ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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クルマはE46「325i Touring」
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林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
バックパッキングの世界を愛する。
風流なオッサンとなるべく
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山について思ったこと 「魔の岩壁」

2008/03/27(木) 23:55:11

いちのくら

谷川岳、一ノ倉沢の衝立岩。
昔むかし、そこで宙吊りになったロック・クライマーの遺体を自衛隊員の銃撃によって回収したという荒っぽいデキゴトについては、ワタシが現役「山ヤ」のときも聞いたことはあった。そして、そんなルートの存在にビビったものだ。でも、そのデキゴトの詳細は知らないし、谷川岳を根城にしていた山岳部のOBたちも同様だったように思う。こういうコトに触れるのは山ヤのタブーであって、忘れ去りたい事件だからなのだろうか。
写真は1981年の8月、その一ノ倉沢の出合に立つ気負ったワタシ。第3次夏山合宿のときで、主将として10日間ほど一ノ倉と幽ノ沢での岩登りを実施した。そして背後に聳え立つ特徴的な三角錐が銃撃事件の起こった現場、衝立岩正面壁だ。

それにしても良い時代になったナと感じ入る。その「事件」のニュース動画がカンタンにPCで見られるってんだからネ。
谷川岳の魔の岩壁

一ノ倉ザイル事件

【追記その3◆2010年4月28日】
「朝日ニュース」が映像配信を止め、同じ内容の「ようつべ」動画も、デリられたようです。現在、このニュース動画を見るコトができません。
いま思うと、この動画は画質が悪く、岩を知っている「山ヤ」なら凄惨なそのアリサマを具体的に想像できるだろうが、一般のヒトにとっては映像のリアルな詳細については判別できなかっただろうから、グロ動画というワケでは決してない。デリられた理由は何か。個人情報保護の観点から、なんでしょうかね。

「当ブログの歩きかた」という自選ベスト記事集にも詳述しましたが、相変わらず「衝立岩」「魔の岩壁」「正面岩壁」なんてコトバでこの記事を検索してくるヒトたちが引きもきらない。すべて当ブログにとっては一見さんなのだろうが、そしてまた、岩登りとは無縁のヒトがそのほとんどなんでしょうが、今月も合わせて40名くらいがこの記事にトンできているワケだ。50年も昔の、ついこないだまでは「ほぼ」忘れ去られていたカルトな事件に。この数が決して多いとは思わないし、きちんとこの一文を読み込むヒトなんざ、ごく少数だろう。しかしながらこの「検索」にまつわる一件というのは、ネット社会のさまざまな特性を端的に表していると思えてならない。

【追記その4◆2010年11月1日】
現在、ニコニコだけは、同じモノが見られます。

【追記その5◆2011年2月14日】
wikipediaの該当記事に新しいネタが出ていた。1963年に公開されたカルトな風俗映画に、この銃撃の映像シーンが唐突にインサートされているとの由。その映画評を記したブログ記事が、コチラ。今ではその映画もDVD化されているようです。
そして、もうひとつ。朝日ニュースではカットされていた「部分」が見られるモノを、発見。ああ。こんな「モロ」なヤツがうpされていたから、当記事の注目度も上がっていたのかと、今さらナットク(w 4:35から20秒ほどだが、クライマーの親御さんがたは、出合でこのシーンを見ていたのだろうか・・・。(追記ここまで)

さて、この事件(というか事故の顛末というべきか)が起きたのは、1960年の9月のこと。ちなみにワタシが生まれて半年後だ。暑い夏だったなァ。いや、ウソです。覚えてるもんかっての(w この動画サイトは、かつて映画館で流していたニュース映像のクリップ集と思われる。「ワイドの眼」というタイトルから、当時は映画館でしか味わえない珍しいワイド画面の映像だったのでしょう。それが、ココではフツーのヨコ幅に圧縮されちゃっていますね。画面が暗いから、余計に見づらい。
それにしても、このオドロオドロしたBGMは如何なモンかと(w だってサ、機関銃で銃撃して遭難者を回収するという、ただでさえショッキングなネタに、この圧倒的な一ノ倉の凄惨な光景が映っているワケでしょう。なんかもう、岩なだれと共にゴジラが現れそうなムードではないか。

