ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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ラード

Author:ラード
千葉県在住
バイクはXR250「Baja」
クルマはE46「325i Touring」
メインアームは「SIG552 SEALS」


林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
バックパッキングの世界を愛する。
風流なオッサンとなるべく
奥義を研究する日々(w

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ラーメン「和とら」NOW

2010/03/21(日) 23:59:27

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家族が不在だった土曜の晩メシは、「和とら」にラーメンを喰いにいく。
なんのかんので、4回目だ。多くもないが、クルマだとコイン・パーキングになるのがなあ。バイクが壊れたままってのが、こんなときイタイ。最初に喰わせてもらったラーメンが、店主オリジナル・メニューの「うるとら」でしたね。

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2回目は「うるとら」のつけめん。年末に訪ねたんだっけ。「オススメは?」と店主に聞いたら、まもなくメニュー入りさせるというコレを出してくれた。

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正月明け、とんとラーメンには馴染みのないムスメとヨメを引き連れて訪問した。
「いやもう、美味いからネ」と。ヨメとムスメは「うるとら」のつけめんをふたりで分ける。追加でギョーザも注文。ワタシは、これまたもうじき正規メニューとなるらしい「うるとらの味噌」を勧められる。深みのあるスープが美味い。ラード的には「和とら」で喰った中で、もっとも好みの一杯となりました。

食後に雷神氏と少しおハナシ。ヨメはダイタンにも、こんなに美味しいラーメン、どうやって作ったのかなどと聞く(汁 コトバに詰まる店主。すまぬ。しかしながら外食のラーメンって、彼女は14号沿いの「ふくちゃん」のとんこつラーメンくらいしか思い及ばないのだ。店主が返した必殺のひとことがこれ、「12時間、煮込んでますから」。
店を出てからふたりに感想を聞くと、「ラーメンがこんな美味しいモノだったなんて」などという、なんか未開人的なコメントを頂戴しました(w

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さて、昨夜のことだ。「きょうは何がいいかな?」と問うと、「むふむふ」とイミありげに店員と微笑みつつ店主が勧めてきたラーメンがコレ、「トリプルチーズつけめん」。800円です。それにしても毎回、新たなメニューが繰り出されるその研究開発力って、なんかスゴい。
野菜の下には平たい麺で、ボリュームはそれほど多くはない。鳥肉の中には、とろーりチーズが仕込まれている。スープがまた濃厚な味噌味(なのかな?)の中にチーズの風味とかニンニクとか、わが貧相なベロでは良くわからんが、まあその。しみじみ美味い。洋であり和でもあり。濃いめの結構スパイシーな風味だとは思いますが、ワタシはOK。

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さて、麺は喰いきった。その後にいただいたスープ割りで、この一品にも工夫が凝らされています。スープが、まるでチーズフォンデュみたいなテイストで、バジルにクルトンがパラパラと。フランスパン(バゲットだったっけ?)もマッチしている。やあ、これは楽しい。
自分のオリジナルなメニューをビシバシ開発して客に供するのなんて、それが好きなヒトにはたまらんだろうな(w かつて房総を一緒に旅していた時代には、しかしながらこんな繊細な料理は喰ってなかったワケですが、これはその後の厳しい修行の結実、なんでしょうね。 
そんな店主の新たなパイオニア・ワーク的業務ビジョンも聞いてしまったし、今年はさらに美味いラーメンが喰えそうです。

【追記:2010年5月9日】
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GWのある晴れた日、昼メシを喰いにヨメと再訪。
ワタシは「うるとら」の味噌味を喰いたくてたまらんかったのだ。イキヲイで大盛850円也を頼んだら、ごらんのようなメガ・ドンブリに入れられてドドーンと登場。うむ。ヨメの「うるとら・つけめん」フツーが、よしんば遠近法に見えているにせよ、何やら取り皿に見えちゃうのは気のせいでは決してない(w
煮タマゴ2ケはサービスと思われ、どうにもサンクスです。そうして、このスープがまた、コクがあって美味いんだなあ。ラーメンの食べ歩きはしないワシはイマイチ事情に暗いのだが、今回の麺は「ろくりんしゃ」というトコロのものとのこと。コレかしらん。またまた手を加えているワケね。
あとから雷神氏が「麺とスープで1kgあります」などとニッコリ笑いつつ言う。1キログラム(w いやしかしタイヘンだったのだよ、喰いきれるかどうかアセってサ。ヨメの頼んだ「つけめん」も、これまた前回と異なる工夫が凝らされている。海苔にはカツブシ系の薬味(魚粉というのだそう)が乗っているし、シメの「スープ割り」では、粉チーズを入れるとまろやかな味わいが増して美味いし、いつも何かしらの創意工夫が施されているのは楽しいものだ。
ごっつおさんでした。

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きょうの出来事CM:5

ラード的山がたり ロック・デイズ(その6)

2010/03/14(日) 23:10:02

【谷川岳の14日間とその後】
「第3次夏合宿」は、谷川岳の一ノ倉沢幽ノ沢での岩登りだった。8月18日に入山して、下山は31日。まったくこの夏は「山漬け」でしたネ。ところが、先に言っておくと、この合宿は穂高のときと一転、雨にたたられ続けてほとんど登れなかった。なんたって行動できたのがわずか5日間で、攀れたルートは4本のみ。いやまあ、谷川岳で雨に降られるのは珍しくもないワケですが、それにしてもヒドすぎ。そんなフラストレーションが溜まった日々の記録だ。

8月18日、入山。土合駅から湯檜曾川沿いの新道経由で、いつものBCへ。

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8月20日、さっそく雨で小屋内に停滞させられた翌日、一ノ倉の「烏帽子沢奥壁・変形チムニー・ルート」へ。エボシ奥壁エリアとは、この画像で衝立岩正面壁の左側のスカイライン「中央稜」と左端の「南稜」に挟まれた壁で、フリーが主体の長い好ルートが目白押し。中でも「変形チムニー」は一ノ倉の中級ルートの定番だった。

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参加メンバーは穂高の合宿と基本的に同じ。ザイル・オーダーも同じでトップがワタシ、セカンドが「S」、ラストが「O」だ。天気は曇り。取り付きから快調に数ピッチの登行を続け、変形チムニーに迫る。そしてワタシは前日の雨で濡れたこのチムニーで、5㍍くらいの墜落をやらかしてしまった。

今でも忘れられないのが、チムニー内の濡れたフットホールド(上のレポの「チムニー」画像で、右側の岩)で右足がツルッと滑り、両手指が支えられずにホールドからブチッと外れたシーン。声も出なかった。落下時の記憶はない。べつに失神したワケでもない。目をつぶっていた0,5秒ってなムードか。カラダが空中にブラ下がっている状態で気づいた。ラッキー。どこかにぶつかったら無傷では済まないからね。最後にビナをクリップしたハーケンは抜けずに、ソコから2,5㍍くらい攀ったあたりで落ちたコトになる。
下にいる、姿は見えないビレイヤーの「S」に向かって「だいじょーぶ!」と叫んだ。「ケガは、なーい?」と聞かれたからチェックすると、打ち身などは無さそうだが、何てこった。片足(右だったかな)の登攀用ジョギングシューズが無くなっている。「おーい。クツ、飛んでったかぁ?」「なんか落ちてったー」。おおっと(w 「ちょっと一服させて!」と言い、ぶるぶる震える手でセブンスターを吸ったっけ。

この滑落の原因は明快だ。濡れた岩で足を滑らしたという基本的なケアレス・ミス。ザイルのトップは絶対にソレをしてはならない。もちろん気をつけていたのに、こうなった。自信がガラガラと崩れた体験だったが、調子づいたワタシに自戒を促す守護霊さまの思し召し、だったのかも知れん(w
それから確保点までロワーダウンしたのだったか、ザックに入れていたアプローチ用のジョギシューに履き替えたワタシ。「いや、止めてくれてホントにありがとう」と「S」に伝えたら、「ちゃんとしたハーネスに替えといてヨカッタねえ」などと笑われた。まあその。確かに。

ひき続きワタシがトップで再アタック。チムニーを抜け、もろいルンゼを飛ばし、旧ピナクルで少し迷ったが着実に登行を続けた。烏帽子岩を左から巻き、いやらしいルンゼを左上して終了。強風が渦巻きクマザサが鳴る。今にも降りだしそうなガスの中、6ルンゼを懸垂下降した。(開始)8:10(終了)13:10

