれたようだ。

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記録によるとワタシは4日間で5本を攀っている。このときは入門的なグレードのルートばかりだが、やはり大正時代の昔から燦然と輝くアルピニズムを育んできた殿堂ですからね、荒涼とした光景の中に凛々しさを覚えたワタシ。ココで逝った先達が、はたして何百名いるのか詳しく知りたくはナイが(汁

【追記:2010年7月10日】
「滝谷」岩壁群のすばらしい画像を見つけたので、引用させていただきます。元ネタは、「ヤマレコ」のこちらの記事。うーむ。大キレット周辺の正しい光景とは、このように見えていたんですね(汁

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この画像の解説を少々。カメラは真南を向いている。手前は南岳の小屋で、「大キレット」越しにテラテラと赤く映えているのが「鳥も止まらぬ」滝谷の岩場。左端は「前穂」のピークと北尾根で、その右にある広い山頂が「北穂」。右側の南峰で、3,106㍍。ピーク左端に「北穂高小屋」も見えているが、ココでは分かりづらい。そして滝谷の奥にある広いピークが「奥穂」で、右端に「ジャンダルム」。

この画像は昨年9月の撮影とのことで、滝谷の主だった本チャン・ルートも良く見えている。この合宿時に攀ったルートを示すと、北穂南峰から右下に明瞭な45度角でスイーッと落ちるのが、「第2尾根主稜」なのだが、その上から3分の1あたりが「P2」(2番目のピーク)で、こちらに四角く腹を晒している日陰の尾根側壁が「P2フランケ」ってワケだ。
ところが「P2フランケ」は、1998年夏の大地震によって丸ごと崩落してしまい、それから10年を経たこの撮影時でも、むき出しの白っぽい壁の様子が見て取れる。
第2尾根の向こう側に、これは分かりやすい「滝谷ドーム」。なんとなくヨセモテの「エル・キャピタン」に似てないか? ドームで影になっている部分が「北壁」。右半分の「西壁」の右端のエッジ・ラインが「ドーム中央稜」。そしてドーム奥側から右下まで落ちているのが「第3尾根」。ちなみに陽の当っている部分の最も奥が「第4尾根」だ。
(追記ここまで)

ドーム北壁写真

8月3日。最初はアプローチがラクで短いルート、ドーム北壁の左ルートへ。3名パーティだが、トップがセカンド2名を同時に確保する登りかた(なんて名前だったか、忘れたw)だったかも。ちなみに壁の画像は「穂高岳の岩場」(山と渓谷社・1979年発行・絶版)より。写真ではおっかない印象を与えるが、ルート内容は単調だった、ような。

3尾根写真

8月4日。第3尾根へ。ガレキを敷き詰めたような急峻なルンゼ「C沢左俣」をガシガシ下っていくアプローチの方が印象に残るな。
このときの足元は、北穂のサイトでくつろぐバッチイ(もう3週間くらいフロに入ってないハズw)けれど引き締まった(このころは、通常なら61kgくらい。こんな長期の合宿で58まで減った!などと喜んでいたワタシ、つまりスリムだったワケじゃん)ワタシの写真で分かる。ニッピンの皮製登山靴だ。ゴローは冬の登山用に温存するコトにしたのだった。
ガラガラの滝谷でのアプローチに重登山靴は適している。コレがフツーの岩登りのカッコという時代の、最後のころですね、そういえば。たしかこの年に社名変更した「アシックス」がリリースした登山用スニーカー「ガントレ」(トレラン用シューズの元祖みたいなモンだ)ってのが一部でブームになったものだが、しかし荒れ果てたこのエリアにあっては1日で穴が開きそう、そんなムードです。


3尾根トポ

初登が1931年8月という滝谷でもっともクラシックな尾根ルートは、ガスってなければ眺めがバツグンだ。この記事最初の画像、青いゴアテックス・ジャケットがマブい登攀中の写真は、この「3尾根」の上部で撮られたモノ。今となっては思い出せないけれど、こんなショート・ルート1本で登攀を打ち止めするとは、昼前あたりから雨でも降り始めたのかも。

ところで、いきなり思い出したコトがある。途中参加のOBの差し入れのブツについて、です。
合宿中の小屋での買い喰いは厳禁で、実直にそれを守って(ま、そんな小遣いも持ってないしw)半月ちかいワシらに、その差し入れは燦然と輝いていた。ナニかというと、「QBB」のチーズだ。業務用っつーんですかネ、長さ25cmくらいの一本棒。それまでのメシが粗末もイイとこだったから、チーズのあの味が美味くてたまらぬ。たしかワシひとりで5cm分くらい、バクバクいただいてしまった。当時の合宿でのメシは、ある意味で極限状況と言って良いシロモノだったからなあ(汁