以前にも書いたことですが、1950年代後半からは、マナスル登頂ブームを受けてのハイキングや登山が国民的なレジャーになっていた。町には社会人山岳会がさまざまのレベルで林立して、「3人寄れば、さん岳会」なんてニュアンスで言われていたらしい(「初登攀行」松本龍雄著より)。それでも、こんな信じらんない岩壁をヒトが攀じているなんて、一般レベルのハイカーたちには理解できなかったに違いない。だから事故死しても当然、「そんな場所に逝くからこんな最期を迎えちまうのだ、親不孝ものめ」などと、ハゲしく世間に対してトラウマを与えるニュース動画だったのではないかと想像する。

ザイル・パートナーの2名が共に死んでしまったというレア・ケースの理由は、調べてみてもよく分からない。当時のビレイ方法は「肩がらみ」式という古典的なやりかただったろうし、ハーネスは、使っていたとしても胴ベルトのみだろうから、大きな墜落をした場合、両者のカラダへのダメージは深刻だったのかも知れない。当事者である山岳会の事故報告書が編まれていたら、そこには「推測」の考察が記されていたのではあるまいか。
しかし遺体だけ切り落とし捨てて、いっさいの現場検証は行わなかったコトになる。現代では考えられないハナシだが、あのころ、衝立岩とはそれくらい隔絶された場所だったワケだ。
このサイト「誰か昭和を想わざる」の中に「恨みのザイル一斉射撃」という記事があり、ネット上では現在もっとも詳しくこの事故について報じている。まあその。文中、不謹慎ながら「伝書鳩で連絡」ってところで笑ったね。時代を満喫。伝書鳩の到着タイムを競うコンテストが盛んだったんだっけ。

【追記その2◆2009年10月】
あまりにも多くの読者がこの記事を検索して読みに来るので、より正確を期さねばイカン、そう一念発起(w
「あの現場」のもっとも近くで、銃撃による解決を図るよりも前に、当事者山岳会と一緒に遭難者2名を収容するべく奮闘を続けた凄腕のクライマー・小森康行氏のエッセイを引用してきました。「続き」を開けて、ご覧ください。(追記ここまで)

wikipediaにも事件の項目が掲載されている。しかし記述にマチガイがあるナ。「当時登頂に成功したのは1例のみの超難所」という部分。先のニュース動画中でも大時代な読みかたをするアナウンサーが「15人しか登られていない」と言ってるじゃん(w

セピア_1280

ただし「超難所」というのはまったく事実で、1960年当時のクライマーたちにとって衝立岩正面壁は最高難易度の登攀ルートで、生半可に挑戦すらできない圧倒的な存在でもあったのだ。ちなみに「難しい登攀」という尺度もさまざまなのだが、この壁の場合は、オーバーハングだらけで困難な人工登攀に頼るハメになるからだ。詳しいクライミング・スキルの解説は端折るけど。

こういう登攀ってのは、最初に完登したパーティが当然ながらもっとも偉大だ。数十年間にわたって未踏の王冠を誇った壁に、登れるラインが存在することを証明できたから。だから第2登はグッと気楽になる。初登パーティが猿でなく同じ人類なら、なんとか対応できるワケだ。ルートに埋込みボルトやハーケンを打ち足せば、よりラクに登攀できるし、また続登されるにつれ、残置された補助支点も増えていく。そんなこんなでそのルートが100登くらいされたら、技術的な難易度はドンドン引きずり降ろされてしまうという嘆かわしい事態になる。今は初登から50年近くたっているから、数万登を数えるくらいなのだろうか。