8月21、22、23日と連続して停滞。台風が通過していったのだ。テントだったらヒドい目に遭うワケですがね、BCは小屋だから心配などない。若手のOB3名が訪ねてくれ、コンパに沸いた。

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8月24日、久しぶりの晴天。本日はコップ状岩壁へ。「コップ」は衝立岩の右上に位置する。リンク先の美しいスチール写真集のうち、コレとかコレが造形を理解しやすいでしょう。予定が大幅に狂ったワシらはアセリ気味に、衝立前沢から略奪点経由で衝立沢を詰め、コップの広場へ。直前まで「正面壁・雲表ルート」を攀って国境稜線へ抜けようと考えていたのだが、台風の置き土産、上部カールからの流水が滝のように壁を濡らしているのにアゼンとさせられた(リンク先ブログのスライド・ショウで、19枚目以降ですね)。そこで、確保支点の少ない上部のカールを登攀するのはヤバそうに思えたので、正面の2本のハング部分だけを攀るコトにした。

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まずは「雲表ルート」だ。コレはわが国で初めて、ハーケンが入らぬこのハング帯の突破に手製の埋め込みボルトを支点に打ち、短時日で登攀された独創的なラインなんです。ちなみに数㍍左側にあるのが、2本目に攀ろうとしている「緑ルート」。コチラは当時全盛を誇った「緑山岳会」が総力をあげて、長い時間をかけてジワジワと高度を稼いでいたライン。ハング上の垂壁の突破に苦しんでいるところを雲表・松本パーティに並ばれ、昭和33年6月の同じ日、熾烈な初登攀争いの最終フェーズを迎えた。さて、勝者は・・・。ソレを知りたければ中公文庫版の「初登攀行」を、だから読みなさい(w

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8:40、カラ身で取り付く。ところがビショビショの岩は困難で、1P目を終えた外傾テラスで、フェルト地下足袋(当時、出始めだったネオプレーン地の股割れ渓流タビ)に履き替える。おお、グリップ良好。小ハングを超えて、アブミ・トラバースから大凹角へと入っていくあたりが核心部で醍醐味でもある。この写真はそのあたりを攀るワタシ。カメラを真上に向けて撮っています。

先ほどの雲表ルート・スライドショウの24番目の画像が、松本龍雄氏が打ちこんだ現在も残る埋め込みボルトの第1号だ。コイツはワタシも「コレが、そうか」と気づいた。1958年とワタシの体験時の1981年、そしてこのパーティが攀った2007年と、各々およそ四半世紀の時をまたぎつつ、同じモノを見つめたフシギさよ。
この第1号ボルトについて、写真ガイドブック「谷川岳の岩場」のルート解説より、ちょいと引用。「垂壁を登り始め、小ハングを越えるころから壁は少しずつかぶりだし、大オーバーハングの下辺りから右へとアブミ・トラバースに移り、頭上に直上していく凹角に入っていく。(略)この凹角に、問題の試作された肉厚の手製ボルトがある。現代の感覚からいえば、これほどその使用に神経を遣い、ぎりぎりの限界で打ってある点など実に倫理的なもので、ちょっと自分の技量が不足していると、すぐべた打ちにボルトが並んでしまう傾向に比べれば雲泥の差がある。おそらく初期におけるボルトの賛否論争は、今日のこの現象を予知しての反発があったに違いない」。

そして前々の記事でも述べたように、この日本山岳史に名を刻むルートが日本で初めて「フリー化」されたのが、ワタシが攀った1年ちょっと前のこと。まあその。壁のコンディションが悪すぎとはいえ、当時のワタシの実力ではセカンドでもフリーでは無理、これが正直な感想でしたね。

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さて、続きを急ごう。この凹角を抜け、左へ下り気味にトラバースして「カール下テラス」に到着。案の定、上部はひどい状態だった。「S」と「O」が攀り終えたら、爽快な空中懸垂でハング下の広場に舞い戻り、次の「緑ルート」に取りかかる。

ところでオーバーハングの登攀ってのは、こういう作業をしています。5:35からに要注目。このシーンでは、吊り上げされたトップが埋め込みボルトの支点を打ち足すべく、ジャンピング(穿孔)をしている。以前にも述べたように、実戦でワタシがハーケンとかボルトを打つ機会なんて無かった。残置された支点で効いてそうなヤツを使うのでコト足りたからですが、このカチャカチャいう音はしみじみ懐かしい。

さておき、すでにワタシの上腕はくたびれていて、4㍍ほどの張りだしのハングもスピーディに攀らせてくれなかった。それに続く濡れた垂直のフェースでも、泣きたいほどの苦闘を強いられた。ここで落ちたらランニングは持ってくれるか、ピンが飛んだらテラスに叩きつけられるのかッ、なんつーリアルな恐怖とよく闘いながら、何とか攀りきって再びのカール下テラスへたどり着く。シンドかった。
セカンドの「O」がたやすくハングを抜けてくるのを、ワタシはいらだったキモチでザイルをたぐる。時間切れでサードの「S」を攀らせるコトもできぬまま、コップスラブを下って略奪点に向かった。帰りが遅れたワシらを心配した他のメンバーたちが、暗闇せまる一ノ倉出合まで迎えに来てくれた。
雲表ルート(開始)8:40(終了)12:10、緑ルート(開始)14:00(終了)16:00

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8月25日、曇り。続けて行動できるのは、ありがたい。本日はBCに入っている全員(OBとか他部員とか)で幽ノ沢の集中登攀を行う。ワタシは「中央壁・左フェースルート」を「O」と2名で。これは中央壁の初登ラインで、フリーが主体の難しいルートとして知られている。この合宿で目標にしていた3本のルートのひとつ(あとは「3スラ」と「エボシ奥壁ダイレクト」)です。
しかし残念なコトに、このルートも画像付きの登攀レポートがほとんどない。上記リンクの記事によるとココも今ではルートが崩落しており、正面フェースに苦労してエスケープしている。

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「T1」まではノーザイル。快適に登高を続け、核心部の「Zピッチ」も難なく突破。フリーの楽しさを満喫しながらザイルはキモチよく延びていく。渇いた岩の感触を確かめつつ、すんなりと終了した。長めのルートを軽くこなせたコトで、ワタシは満足。「やっぱ人工より、こっちがスキw」。中芝新道の途中で他パーティと合流し、カタズミのβルンゼを下降した。(開始)8:10(終了)11:50

ふたたび荒天が続くハメになる。8月26日は雨。27日は曇りのち雨で、略奪点経由でエボシ奥壁「凹状岩壁」へ向かうも、雨が降りだしたから衝立沢を下降してBCにトボトボ戻る。翌28日も、やっぱり雨。なんてこった。
そういえば、くだらぬコトを思いだした。BCに備えつけられていたノートにワタシが書きつけた「ポエム」のこと(w 変形チムニーで落ちたときに失くしたジョギシューを弔ったもので、こんなムードでした。

母さん、ぼくのあの運動靴、どうしたんでせうね?
ええ。夏、一ノ倉の変形チムニーで谷底へ落としたあの運動靴ですよ。
母さん、あれは好きな靴でしたよ。
僕はあのとき、ずんぶんくやしかつた。
だけど、いきなり滑落したものだから・・・

たはは。もちろん森村誠一の「人間の証明」に登場する西条八十のパロディーなんですがネ(w まあその。「沈澱」続きでヒマだったワケだ。久しぶりに思いだした。この詩の最後あたりの透明な寂しさ、これが好きだった。

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8月29日は、晴れのち雨。一ノ倉「烏帽子沢奥壁・凹状岩壁ルートへ再アタック。このルートの開拓ってのがまた、物語がテンコ盛りなんです。昭和33年3月、ワタシのヒーロー・雲表の松本氏が「烏帽子奥壁」の初登攀を狙って、しかし絶え間ない氷塊の落下で取付くしまの無い既存ルートを避け、無雪期ですら攀られていなかった未踏ラインを切り拓いたという革新的なルートなのだ。それはマーキングしなくてはイカン。そんなワタシの、この傾倒ぶりに瞠目せよ(w