P2フランケ写真

8月5日。第2尾根「P2フランケ」の易しいほう、「芝工大」ルートへ。フランケとは側壁という意味。記憶がオボロなのだが、たしかこの登攀の途中でトップがコブシ大の「ラク」を出したのだ。見上げていたワタシがアタマを丸めた後ろを「ブンッ」と落ちていった。オッカネー。

P2トポ

ところで、この壁の記事をネットで検索してもナゼか昔のネタしか見つからない。そういえば、10数年前の地震によって登攀禁止となったルートがいくつかあると何かで読んだコトを思い出した。そこでググったら、この記事を見つけた。そうか。ゴッソリと崩れ去ったワケか。なんか切ないね。

実際、ワシらが攀っていた30年前でさえ滝谷の岩はグズグズな部分が多かった。老年期に入った地質(岩と砂だけど)とでも言うんでしょうか、危険なほどに腐っていたのだ。この翌年の夏のコトだが、どのルートだったか、ホールドはいちいち叩いて引っぱって確かめながら攀っていたのだが、OKと判断したホールドに荷重したら周辺ごとひとかかえ(50㍑のザック大)もスッポ抜けて、轟音とともに落ちていったという茫然体験がある。そんなのが下にいるヤツに当たってしまったらと考えると気が気じゃない。人為的な「ラク」は、食らうのも出すのもイヤだからね。
昨年の夏、28年ぶりにこの北穂の幕営地で張ったワタシはクライマーたちがいないことをフシギがったもんだが、今ようやく納得できた。
「ヤマケイ」誌の2008年7月号に大キレット縦走の紹介記事があり、その中にヒントが書いてあった。少し引用します。「忘れもしない98年8月16日未明、群発地震でも最大の震度6といわれた地震が発生。その日の午後、この稜線に行ってみると、まるで将棋倒しの駒を積み上げたように浮き石だらけで、とてもではないが登る気にならない」。

ドーム北壁トポ

8月6日、この日は2本やっている。まずはドーム北壁・右ルート。左よりはキモチ難しい。快適にフォローしたような記憶が、うっすら残る。

中央稜トポ

この夏最後のルートは、ドーム中央稜。グレードからすると最も難しいというコトになる。Ⅳのピッチが連発だからね。この動画(後半)を見ると、なかなか攀りごたえがあり楽しそう。む。やっぱり覚えてないッス(w

さて、「滝谷の日々」を終えたワタシは、けっこう岩登りに対する自信をつけたと思う。怖いよりも面白い、楽しいという感情が勝ったというワケだ。ラード的モチベーションの「ビッグバン」が起こるのは、この直後、10月の「一ノ倉沢・南稜」を攀ってから。そしてその燃料になったのが、この年5月に買って耽読していた「初登攀行」の文庫本。それらは次項で述べていきましょう。

元「山ヤ」の体験談CM:5

圧縮いのち

2010/02/07(日) 18:57:38

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よく考えたら「いのち」なんて言うほどカネかけてはいないが、まあイイや(w
バックパッキングでも、もちろんバイクのキャンプ・ツーリングにもこの上なく便利な「袋もの」のハナシ。オートキャンパー、あっち行け。そして装備を軽く小さくしたいと切望するアウトドアズ・マンには見過ごせないネタだよ、きっと。

昨夏の北アルプス・バックパッキングを行うにあたって、キヨミズなまでに軽量グッズをアレコレと買い出したワタシでしたが、なかでも地味な存在ながらもピリリと光る脇役になってくれたのが、画像右上の紙パッケージに入ったコンプレッション機能つきスタッフザックだ。ちょうどモデル・チェンジされたばかりで、さらに軽量化された「グラナイト・ギア」の「エアヴェント・ドライブロック・ソリッド S」。
「さかいや」での購入価格は、3,885円。目方がわずか63gという超軽量とはいえ、たかがスタッフザック1枚にこのお値段はコンサバなジジイ(ワシのコトねw)をたじろがすに十分です。ネットかドコかで今買うならコレしかない、そう指摘されていたから思い切れたワケ。
コンプレッションとは圧縮の意。ガサばる装備品を入れて天地を圧縮して体積を小さくできる収納袋で、とくにダウン・シュラフの携行に効果を発揮する。この完全防水の袋「11㍑」には、8日間の山旅における防寒着と着替えのすべて、それにシュラフとシュラフカバーまで、ひとまとめにブチこんだ。夏だからできたコンパクト化、ですけどね。