ヨセミテから発信された「クリーン・アッセント」という倫理的ガイドラインが日本に根づくまでは、長きにわたってわが国の人工的なアルパイン・ルートは埋め込みボルトなどの支点がバシバシ打ち足され、残置され、そのためにルートの難易度が下げられてしまう運命にあったワケだ。
この衝立岩の初登時は、それまで「雲稜会」による数次の試登で、固定ロープを難関の第1ハング上まで張ってある状態でスタート、それから4日間を費やして完登している。第2登はその2週間後、ワタシのココロの師「雲表倶楽部」の松本龍雄氏パーティだ。これは2日間のラッシュ・アタックで攀りきっている。それから20年後となるワタシが現役のころには、所要5~7時間というのが一般的な登攀タイムというルートになっていた。

衝立トポ

その後、この衝立岩正面壁には何本も別のルートが拓かれ、初登ラインはそのクライマー・南氏が属する「雲稜会」の名を取って「雲稜第1ルート」と呼ばれている。その初登攀のレポートがネットで読めるから、うれしいものだ。
http://unryo.cliff.jp/data/history/tuitateiwa1st.htm

谷川岳は昭和の初頭に「近くて良い山なり」と紹介されて以来、最近までに800名近くの遭難者を出しているという世界的にみても珍しい場所だ。中でも一ノ倉沢での岩登り中の事故死が最多なのだろう。象徴的なモノがある。沢の出合、車道と水流がぶつかる場所に、今は知らないが大がかりな「ネット」が設置されていたのだ。それは本谷の雪渓を長い間かけて運ばれてきた「オロク」さんを掬い取るための金網製のネット、なんですけどね(汁
衝立岩という大岩壁は国内の大方の岩場と違って、観光客でもその凄惨な姿を一ノ倉「出合」という間近で安全な位置から簡単に眺めるコトができる。これが大きな特徴であって、つまり悪目立ちするスター性を持つ壁と言えるのだ。

0_640.jpg

これは、初登攀から20年後に発行された写真によるルート図集「谷川岳の岩場」(山と渓谷社・1980年5月刊・絶版)。ロッククライミングをご存知ないヒトはアゼンとしちゃうに違いない表紙カバー写真は、衝立岩「A字ハングルート」の核心部。背景にはワタシの最終目標だった「滝沢スラブ」が美しい。
この本は豊富な写真で当時の日本3大岩場、すなわち「穂高」「剣」とこの「谷川」の各アルパイン・ルートを紹介するガイド図集なのだ(後で気づいたのだが、「北岳・甲斐駒」も出ていました)が、ワタシが現役クライマーのときに刊行したから、アタックする際の実技的アンチョコとして、まったく重宝するモノだった。まあその。今ならば、そんな一挙手一投足がバレバレになるルート解説を見て、あたら挑戦のヨロコビを減じるなんて意味ないじゃんとも思える。しかし当時は自分の能力で完登できるかどうかのジャッジは死活問題、正しく「イノチがけ」だったもんでネ。
こういった「本チャン」の登攀ルートにおいては、技術的なムーブの難しさのみでなく、アプローチを含めた登攀の所要時間、岩の脆さ、濡れ、落石、確保支点の数と効き具合、さらに悪天につかまった場合の脱出の難しさ、あるいはザイル・パートナーのコンディションなど、さまざまのヤヤコシい心配ごとがあってモチベーションを維持するのが結構タイヘンなワケです。