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このルートもまた、5年ほど前の上越地震によって核心部のアリサマが変わっちまったらしい。夏場は自然発生のラクがバシバシの危険なルートみたいだが、ワタシのメモによると30年前でも同様だった。
凹状の下部では、中央カンテからの落石の雨をかわしつつ走り抜け、核心部に入っていく。雪崩による浸食作用を受けた傾斜の強いフェースの登攀を楽しみ、景観の素晴らしさに目をみはりつつ右上してしてテラスに着く。ブッシュの中をしばらく登ってウンザリしたころに最後のクラックが現れ、やはり素晴らしいルートだと感銘を受けた。北稜を懸垂下降する。(開始)8:40(終了)12:10

翌30日は晴れていたが、皆で「ユビソ本谷」へ出かけ、十字峡あたりで水泳し、トカゲ(「山ヤ」コトバで甲羅干しのコト)に興じた(と記憶していたのだが、この動画を見ると、さすがにこんな遠くまで出かけないかも。魚留めの滝あたりだったのかな。この湯檜曾川本谷は2年次だったかに遡行したが、じつに楽しい沢登りができますよ)。そして8月も最後の31日に下山。尻切れトンボのように夏合宿が終わった。

ワタシの計画では、穂高の岩場でトレーニングを積んで一ノ倉でソレを開花させる、そんなムードだったのだが、ずいぶん予定が狂ってしまった。縦走合宿では雨の日でも歩き続けるから、雨の中を登攀する意味なんて無く危険なだけとはいえ、こうまで停滞日だらけの報告ってのは、責任者としては関係各位に対して少なからずココロ苦しかった。
まあしかし、長期の合宿日程を事故もなく無事に終了できてホントに良かった。そして滝谷とか奥又白なんて遠い場所では、社会人には1週間の「夏休み」でも正味4日間くらいのクライミング日しか作れぬワケだから、どっぷりと岩登りを享受できたこの夏の日々は貴重な思い出。かたや谷川岳での不本意な日々は、ともかく大学生でいる間に必ず目標をやっつける、そう固く思い定めたワタシだった。

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10月上旬、「O」と再びザイルを組んで、あの小川登喜男が1932年に拓いた一ノ倉沢最初期の名クラシック、「3ルンゼ」をやろうと出かけた。きっとガスっていたはずだ。ナゼならワタシは左隣りにある「2ルンゼ」に取り付いてしまったからだ。いやしかし「ルートわかんない病」どころではナイ、という(汁 序盤で気づいたら、さすがに下降して取り付き直したハズだから、きっと「ザッテル」の城門に出ちまって「なんじゃ、こりゃ?」、ようやく事態を合点したと思うワケ。 
この画像は「滝沢スラブ」に食いこむ右側の2ルンゼと、上の「ザッテル」および滝沢上部の様子が分かりやすい。2ルンゼだって十分にヒストリカルなんですがね、「O」からは「いちばん登りたくないルートを登ってしまった」という的確なコメントを頂戴した。「まあその。温故知新、なんである」とか何とかイイワケしつつ、Aルンゼあたりを継続して国境稜線へ出たんではなかったか。

それから間もなく、ワタシは左ヒザ外側の「じん帯」を痛めて、身動きが取れなくなってしまった。矯正サポーターなど無かった時代、ヒザ部を石膏どりして両サイドに鉄板を入れた専用サポーターなんてのを、1まんえんくらいで作らされたっけ。まあ、さすがに長らく酷使しすぎたのかも知れないな。インソールなど入れてない重登山靴でドカドカ歩いたり、ペラペラの運動靴で駆け下ったり。左ヒザのじん帯はその後「地雷」として、今もタマに痛くなるワタシのウィーク・ポイントになったワケ。「本チャン」攻略の意欲に満ちたシーズンが、こうして終わっていった。

そして冬になり、春が廻ってきた。ワタシは4年生になっていた。トレーニングは熱心にやらなくなっていたが、技術的にはソコソコ円熟していたらしい。

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5月下旬、半年ぶりに「一ノ倉」に戻ってきた。2年部員の「O2」(いつものパートナーとは別人、「O2」と略そう)と初めてザイルを組んで「衝立岩・中央稜」を攀る。ココは南稜と同じく一ノ倉の入門的ルートで、ワタシがすべてリードしたと思う。そんなに面白い内容ではなかったな。
ググってみると、フシギなことに現在では大人気ルートになってますね。落石などの外的な危険が少ないリッジ登攀だからなのかネ。
ココで示唆に富む記事を発見。近年の「外岩w」的環境下で、アルパインのルートがどんな状況になっているのか、プロフェッショナルが考察したものだ。むーん。確かに、そんなのは寂しい。では、もともと残置支点が少なかった「幽ノ沢中央壁」なんか攀るヒトがいないんじゃなかろうか、ほとんど。それはしかし、新鮮で楽しそうに思えるんだがなあ。

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【革新と焦燥の日々】
マスメディアから発信される世界の情勢は、日々、革新の度合いを高めていた。といっても「岩と雪」誌におけるハナシですが(w そして世界ってのはフリー・クライミングに関するネタだけどサ。そのころのワタシ、とっとと就職活動の準備に入らねばならんのに、まだ何も始めていないクセして意味なくアセる不毛な毎日だったのです。

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さて、その年はじめに出た「岩と雪」誌の記事で、ワシら一同は心底ビックリした。鈴木英貴氏の「アメリカ・岩登り武者修行の旅」という、連載1回目のレポートを見たからです。ヨセミテにある「ワシントンコラム東壁」をオールフリーで攀る「アストロマン」というロング・ルートの凄まじい報告にのけぞったものだ。

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でも、悲しいかな「5.11」連発の「トポ」を眺めても、いったいソレがどれだけ難しいのか理解できないからネ、「スゲー」とボヤくのみだったり(w 

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加えて、その年の春には国内の革新的な最新状況を見せつけられた。小川山とミズガキ山で展開する「ハードフリー」の世界の紹介だ。

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山ヤなんだから、他人が攀れない場所を「かるーく」やっつけちゃう、そんな行為に優越感を抱くコトは、よおっく理解できる。ルートを拓いて自分で名前を付ける、そんな所有欲も良く分かる。クライミングで自己表現をする、これまたキッチリ同意できる。でも、群雄割拠の戦国時代のごときその当時のフリーとは、すなわちクラック登攀を指したから、ヘタすりゃ指がチギレちゃいそうな、見るからに痛いクラック・クライミングに対してワタシのキモチが傾くことはなかった。ナニを好きこのんで、と。

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小川山のような「おニューの岩場」でのアメリカンなブームとは対照的なクライミング、既存の人工ルートをフリーでストイックにトレースし直す、その掉尾(とうび)を飾った偉業がコレだ、「衝立岩・雲稜第1ルート」のフリー化。

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数次に及んだこのチャレンジはこの年の中ごろのことで、秋に発刊された「岩と雪92号」の巻頭にカラー10頁という破格の扱いで特集されている。それだけ影響力と意義のある「ルネッサンス」だったと、ワタシですら心得る。「歴史を変えた1本」の誕生が、ワタシの現役「山ヤ」時代の最後あたりに成されたという事実は、改めて振り返ると面白いものです。

【ミッション・コンプリート】
そんな風雲急を告げるこの年の6月上旬、ワタシのロック・デイズのピークを成した数日がやってきた。そのとき入梅していたのか、平日か週末か、誰かのクルマで入山したのだったかも今では覚えていない。でも、登攀時の様子はソコソコ記憶に残っているんです。それだけ真剣だったのでしょう。

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6月10日、いつものBCで仮眠後、一ノ倉・烏帽子沢奥壁の「南稜フランケ」へ。2年部員の「O」と「F」(前年の11月末、富士山でビバークを共にしたヤツだ)を引き連れて攀った。
天気は曇りだったろうか。昨夏の目標だった「エボシ奥壁ダイレクト」(初登者の中に、あの今井通子がいますね)からコチラに変更した理由はもう、覚えていない。おそらく翌日の長丁場を想定して、わずか6ピッチ(実際は、ルート図に書き込んだように5ピッチで終了)ながら「5級下」という高いルート・グレードを付された南稜フランケにしたのだろう。Ⅴ+のフリーが連発するから、やりがいがある。
画像付きの記事はイマイチ見当たらないが、リンク記事の文章のみでもヒリヒリする難しいフリーのムードが伝わってくるだろう。