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まあその。もともとワタシがコンプレッション・グッズを導入したのは早かった。コレは「イスカ」社の最初期のプロダクトだと思うんですが、ワタシが林道野宿ツーリングを始めた1987年あたりに購入した画期的アイデア・グッズ。たしかツーリング雑誌「アウトライダー」で知って、ただちに大阪のドコだか忘れたが山道具屋へ走ったという想い出の一品だ。

コレはLサイズで、ほかにMも2ケ同時に買った。いやしかし感動しましたね、最初に4シーズン用シュラフを圧縮したときは。「半分になった!」。山岳部現役のころにコレがあったらなあ、などと悔しい思いさえ味わわされた優れモノ。コイツの「キモ」は締め上げたバックルが絶対に緩まないという1点にあって、今でもフツーに劣化するコトなく使えるというのは、すごいぞ「イスカ」。
ところが、Lサイズの目方は175gもある。軽さを求める現在の山系バックパッキングにはスタッフザック抜きでコレは重すぎるから、その代わりの「グラナイト・ギア」となる。20余年という技術革新の真髄を見た、そんなムードです。

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おっと。じつは「イスカ」社の正統的後継モデルも、ほぼ同時に買っていた。Sサイズのスタッフザック一体型で、115g。かつての同社製品とは比べるべくもないが、グラナイト・ギアの倍の重さです。まあ、こちらには「VL12」テントの本体とフライシートを収納し、けっこうラフな扱いをするハズだから安価なコイツで十分。
というのも、デフォルトのテント収納袋がジャストサイズで、雨の朝の撤収時などで「入れにくいとストレスになっちゃうわな」。テントとフライをサクサク押しこんで、後からギューッと圧縮したほうが手早いハズ。90gほど重くなってしまうデメリットには目をつぶろうと。その後、この考えはマッタク正しかった…。毎朝続く雨中の撤収で半ベソかきながら、そう実感できたワタシですが何か(w

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どれくらい圧縮するのかをごらんいただこう。ちなみにこの画像を撮ったのは昨年7月の半ば。実際に山旅に持っていった中身を入れてある。2㍑のペットボトルは、大きさ比較のため。「イスカ」は底部が丸いドラム缶型だが、「グラナイト・ギア」は楕円形。

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コレくらいまで膝も使って小さくします。「グラナイト・ギア」のほうは、まだ余裕あり。ワタシのザック「アルパインパック60」のいちばん底に、横たえてピッタリ・サイズになればイイからだ。シュラフと防寒着というガサばるアイテムが底に納められれば、他の装備の収納に余裕がでるから、コレはグッジョブな買いものとなった。ザック内でしっくり馴染む楕円形ってのも理にかなっている。
チャチな造りかと気になるプラスチック製バックルは、あにはからんやガッチリと食いついて緩まない。さらに「event」素材はジャバジャバの雨に降りこまれてズブズブになったザックの底にあっても一滴たりとも浸水せず、もう、ワタシは全幅の信頼を置くことができました。高価いだけの理由があるワケね。ちょっとしたハズミで穴が開いちゃいそうなペラペラ素材だけが心配だが。

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かたや「イスカ」。こちらは少なからず扱いにくいのが残念だ。というのも、まず素材。コーデュラナイロン部分が水を吸うから、濡れてさらに重くなっちまう。それと黒いナイロン・テープがクセもので、丸いフタ部分とこんがらがって、黒いから見にくいという。双六小屋での暴風下の撤収時なんか、呪いの叫びをカマシたワタシだった(汁 というのも、最後にザックに積みこむ装備が、このテントになるからだ。ま、この点でも「グラナイト・ギア」のほうが荷造りしやすいデザインだと考える。

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最後にご紹介するコレは、「グラナイト・ギア」のスタッフザック「エアスペース XXS」。冒頭の画像で丸いプラケースに入ってるモノで、容量はシリーズ最小の2.8㍑。「さかいや」にて、1,890円だったかな。
コイツにはバックパッキングに持っていく小物類のすべて(ジップロックに入れたサイフまで)をブチこみ、ザックのトップ・ポケットに入れていた。今まではマチの浅い袋タイプのモンベル製スタッフザックを使ってきたのだが、このレンガ型のカッチリとしたスタイル、それと中を見やすい天にあるジッパー位置がじつに秀逸だと使ってみて惚れた。防水性能も優秀で、ラード的に大好物なオレンジ色ってのが、薄暗いテント内でも見つけやすい色だと非の打ちどころがないスグレもの。
コイツも安くはないワケだが、いやその。今まで馴染みの薄いアメリカンな存在だった「グラナイト・ギア」というメーカー、じつにかゆいトコロをキッチリかいてくれるではないか。グッジョブ。好感度がグッと「うp」したワタシなのだった。

バックパッキング・道具考CM:10
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