b.jpg

とりあえず衝立岩のシチュエーションに近い、自前の写真で勝負しますと、コレは同じ一ノ倉「コップ状岩壁」正面壁の「緑ルート」、約4㍍のハングを乗越そうとしているトップのワタシ。取り付き点から真上を仰いで撮影しています。1981年の8月、雨に降られまくった合宿だった。「コップ」とは、セピア色の一ノ倉沢全景画像で、ツイタテの右上に位置する岩壁だ。
このときは台風後の悪コンディションで、足元は何とフエルトを貼った渓流タビ(w ヌメヌメの壁では有効でした。逆に雪渓ではすぐに目が詰まって滑りまくりだったけれど。じつはワタシが本チャンでいつも愛用していたシューズは、千円のズック靴だったのだ。あの時代、ラバーソールのクライミングシューズなんてのは元祖「EBシューズ」が輸入されたかどうかという時期であり、峠の岩とか日和田のようなゲレンデならイザ知らず、一ノ倉の草付ミックスで「実際ソイツは使えるんかい、え?」、そんな時代。
写真が暗いのだが、右足はアブミ最上段に乗って巻き込んでいます。ザイルは9mm40㍍のドッペル。間違ってもダブル・ロープなどと言わぬよーに(w 「人工」が苦手なワタシは、アブミのかけかえとはいえ、このハングと続く濡れた垂壁では苦労の連続だった。これに取りつく前、すぐ右にある「雲表ルート」をやっつけていたのが原因かも知れませんが。

この「コップ正面」のクラシックな両ルートも日本登攀史にその名を刻んでいる。ひとつは、わが国の岩壁で初めて手製の埋め込みボルトが実用的に使われたコト。もうひとつは丁々発止の初登攀争いとして、1958年の6月、同日同時刻に攀られたというドラマを持つ、「戦後」の重点課題だった難攻不落の壁。その日は「ツイタテ銃撃」のときのように取材のTVカメラ(日テレ)が一ノ倉に入って、初登攀争いの様子を茶の間に放映したというエポック・メイキングな場所なのだ。それが映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のあの時代のこと。

DSC04395_800.jpg

またまたハナシが本筋からそれてしまいました(w さて、梅雨明けどきから秋にかけて、残雪が消えた一ノ倉の人気ルートに取り付くには「テールリッジ」というアプローチ・ルートを登るハメになるのだが、その尾根の上部までくると、ごらんのように壁はクライマーを威圧するがごとく覆いかぶさる。それでは年季の入ったこのガイドブックから、銃撃事件の現場である「衝立岩」という壁の存在を引用してみよう。
・・・・・
衝立岩正面壁は一ノ倉沢に残された最大の課題でありながら、垂直のフェースとオーバーハングのために、登攀は不可能視されていた。ところが、1959年8月18日に南博人、藤芳泰の両氏により、埋込みボルトと縄梯子による新しい人工的テクニックを駆使して拓かれたルートである。
初登から2年で、あのショッキングな宙吊り事件が起きたことでも知られ、国内でも最も難しいルートとされていた。しかし、60年代から70年代にかけて奥鐘山西壁や海谷山塊などにおいて、このルートをしのぐ困難な壁が次々と開拓された現在、スケールやテクニックも最高のものではなくなった。しかし、ルートの合理性、ルートの存在する位置、明るさなど抜群であり、ルートに要求されるすべての要素を備えているから、日本の岩場の中でも代表的なすばらしいルートのひとつに数えることができる。
(後略)
・・・・・

DSC04399_1280.jpg

くわあ。たまらん。じつにココロ踊る。え。踊らないか?(w ただし白状しますと、ワタシは衝立岩のルート(当時は5本ほど)は1本も登攀したコトがないのだ。いわゆる人工登攀よりもフリー主体の難しいルート、つまり「滝沢第3スラブ」を攀りたかったワケ。腕力イノチという「人工」は苦手だったし、最後まで惹かれるコトはなかった。
そんなワタシの現役時代の後半期は、いま思い返すとロック・クライミングという遊びにおける大きな流行の「端境期」。20年ほど続いた「鉄の時代」と呼ばれる人工登攀主体の長く困難なルートがグレード・ヒエラルキーの頂点、そんな考えかたの最後の時期だったと言えるだろう。それからは、アメリカナイズされた「フリー・クライミング」というスポーツ的なロック・クライミング思想とルールやスタイルが輸入されて、現役クライマーの意識革命が湧き起こり、国内に根付き、そうしてハードなルート開拓がガンガン実践され始めていった。それ以前の「命がけ」という外的な危険要素をなるべく排除したやりかたで、あくまでもスポーツ的に。まあワタシなんか、そのフリーの潮流が押し寄せる直前で活動を終えたワケで、なんとも前時代的クライマーであったコトよ。