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かつて「国内でもっとも困難なフリー」と呼ばれたという3ピッチ目は、ジョギングシューズのワタシがリードしたのだが、レポにあるような「ランナウト」(昔はこんなコトバは無かったなあ。ランニングが遠すぎ、とか言っていたような)の恐怖感ってのは、それほど感じなかった。まあ、昔の本チャンなんか、そんなモンだったワケで。続いて上がってきた「O」が言ったセリフ「こりゃスゴイ。難しい。でも手を伸ばせば、何かしらホールドがある」ってのが、Ⅴ+というグレードを上手く表している。ま、セカンドはイイわな、気楽でサ(w

【追記:2012年5月】
南稜フランケのより詳細な登攀記録を発見したので追記。これは2002年時のものですが、攀っているときの写真がイイ。

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6月11日、曇り。ついに「滝沢第3スラブ」に取りくむ。
このときの記録メモは手元に無いけれど、その模様は何となく覚えている。BCの小屋を出たのは夜明け前、もっとも日の長い季節ですが、一ノ倉の出合あたりで明るくなったのだったか。パーティは昨日と同じ3名。この写真は前年の8月、「コップ」に向かう略奪点で撮影した滝沢スラブ、その迫力ある全景だ。じつはワタシは最初、イマイチ自信が持てなかった。というのも、晴れてはいなかったから。

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やはりこのルートが発散する圧迫感は、けっこう凄いものがある。ましてや登攀中に雨に降られたら地獄だからねえ。「南稜テラス」あたりでも、まだジクジク悩むワシに向かって「O」にハッパをかけられたもんだ。「そんなんだったら、一生攀れないッスよ?」と笑われつつ。「わかったわかった。やる!」、そうなった。いったん覚悟をキメたら、気分はラクになりました。

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通称「3スラ」とは、3ルートの継続登攀になる。「滝沢下部ダイレクト・ルート」「滝沢第3スラブ」「滝沢リッジ・ドーム壁」で、3本合わせると高低差は800㍍。スラブはフリーが主体とはいえ、前後の部分で「A1」の人工が連発する。たいして難しいピッチは無いが、ともかく長いルートだからスピードが第一。このときビバークの用意なんか、しなかったハズ。1日でやっつける予定。
おっと、その歴史にも触れておきましょう。「3スラ」の初登は、もちろん松本龍雄氏のパーティで、1958年10月。当時はボルト連打のダイレクト・ルートは存在せず、やっかいな「滝沢下部トラバース・ルート」経由だ。またドーム壁も登攀対象ではなく、松本氏らは冷雨に曝された立ちんぼビバークの後、小雪のちらつくBルンゼを登って終了している。
ところで「3スラ」を含めた滝沢スラブ一帯は、観光客が集う一ノ倉の出合からは、その姿がイマイチ見えない。見えるのは滝沢下部岩壁くらいなのだが、まあ、そんなところも「知るヒトぞ知る」ってなイメージというか、奥床しくて好きなのネ(w

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先行、後続パーティ共に無し。静かなもんだった。まずは「滝沢下部ダイレクト」に取り付く。この登攀では3名の「つるべ式」で攀ったんだっけか、イマイチ思い出せないが。サードでトップの登攀を見つめるという情景が記憶に多くあるからね。ココは垂直だがカブってはいないから、アブミの掛けかえも快調だ。

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いよいよ第3スラブへ。このルートで気をつけるべきは、ルート・ファインディング。ちょっと見誤ると身動き取れなくなるから、とはよく聞いたハナシだった。まあその。昔はクチコミ以外では、ルート図とこのガイドブック「谷川岳の岩場」しか資料が無かったからね。決行するときの「敷居」は高かったんだよ、ウン(w

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スラブ帯の半ば「F4」あたりでパラパラと小雨が降ってきた。ココは3スラの画像でドス黒く見える難しい場所だ。そのときは「F」がトップをしていたが、こんな場所で本降りになったら実際どうなる、などと心配したなあ。それからは持ちこたえてくれてラッキーだったが。
上部スラブ帯を攀り、じつはホントの核心部と言えなくもない200㍍に及ぶブヨブヨの「草付」をザイルを解いて登る。こんな確保支点ゼロでスリップされたら、3人ともお陀仏になるからですネ。このとき5㍍ほど先を行くトップの「F」がコブシ大のラクを出して、ワシのメットに炸裂。「おんどりゃあ、気ィつけろ!」。命が死ぬではないか(w

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ドーム壁の基部に着いたのは、はたして何時ころだったか。とっくに午後だったハズ。やはり上半身に疲れは溜まっている。出だしのⅣ・A1のピッチでアブミを引きつける動作がシンドかったからだ。長い継続登攀の最後をピリリとシメる、楽しいドーム壁のその先の記憶は残っていない。「ドームの頭」で登攀終了の握手をかわしただろうが、それも覚えていないのは、ちょいと悲しい(w 
国境稜線に出て、西黒尾根からガンゴー新道を下ってメンバーが集うBCに帰り着いたのは、とっくに日暮れてエレキを灯しながらだったハズだ。「やった…」。こんなレベルの岩登りなんですけどネ、自分にとっては長いこと目標にしていたコトを成し遂げたワケで、その安堵感は大らかにワタシを包みこんだ。これで「卒業」できる、しみじみとそう思った。

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「3スラ」をやった翌週、ナゼか知らんが再び谷川のBCに入った。新人部員の初めての本チャン体験、「南稜」の岩登り実地指導だったのかも知れない。
6月中旬過ぎなのだが、まだ梅雨空ではなく、曇り。そしてワタシは2年の「O2」と再びザイルを結び、一ノ倉の「烏帽子沢奥壁・中央カンテ・ルート」を攀っている。
コレはちょうど良い難しさのロング・ルートで、ワシらは「つるべ」で、二人ともオールフリーで快調に攀りきった。ルート図に書きこんでいるように中盤の様子が崩壊によってサマ変わりし、「Ⅴ」くらいになっていたようだが、それくらい楽勝。このときは部で一ノ倉に4パーティくらい取り付いていたんだっけか。楽しい思い出だ。これが、ワタシにとって現役時代の最後の1本になったからね。

【それから】
時が流れ、この2年後のこと。やめときゃイイのにワタシは「一の倉沢」へ再び戻って来た。社会人になった翌年の6月、だったか。
会社の山岳サークルに入部して、丹沢や奥秩父の沢登りとかキャンプといった軽い「レクリエーション」は続けていた。そしてその年のゴールデンウィークには、「S」(山岳部同期だが、ナゼか岩では一緒にならなかった)と初めてザイルを組んで残雪の「前穂・北尾根」を登攀し、ふたたびイロケを出し始めてもいたのです。

そのときは3年ぶり2回目となる「エボシ奥壁・変形チムニー」ルートを、ワタシが鍛えた「O」(彼も4年生になっていた)に連れて行ってもらったんです(w ええ。もちろんワシがオール・セカンドで。たまに「ひええっ」とか「しょっぺーなー」とか「もっとザイル、張ってくれ!」とか叫びながら(汁 すっかり憑きモノが落ちていたワタシにとって、それはもう、チビリそうな体験ではあった。

そうして、部員の誰かのクルマで送り帰してもらったその翌朝、ワタシはベッドから起き上がれなくなっていた。比喩ではない。実際にそういう事態で、それまで経験したコトのない電撃的な痛みがカラダを走る。アブラ汗をたらしながら、ようやく腰が痛いのだと理解した。フシギなのは、眠っていたときにはその痛みで目が覚めなかったコト。寝返りを打つような「ひねり」が少しでも入れば容赦なく電撃されたハズなのに、いったい何だ。身じろぎしないくらい熟睡していたというワケなのかネ。
それにしても、上向きに寝た姿勢から「よいしょ」と起き上がる所作ってのが、じつはタイヘンな重労働なんだと思い知らされた(w 片腕をソロリソロリと引きつけ、手首を返しながら体重移動して横向きになる。電気が走らぬよう、えらく慎重に動いてベッドの端に腰かけられたのは5分後くらいだったろうか。壁に手をつきつつ、それでも何度か激痛に悶絶しながらジリジリと階下に降りて母に泣きながら事態を告げるまでに、さらに5分はかかったような(汁

整形外科にかかって「椎間板ヘルニヤ」なんつー恐ろしげな病名を告げられたとき、ワタシはいろいろなコトを諦めた。まあ、登山が直截の原因なのだから、もうムリはできないなあ、ワシのボデーって頑丈では無かったんだなとか、今後はゴルフだけはやらないだろう、とかネ。
この翌月、夏休みを沖縄に遊んだ。残雪の前穂北尾根をやった「S」とふたりで、オープンしたばかりの「万座ビーチリゾート」なんつーナウいホテルでねーちゃんをナンパしつつ、なんと言いましょうか、妙にストイックだった学生時代とは違う軽やかで楽しい世界にアシを踏み入れていったワケです。

ワタシの若きロック・デイズは、こうして終わったのだ。


◆過去の山登りの個人的体験談を述べるものは、これで終わりです。
たいした体験ではないクセして、当時の世相を加味したり、思いきりカッコつけました。わはは。
この程度の登山歴なんざハナで笑っちゃう「山ヤ」なんかゴロゴロいらっしゃるとは思うんですが、しかし。
ネットで見られる登山記録を広く読んできましたが、こういう「くくりかた」での記事は無かった。
まあ、ちょっとは珍しいスタイルの昔バナシと言えるのではと考えます。
長いあいだ、ご愛読サンクスでした。

◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:10

ラード的山がたり ロック・デイズ(その5)

2010/03/07(日) 23:25:04

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【穂高の18日】
「第2次夏合宿」は、穂高岳の3大岩場「滝谷」「奥又白」「屏風岩」の面白そうなルートを根こそぎ攀ってやろうという企画で、7月23日の夜行列車でデッパツ、帰宅が8月10日というロングな日程。メンバーは新人の「O」と、年上だけど部歴は2年生扱いの「S」氏という、わずか3名。ただし途中のみ参加のOBと顧問の先生が、単調な日々に彩り(差し入れがコレまた美味いんだよね)を加えてくれました。
この本は、登攀ルートの全容などの画像を引用させてもらった、豊富な写真解説によるルート・ガイドブック「穂高岳の岩場」(武藤昭著・山と渓谷社刊・1979年3月初版・絶版)だ。合宿前にはコレを穴の開くほど読みこんで、ココロ踊らせたもんでした。終わったら終わったで、苦労しながら攀ったルートを思い返してジコマンにふけったり(w

すでに山も夏模様。日程の長さは食糧の重さに直結し、初日、涸沢までは40kgのザックに苦しめられたもんだ。
ああ。もうザックがパンパンです!ってゆってるのに、新宿駅に見送りに来てくれた方々がニコニコしながら「気をつけてな。じゃ、コレ持ってけw」と、スイカやらマンゴーやらを持たしてくれて(汁

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7月25日、まずはアイサツがわりに前穂の北尾根へ。涸沢を取り囲むゴジラの背中チックな岩稜ですナ。「穂高」は日本アルピニズムの発祥の地で、このルートも黎明期におけるブリリアントな歴史を放つ。初登攀争いの末に慶大がトレースしたのは、なんと大正13年の夏とのことだ。

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ワシらのタイムを記そう。(4:35)発(7:05)5・6のコル(10:50)前穂(12:50)奥穂(14:20)サイト着。このときも「ゴーロク」の残雪が異常に多く、また硬くて「5・6のコル」まではキックステップさえ利かない苦しい登行。近ごろはちょっととした雪渓でも軽アイゼンを付けるという風潮ですが、当時はこんな場面はピッケル1本。アイゼンを持っていこうモンなら「イモ!」とバトーされる、そんな時代です。

この日は晴れのち曇り。それにしても眺めがサイコーで楽しい岩稜ルートだ。「Ⅲ峰」あたりでフツーの岩登りになったり懸垂下降があったりと、北鎌尾根よりはヤヤこしいレベル。そのⅢ峰のガッチリした岩の様子は今も覚えている。引用させてもらったレポは画像が豊富で素晴らしい。行った気分に浸れます。

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7月26日、まずは「滝谷」を集中的に攀るべく、ベースキャンプを北穂・南稜のサイトに移動する。ボッカに苦しみ、4時間もかかっている(w 幕営地の半分は雪に埋まっていた。でも、これで水の心配はナシだ。そう。水は雪渓から滴るヤツを汲んでいたんです。今なら即ゲリ腹になるナ。

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【追記:2010年7月10日】
「滝谷」岩壁群のすばらしい画像を見つけたので、引用させていただきます。元ネタは、「ヤマレコ」のこちらの記事。滝谷の全容が見て取れる写真ってのは、なかなか無い。これは最高です。

この画像に解説を加えましょう。撮影場所は南岳小屋。「大キレット」越しに、真南を向いて撮影しています。
左端に上に「北穂高山荘」。そのあたりが「北穂」北峰頂上で、広いピークの右側が南峰、3,106㍍。小屋から画像左隅に下っている岩稜が「大キレット」へつづく一般縦走ルート。そして、画像真ん中の奥に望めるのが「奥穂」だ。

この画像は昨年9月の撮影とのことで、滝谷の主だった本チャン・ルートが赤裸々にして全裸々。隠れて見えないのは、「グレポン」と「C沢右俣奥壁」くらいか。
この合宿時に攀ったルートなどを示すと、北穂の小屋の右下に2段の垂壁を晒しているのが、「第1尾根」。その右、南峰ピークから明瞭な45度角で落ちるのが「第2尾根主稜」だが、その上から3分の1あたりが「P2」2番目のピーク)で、その下側の影になっている尾根側壁が「P2フランケ」だ。ところがこの壁は、1998年夏の大地震によって丸ごと崩落してしまい、10年を経たこの撮影時でも、崩壊後の荒れた様子がよく分かる。

第2尾根の向こう側にそそり立っているのが「滝谷ドーム」。左半分の影になっている部分が「北壁」。右半分が「西壁」だ。ドームの右奥には長大な「第4尾根」も見えている。とくに右下の「ツルム正面壁」が印象的。
それにしても、荒涼とした終末の風景だ。大正の末期などという時代から、こんな場所に取り付いて(夏どころか厳冬期も!)岩登りをしているアルピニストたちって、やっぱり相当ヘンだと思う。
(追記ここまで)

さて、設営後、「ドーム北壁・右ルート」を攀りに行く。昨年もやったルートだが、アプローチが近い小手調べ的な1本だ。
3名でのザイル・オーダーは、トップがワタシ、セカンドが「O」、ラストが「S」で統一。この組みかたでは時間を食うワケですが、まあ仕方がない。ホンネを言えば俺が攀りたいルートを俺がトップで、そんな鬼畜方針だったのはナイショ。

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7月27日、「ドーム西壁・雲表ルート」へ。ココはフリーがメインの楽しみにしていたルートだ。この写真が滝谷ドームの全容。右半分が「西壁」。右端のスカイラインが昨夏に攀った「ドーム中央稜」。左側の上半分が昨日やっつけた「北壁」。じつに岩壁っぽい佇まいでカッコいいでしょう。

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朝方は雨で、スタートを遅らせる。Bフェース下部の複雑に割れたクラックをフリーで快適に攀り、上部フレークではフリーでリードできないものか考えたが、結局、アブミを2回使って小ハングを越える。レイバックをブチかます度胸はなかった様子(w Aフェースはチムニーから下り気味にトラバースするところが面白い。次の凹角は人工だとルート図にあるが、ワタシと「O」はA0を1回でハングを越えられた。「S」はアブミの掛けかえで上がってくる。気分爽快な充実ルートだった。(8:25)開始(12:30)終了

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7月28日、本日は登りがいのある「第4尾根~ツルム正面壁」の継続登攀だ。4尾根は1932年夏に初登されたクラシック。ここ滝谷でも、岩場の開拓はまず尾根ルートから攻略されていったワケですね。

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残雪が多いC沢左俣を下り、6:50、スノーコルからノーザイルで登攀開始。Aカンテ上でアンザイレン、Bカンテを快調に飛ばす。ここらへんはナイフリッジだから両側がスッパリ切れ落ちていて、オマケに背後もはるかに見下ろす蒲田川までスッキリ爽やか何もナシ。抜群の高度感だ。

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Cカンテ基部から15㍍の懸垂下降を行い、9:30、第4尾根の右脇にそそり立つ三角形の垂壁「ツルム」に取り付く。出だしのフリーは少し緊張する。まあその。「A1」の場所を「A0」で、「A0」ならフリーで突破したいと考える意欲的なワシらだった。ラストの「S」はいつでもアブミの掛けかえで上がってきたけど(w まあ、そうしてくれるほうが時間の短縮にはなります。