そして日本ロック・クライミング界の大きな流れという観点からも、この衝立岩正面壁は象徴的な役まわりの場になったというのが興味ぶかい。「鉄の時代」とは、埋め込みボルトという人工補助用具が多用され、この壁が初登攀されたコトで実質的にスタートしたコトになるし、ワタシが最終目標の「3スラ」を登った数ヵ月後(1982年夏)には、なんてこった、この衝立岩の初登ラインである「雲稜第1」ルートがオールフリーで完登(その場合のルート名は「グリズリー」)され、それが現在に続く本格的なフリー・クライミング発展の嚆矢(こうし)となったからだ。
「本チャン」と「ゲレンデ」のふたつだけだった岩登りを行う「場所」というのは、そのころから、おもしろい「課題」があれば東伊豆にある海沿いの断崖(城ケ崎の開拓が始まった)でもイイし、江戸城遺構の石垣(常盤橋公園ってのがブームになった)でもイイし、河原の大石(奥多摩のボルダーがブームになった)でもイイし、さらに時を経て、建物の側壁にしつらえた人造のウォールでも結構という「内容を厳しく問われる」新たな時代に突入していったのだ。そうしてワタシは完全に前時代のヒトに成り果てた。

【追記その1◆2008年4月】
こういう紹介記事を書くと、当然のコトながら、検索でトンで来てくれるヒトがたくさん出てくるワケです。いま、ワレながら恥ずかしい思いなんですけどね。もしかしたら相当な数のホンモノ「山ヤ」が「攀ってもいないでヨタ飛ばしやがって」、なーんて感想をお持ちかも知れん。
逆に、アクセス解析から知ったというか教えられた、こんなナイス・ブログをご紹介しましょう。ツイタテの初登者・南博人氏のブログです。なんと言いましょうか、見事な好々爺におなりになっている。風流な老人とは、ワタシの理想。すばらしい。人生のお手本とさせていただきたいものです。

南氏の昨年末の記事に、ともかく注目しました。コレ、「岳人」誌に記載された20世紀の偉業として衝立岩初登攀が紹介されており、その文章をそっくり引用しているもの。けっこう誤字(打ち間違い)があって微笑ましい、なんて言ったら失礼なんですが、その登攀の内容は凄まじい。でも、ちゃっかりとジマンをくれてるところなんか、じつにオチャメだ(w 神さまだから許されるワケですが。いやその。こういうおじいちゃんになりたい。(追記ここまで)

まあしかし、現代では絶対に有りえない「超」荒っぽい事故の解決法「ザイル銃撃遺体収容」が起きたころのわが国は、コレに限らず、無茶苦茶に荒っぽく騒然とした時代だったようだ。その年の5月・6月は「60年安保闘争」。東大生の樺美智子が殉死したコトで有名な国会突入デモがあったり、岸内閣が総辞職したり、三池炭鉱での壮絶な労使闘争が続いたり、そして10月には社会党の浅沼委員長が演説中に右翼少年に刺殺されたり
ハナシが逸れるけれど、この浅沼暗殺事件の「ようつべ」もある。フシギと消されないのだ。最後のスロー映像(ドスが丸見え)が、恐怖。「60年安保」のまとめ動画もあるから、ごらんいただくと凄まじくホットな世相がよく分かるハズだ。