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2ピッチ目は垂壁の人工からマッタクいやらしいボロボロの凹角。冷や汗モノだ。そしてワタシが「ルートわかんない病」という不治の病を持つため、このときも左への水平トラバース地点を間違え、かなり時間を消費した。まあその。ワシらが攀ろうと考える著名ルートなんて残置だらけで、それを目で追いながらルートを探すという「残置ピトン・ファインディング」をしていたのが実情だ。チルチルミチルのおハナシみたいなモンね(w ただし間違った方へその残置が続いている場合も結構あり、そんなときに「わかんない病」が発症するとイタいワケです。

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コレはツルム正面壁の上部をリードするワタシ。ツルムだけで何と6時間もかかってしまった。いま思うと、時間のかかる理由ってのは決して休んでいるワケではなく、冷や汗かきつつ、手をかけようとしたホールドがグラグラなモンだから落とさぬよーに元へ戻し、極度のバランスの中、また別の手がかりをまさぐりまくるってワケです。そんな時ってもう、必死なのネ(w 
次第に濃くなってきたガスは雨に変わりそうな気配。再び取り付いた4尾根の最終ピッチ、Dカンテを強引に突破し、17:25、雨の中で登攀を終了した。10時間もかかってしまったのだが、充実感はあった。

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7月29日、昨年も攀った「P2フランケ早大ルート」へ。出だしのクラックでアブミを1回使ったほかはフリーで攀りきる。(開始)11:50(終了)15:20

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7月30日、「第1尾根ノーマル・ルート」へ。まさにクラシックで、初登は1932年。ちなみに冬季初登は1939年などという開戦前夜の時代に「風雪のビバーク」で知られる松涛明氏が成した。で、縦走路上にある「松涛岩」ってのは、そのときに氏がビバーク拠点にしたからその名が付いたというくらいの由緒を持つ。

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ところが、今回も各ルートの画像つき登攀記録をアレコレ探しているワケですが、この第1尾根は見当たらない。P2フランケなどと同じく、1998年の地震で崩壊してしまったのでしょう、きっと。ルート図で分かるように、じつに「ちょうどよい」難しさ。3P目の小ハングも含めてオールフリーで完登。爽快。

しかし本日も昼前からガスが巻いてきたのと、クライマーが増えてきたので継続はサボる。でもナンダ、いま思い返すともっと攀っときゃヨカッタ…、そう痛切に感じます。行けば登れた「グレポン」なんか、地震で尾根そのものが崩落しちまった、というんだからナ(汁 でもまあ、残るは「ダイヤモンド・フェース」と「クラック尾根」くらいで、ほぼ制覇したという状態だったのだ。
滝谷の各ルートってのが、縦走路である稜線から取付き点まで下降して登り返すという独特なスタイルで、さらに岩が風化しているから落石(人為的でも自然発生でも)の危険と恐怖にビビるルートが多いワケ。

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7月31日、滝谷での最終日にはメイン・イベントを持ってきた。「C沢右俣奥壁」だ。初登は松本龍雄氏ら雲表パーティで、1958年の夏のこと。その昔から絶え間ない落石に悩まされる悪相の垂壁で、滝谷最後の未踏壁だったのだ。わがヒーローが開拓した、そんなルートをやる。

4尾根Dカンテを懸垂で下り、ツルムのコルへ。小雨が舞い、しばし時間待ちの後、さらに懸垂でルンゼを下る。陰惨なムードの滝谷でも極めつけ的に荒れている奥壁が見えたあたりで、凄まじい落石が縦走路から出た。その奥壁中央部を轟音とともに落下。ひええ。ワシらは呆然と立ち尽くした。
「まさかアソコがルートじゃないよな」「そんなハズはないよな…」。えらく弱気になったワタシ、壁の右側のクラックに取り付いてしまった。Ⅳ+のフリーにしては難しいと冷汗かきつつ40㍍攀ると、やっぱり先ほどの岩雪崩の場所がオリジナル・ルート(8枚前の画像を参照してください)だったと気づく。死にに行くようなものですがナ(w あとで調べたら、ココは「右ルート」といい、このピッチはⅤのA1とのこと。ワタシはA0数回で攀ってしまった。
仕方なく、左へ下り気味にトラバースを試みる。これを2ピッチ、そして凹状部直上から直上クラックと2ピッチ攀ると、縦走路下のリンネに出て終了してしまった。まあその。途中から雲表ルートに合流はしたのだろうが、もったいないコトをしたもんだ。
この壁の落石は、初登される前から恐れられていたコト。ワシらが攀った時点で登攀禁止になっていなかったのは、フシギという他ない。命がけのクライミングってのは、「運」でもある。まあ、それが本チャンの意義であり面白味でもあるワケですが。(8:50)開始(13:00)終了

これで滝谷の岩場を終える。ちなみに今、登攀の無事を祝して杯をあげるとすれば、この酒に限るね。どーです(w クールなネーミングが美味そうじゃないか。
それを味わいつつ、ワタシのバイブル「初登攀行」をかみしめるように読みたい。攀り終えたC沢奥壁を後にするくだりで、松本氏は味わい深くこのように結ぶのだ。「南峰頂上で涸沢の灯を見る。二五歳の夏への決別を感じつつ、去りがたい思いで下る北穂沢に夏草が匂っていた」。

8月1日、涸沢にBCを移して休養とする。快晴。明日からは「奥又白」と「屏風岩」にとりかかる。

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8月2日、まずは奥又白の前穂四峰正面壁「北条・新村ルート」だ。奥又白エリアは初見参。すぐにガスが吹き上がる「滝谷」の陰惨な岩の墓場ってなムードと比べると、コチラは好対照、明るく豪快な印象だ。

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ただし涸沢からだとアプローチが遠い。北尾根をやってから8日ぶりとなる「5・6のコル」経由で奥又白の本谷を下り、また雪渓を登り返す。うだるような暑さの中、たっぷり3時間のアルバイトで取付き点へ。
写真は本谷雪渓上部から撮った「奥又白」の全容です。右半分が「前穂四峰」の岩壁群で、さらにその右側が本日アタックする四峰正面壁になる。奥まった写真左側が「前穂東壁」の立体的な岩壁群。
【追記:2010年7月10日】
奥又白の岩壁群を撮影した、すばらしい記事を見つけました。2006年とのことだから、コレが「大地震」後の最新の状態だ。前穂東壁・右岩稜ルートの崩落は悲しいが、四峰正面壁のカッコよさには、今でも胸がおどる。

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伝説のクライマー・北条理一氏が1933年に初登した、奥又白でもっとも有名な北条・新村ルートは、「RCCⅡ」が記した核心部についてのルート解説が印象的だ。すなわち、「初登攀者たちは始めの小ハングにピトン1本を打ち、大ハングはピトンなしで乗越したといわれている。現在(引用しているルート図集「日本の岩場」は1976年の発行)では約20本のピトンが残置されている。これを見ても、初登攀者の偉大さに頭の下がる思いがする。初登時のこのピッチはおそらくフリークライミングのⅥに相当していたと思われるが、1933年当時にⅥに到達するような登攀が成されていたことは非常に興味深い」。
前項でワタシが触れた「岩と雪72号」の衝撃までは、すなわち日本のアルピニズムとは、こんなんだったワケです。ゴムソールの靴など存在しなかった時代、北条氏は鋲靴で攀ったのか、あるいは地下足袋か。ちなみに昭和33年秋の一ノ倉・滝沢3スラを初登したときの松本氏なんか、素足にワラジだもんね。
ともかく、自分の技量で対応できないとスグにハーケンとかボルトを打ち足してソレを放置し、よってそのピッチの難易度が下げられてしまう「宿命」だったのだ。コレがつまり日本全国「Ⅳ級A1」化というコト。この合宿時のワシらは「ルート図にA0と書いてあればフリーで攀ろう」などと、意識をちょいと高めに持って臨んでいたのだが、コレも「岩と雪72号」のアジテーションのオカゲと言えました。

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とはいえ快晴で酷暑のアプローチに痛めつけられたワタシは、キモチとは裏腹、全身に脱力感がみなぎって困ってしまった。フラフラと「ハイマツテラス」へ攀る。いま思うと熱中症みたいなもんかな。暑さとアブがワンワン飛び回るキジくさい場所で順番待ち。その素晴らしい核心部「青白ハング」帯では、小ハングはA0で突破するも、大ハングはアブミに乗ったくせしてチカラ尽き、ザイルにブラ下がってしまう。これはかなわん。「初登者はピトンなしで乗越した」とは、さすがのロック・レジェンド。次のトラバースからリッペを越すピッチもしんどかったとメモに残っている。
「5.6のコル」まで北尾根を下り、雪渓をグリセードで帰幕。(開始)8:15(終了)12:35

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8月3日、引き続き快晴のもと、前穂東壁「右岩稜・古川ルート」へ。コレも奥又白を代表する1本として知られ、Ⅴのフリーのピッチを含むというチャレンジングなルートだ。再び前日と同じアプローチを辿って、あえぎながら取付きへ。

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じつはこの右岩稜も、1998年の大地震でルートが崩壊した。現在は再び「新」古川ルートが引かれたとのことだが、もちろん内容は変わっている。とりあえず、数少ない写真付きの中からこの記録をご紹介しておきます。

さて、ワシらのコトだった。先行パーティが4つもおり、けっこうな順番待ち。核心部の4ピッチ目、A0とフリーでハングを回りこんでから、右にしぶいトラバース。ココで少々ルートを誤った。Ⅴのクラックは垂直で威圧的だが、快調にリード。そういえば「おお。コイツが5級かあ」などと感激しながらリードしたのを覚えている。
下を見下ろしたら梓川までドバーッと絶景が拡がっていたコトだろう。もっとも当時は高度感がマヒ(否。順応と言うべきかw)していたから、とくにモンダイ無し。ちなみに今では、まったくダメです(w これは訓練が必要なモノらしい。継続ルートの「Aフェース」、Ⅲ+程度の3ピッチを急いで片づけ、終了点となる前穂のピークへ。きょうは顧問の先生とOBが合流してくるからだ。
そしてこの涸沢への帰路、北尾根「3・4のコル」からグリセードしたら止まれなくなって雪渓を300㍍ほど滑り落ちるというアトラクションを図らずも敢行したワシでした。(開始)8:20(終了)14:20

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8月6日、2日間の停滞の後、屏風岩のクラシック「1ルンゼ」へ。この日はパーティを分け、「O」とふたりで攀る。快晴だった。その名のとおり屏風のように展開した岩壁の左端に位置し、初登は1931年、これまた伝説のクライマー・小川登喜男氏。キチンと温故知新を踏まえて取り組むのが、ワシらの偉いトコロだ。うおっほん。
ところがこのルート、ネットを巡回しても夏の記録が見当たらない。ヒットするのは「東壁・雲稜」ばっか(w まあその。今どきルンゼ登攀なんか不人気なんでしょうナ。でも、ルート図集には「穂高岳でも代表的な明るい花崗岩の大ルンゼであり、岩は硬くテラスも豊富なので思いきり登ることができる」などと、魅力的なコトが書いてあったんです。

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涸沢から本谷橋へと駆け下り、横尾の岩小舎から「一ルンゼ押し出し」を登り、雪渓の下をくぐってこのロング・ルートに取り付いた。下部はまぶしい花崗岩のチムニー状が続いて、内面登攀ばかり。ジョギングシューズだとまったく快適だとメモにある。こんな溝状のルートで上からラクにやられたらイチコロなのだが、このとき落石は起きなかったように思う。
中段台地でザイルを解き、ゆっくり登って上部岩壁へ入っていく。このあたりはとても暑くてシンドかった。非常にモロい井戸底状の壁をA0で突破して終了。グズグズの恐ろしい場所で、こんなのが最後に出てくると評価が下がっちまうワケですね。下半分だけならサイコーなルートだ。パノラマコースを辿って帰幕する。(開始)6:45(終了)12:30

【追記:2010年3月13日】
昔の資料をあさっていたら、たまたま、この「1ルンゼ」に関する大事故の報道を見つけた。
「岩と雪」1987年12月号(125号)で、この年9月に大規模な岩の崩落が発生、登攀中の4パーティ・8名が巻き込まれて、5名が死亡または行方不明、3名が重軽傷を負ったとのこと。
1ルンゼ最上部、屏風ノ頭まで30㍍の付近で岩が剥落し、幅100㍍長さ300㍍の岩雪崩となってルンゼ内を襲ったもの。ほとんど逃げ場のないクライマーたちは次々にその犠牲となった、という。ぐは。リアルに想像できてしまう(汁 さらに、飛び石連休の初日とのコトで、5パーティが登攀していたというその集中ぶりが被害を大きくした模様だ。
その後、当分の間は登攀を自粛する立て看板を現地に設置したようだが、以来20余年、無雪期に攀るクライマーは絶えて久しいというコトなのだろうか。

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8月7日、続いて屏風岩の人気ルート「東壁・雲稜ルート」へ。コレも由緒あふれる1本で、「穂高岳の岩場」には、このように記される。「人工登攀について賛否両論渦巻く1950年代末期、このルートの開拓が百論を一掃、堤の一角が崩れて新しい波が押し寄せた。ピトンやボルトの積極的仕様が肯定され、やがてディレッティシマの時代へとつながった画期的な意義を持つ登攀であった」。
初登(しょとう)は雲稜会の南博人氏らで、1959年4月のこと。前年6月に松本龍雄氏らによって、一ノ倉沢コップ状岩壁で初めて埋め込みボルトを使って「従来の攀りかたでは、誰も登れなかった場所」が突破された。その方法論を発展させたのが、見るからに攀れなさそうな角度で聳えるこの屏風の東壁の開拓だったワケ。さらに南氏は、この4カ月後に決定打といえる初登攀、エキスパート・クライマーたちの「最後の目標」だった一ノ倉の衝立岩を成し遂げたのです。

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本日も「O」と2名だ。また涸沢から駆け下りて、「T4尾根」に一番で取付く。50分ほどでルート取付き点の「T4」(上の画像で、中央の雪渓の右あたり)に到着。きょうは曇天だ。1、2ピッチ目はさすがの初登ライン、フリーの要素が強くてセカンドの「O」などオールフリーで上がってきた。扇岩テラスで、素晴らしい高度感に大休止して眺めを楽しむ。

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そこから始まる直上ボルト列が、新兵器「埋め込みボルト」が最大活用された垂直に近いスラブのフェース。ただし29年前でもすでにボルトのリング部分が抜け落ちて、細ヒモなんかで代用しているヤツがほとんどだからアブミの掛けかえというムーブでも冷や汗モノ。4ピッチ目はハングを避け、右にトラバースして東壁ルンゼに入る。ついに雨が降りだし、ツルツル滑るルンゼを強引にA0で突破して終了。長いパノラマコースを風雨に打たれながら涸沢へ向かった。(T4尾根取付き)6:50(T4)8:00(終了)13:20

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8月9日、雨で停滞した翌日、穂高で最後となるルートはコレ、「前穂東壁Dフェース・田山ルート」。奥又白エリアで最後まで取り残された奥壁だ。田山ルートが初登ラインだから、弱点を巧みに突きながらフリーで攀るピッチが多いというワタシ好みの内容です。ただし、ココも今では後に拓かれた人工ばっかの都立大ルートの記事しか出てこない。やはり大地震の影響を受けたのだろうか。

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「S」とザイルを結んでいたOBが帰京し、久しぶりの3人パーティとなる。天気は晴れ、そして再び「5・6のコル」越えというロング・アプローチ。やれやれだ。ところが攀ってみると、ルート図(8枚上の画像です)にエンピツ書きしてあるように、各ピッチの長さが実際と異なっているのもフシギだが、それより何より、ずいぶん楽勝で攀れちまったのがフシギ。
中間部の印象的なスラブ帯でもアブミをさして必要と感じなかったし、3ピッチ目の核心部、ハング帯の右上トラバースは「Ⅴ、A2」とあるが、アブミ1回、A0を数回で抜けてしまい、「やけにカンタンだなあ。またルートを間違っちまったのか?」などと不安になったり。セカンドの「O」など、このピッチを「A0」1回のみで上がってきた。「S」は例によってアブミの掛けかえ、余裕のスマイルだが。
3ピッチ目のビレイ点で話しあったのだが、結局「ワシらのレベルが向上したんだろう」という実にイージーな結論に落ち着いた(w そして上部のボロボロ凹角から簡単な左上ピッチと攀り、あっけなく終了。いちばん手ごたえがありそうで、とっておきにしてたルートなんですがネ。帰路は「Ⅲ峰」を懸垂下降し、「3・4のコル」から今度は滑らぬように涸沢カールへ下る。(10:35)開始(14:20)終了

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8月10日、無事に下山日を迎えた。本日も晴れ。入山日は重荷にあえいで、横尾からココまで5時間もかかったんだよナ。ヨーシ、松本でビールとトンカツ定食だ! いや、合宿中は小屋での買い喰いを禁じていたからです。先生とOBが来られていた数日のみ、アルコールは例外だったけどね。だもんでこの下りは速いよ(w (7:15)発(9:10)横尾(11:35)上高地だ。

さて、約1週間の休養および準備期間を設けて、「第3次夏合宿」は谷川岳での登攀を2週間ほど行う。穂高でつけた自信を引っさげて、やるぞ「3スラ」。



◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:4

ラード的山がたり ロック・デイズ(その4)

2010/03/04(木) 17:39:16

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【冬の壁について】
わずかばかりの氷壁体験も、恥ずかしながら、まとめて触れておこう。
積雪期の登攀といっても、ワタシは八ケ岳でのみ。アプローチがラクだし手ごろなルートがあるからね。冬山入門的エリアの「ヤツ」ってのは、このジャンルにもキチンと当てはまる。鹿島槍なんかには個人山行を組むヒマが無かったのがホンネです。わが部のメイン・イベントが春合宿の長期縦走だから、その準備合宿という位置づけで、毎年2月末から赤岳鉱泉でベースキャンプを張ったワケ。

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2年続けて攀っているのがこのルート、赤岳西壁「主稜」。「ヤマケイ」誌1月号から迫力の画像を拝借。こうして見ると、なんかスゴいムードですが、実際は大したコトない。もちろんザイルを結んでスタカットで攀ってはいるけれど。

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それより何よりこのルートで思い出ぶかいデキゴトは、2年連続、同じポイントで発生した例の事件、なんである。2回ともスッキリ晴れ渡った天気だという記憶もないから、まあその。ワシの必死なそのときの様子をウォッチしていたギャラリーはいなかった、そう思いたい(w

「主稜」よりもヤリがいがあって、また楽しいのが赤岳西壁「ショルダー右」リッジだ。コレは2年のときに攀ったのだが、やはりルートの内容については忘れている。よく覚えているのは、こういう登攀では手袋の消耗がハゲしいこと。当時はウールのこんなグローブしかなかったが、まあ、指先部分がすぐに穴が開いちまうんです。ホールドを探して岩をナデナデしてるとね。2ルートやっったら1㌢大の穴になったのって、いつのコトだったか。

立派な氷瀑で昔から有名な「ジョウゴ沢」には、1年次に行っている。でもアイス・クライミングが盛んになる以前の時代だから、ダブルアックスではなかった。もちろん大滝は巻いたハズ。いま思うと意味ないが、アイスハーケンなんて装備は部になかった。今ではアルパインの1ジャンルとして特化したスポーツ風に広まっているが、30年前は特殊な趣味ってムード。最初の写真は、ジョウゴ沢を詰めて硫黄岳直下を登るワタシ。

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これは横岳の頂上か。小同心クラックをやっつけた後、だと思う。無雪期のグレードでは、Ⅳ-、Ⅳ-、Ⅲの3ピッチ。そして3年次ですね、「ICI石井」オリジナルの青いサロペットだから。
ちなみにこのサロペットは当時の部内で流行ったモノだが、高級ラインのゴアテックス・バージョンは高級すぎて、ワタシはフツーのナイロン製を買った。背中から雪が入らないスタイルってのは、えらく雪山で実戦的でした。ほかは「カモシカ」のゴアテックス雨具ジャケットに「ショイナード」のオーバーゲイター。そして「ゴロー」の登山靴。
アイゼンは「サレワ」の12本で、ピッケルは「グリベル」(今ではちょっとブランド化してるらしいけれど、昔は有り難味なんかナシ)のバーゲン品だったウッドシャフト。こんな装備で別に不都合も感じなかった幸せな時代、ではあった。

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【夏合宿に向けて】
この年、最初の本チャンは、6月上旬、幽ノ沢中央壁正面ルートだった。それにしても素晴らしいこのレポートよ。ザイル・パートナーは新人の「O」。横岳の写真で赤の上下のセーネンですが、とくに岩登りをやりたいと入部してきた有望株。ルートはすべてワタシがリードして、なんらモンダイなし。幽ノ沢は明るくてヒトが少ないところが好きだった。

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前年の秋に「開眼」してから、いきなり今シーズンはレベルアップした登攀をやるワタシですが、まあ、イキオイとモチベーションはかなり持っていた。

ところで、いろんなヒトの近年の本チャン登攀レポートを改めて読んできて注目しているのは、確保支点のこと。今どきはランニングビレイを含めて、ビレイの確保支点について神経質なんだな、と。「ビレイ・ステーション」なんてコトバもできている。今では一般的な埋め込みボルトのハンガー・タイプのモノって、ワタシが現役のころには存在してなかった。
どころか、昔なんてアセって打ちこんだのか半分くらいしか入ってないリングボルト1本で確保した、なんてのが日常茶飯事捕物帖だったと記憶する。もちろん、きちんと確保するのは良いことです。ただしこの風潮ってのは、やはりスポーツ的に整備されたフリークライミングという過保護な環境で育ったヒトが、あまりにお粗末なプロテクション状態に呆れて打っているんでしょう、きっと。
昔は本チャンをやる「山ヤ」がたくさんいたので、生きてるというか何とか使えるレベルも含めて、残置ハーケンとか残置ボルトを活用できたのかも知れない。

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今は死語なのだろうが、かつては岩登りの「三つ道具」と呼ばれる基本グッズがあった。ザイル、ハンマー、ハーケンのコトだが、いずれにせよワタシは「本チャン」の場でボルトはおろかハーケンすら打ったコトが無い。この3年次なんか、ハーケンはおろかロック・ハンマーも携行していない。使わないから、なのだ。もしかするとザックの中に仕舞っていたかも知れないが、ともかくブラ下げてはいない。今どきのヒトはビックリするのかな(w すべて残置にクリップしてコト足りていたんです。

写真はこのルートの終了点かな、これから堅炭尾根を下ろうとしているところ。背景は一ノ倉尾根。半分お手製のハーネスは、コレを最後に「Mt.Dax」(当時売り出し中の国産メーカー。地味ながら現在も商い中)オリジナルのシット・ハーネスに買い替えた。左腰にブラさがっているのはアブミ。ザックは、大学時代に使い倒した思い出満載の「さかいや」オリジナル、フレネイ・ザック。1979年9月購入、3,950円。当時「さかいや」は怪しげな自社商品をいくつか販売していたのだが、コレは「ラフマ」のアタックザックのパクリ。ボトム部分に灰色の牛皮を広く貼っているそのデザインが好みだったし、内側に折りこんだ部分を引っぱりだすと約1.5倍のザック容量(40㍑くらいか)になり、重宝したものだ。この後の夏合宿でも登攀ではすべてコイツを背負った。
それにしても服装がテキトーですなあ。スウェットはフツーの綿だし、ただのチノパンだし、こんな残雪の上でジョギングシューズだ。ちなみにコイツはアプローチ専用で、本チャンでは別のジョギシューに履き替えていたハズ。

さて、7月早々、南アで「第1次夏合宿」を行う。北岳バットレス第4尾根をやっつけてから塩見岳越えのカモシカ縦走というトレーニングだ。いま思うと梅雨の真っ最中ですからネ、予定調和的にヒドい目に遭った。すなわち、スーパー林道が崩落したとかで夜叉神峠の先からエンエンと歩かされ、登攀はあきらめて雨の大樺沢を登ったら「ゴーロク豪雪」の名残が異常に多くてルートが不明、ハイマツの海をエンエンと泳いで、夜は夜でツエルト内が酸欠になって死にかけ、翌日やっぱり雨の中を、お荷物でしかない登攀用具で18kgくらいのザックのまま、12時間半を歩き通して三伏峠の無人小屋に転がりこんだら爆睡中にネズミにメシを喰われてビビったりしつつも計画は完遂して、やっぱり下山日だけはドピーカンになりやがる、などと天を恨みつつヨレヨレになりながら鹿塩の集落まで歩いた。
いやその。わがパーティの基礎体力は十分であるとの結論だけは得た(w


◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。
 
元「山ヤ」の体験談CM:14
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