それにしても、現代では理解不能な珍妙な文化風俗とか事件が多くて目がくらむ。泉麻人の名著「B級ニュース図鑑」っぽいネタも多い。この「昭和35年・上期」ニュースでの「吸血少年団」なんか最高だ。ギョッとしたもんね、このタイトル(w ただし当時の社会世相として、自分の血を売って生活する底辺のヒトたちが大都市にワンサカいたことや「黄色い血」というその撲滅キャンペーンなどは、知っておかねばならないだろう。映画「ALWAYS 3丁目の夕日」なんかじゃ決して描かれない生活を、だ。

誰か昭和を想わざる・昭和35年





【追記その2◆2009年10月】

この事件のアウトラインにもっとも詳しいとされる参考図書がある。去る6月、山岳古書といえばココ、神保町「悠久堂」書店でゲットした「垂直の上と下」(800円也。中央公論社、初版1981年、のち文庫化。ともに絶版)がソレだ。
著者の小森康行氏はその当時のエキスパート・クライマー。氏の若きころの登攀記録などと共に、因縁あるこの銃撃事件について回想している。新刊書では手に入らない現状でもあり、そのエッセイ「谷川岳衝立岩の遭難」からダイジェストで引用させていただきます。

・小森氏はツイタテ遭難者の2名と、その前月に北穂高岳・滝谷の悪壁「グレポン」で遭遇、面識があった。
・9月19日、小森氏はパートナーと2名でこの衝立岩を登攀(1日で攀りきる予定)するべく、平日の一ノ倉沢に入った。しかしあいにくの雨模様。翌日に取り付くコトにして、土合駅近くにあった登山者の拠点「土合山の家」にブラブラ下る。
・山の家で、衝立岩で遭難事件が起こったコトを知る(すでに新聞記者が来ていた)。

・「私たちは一ノ倉の出合の小屋にいたが(中略)まったく気がつかなかった。一ノ倉に引き返す途中に出会った警備隊員いわく、「ひとりは第一ハングで宙づり。もうひとりは第二ハング」「何回呼んでもぜんぜん返事がないんだ」。
・この日の朝、テールリッジを登っている登山者が「ひとり死んだが救助を頼む」という声を耳にした。この人は直ちに引き返して警備隊に知らせたのだが、ガスが深く、当初は現場がツイタテかどうか定かではなかったという。
・警備隊員と話すうちに、遭難したパーティが小森氏と同郷の横浜にある「蝸牛山岳会」、それも面識のある2名と判明した。氏らは相談の上、この翌日と翌々日を救助活動に協力させてもらおうと決めた。

・翌9月20日の朝、蝸牛の先発隊11名が出合に到着。協力を快く受け入れてくれ、共に現場を視察。そして、「第一ハングのところに、それらしき姿が目にとまった」「あそこだ! 私たちの目が岩壁の一点に集中した」「おーいッ、ノナカーッ」「ハットリーッ」「力いっぱいの声で仲間が呼びかける」「私たちの間では絶望的な会話が主体になりはじめていた」「私は双眼鏡を借りて二人の状態に目をこらした。だが去来するガスと雨のために、はっきりと読みとることができない」。
・「上の服部君は第二ハングを抜け出たところにおり、そこから赤いナイロン・ザイルが、途中一個所スリングを通って、あとはストレートにのびきっている。その先端に野中君が宙づり(ラード註:空中で揺れている状態)になり、片足がザイルにかかって、ちょうど腰かけているような姿に見えた。またこうした難しい岩壁を登るときは、普通二本のザイルを使用するが、その一本はループして上の服部君のところにまとまっているように見えた」。

・出合に引き返して、山岳会と収容方法について検討する。3つのアイデアのうち、この2人は支点によってツルベになっているだろうから、下側の野中氏の位置まで近づいてザイルを切れば両名とも落ちてくるハズ、という案が有力とされ、ザイルは棒の先に付けたナイフで切るとかアルコールを使って焼き切るというプランになった。
・しかしコレは蝸牛山岳会の有志が実践する場合であり、「私自身としてはたとえ遺体であろうと、自己の手によって切り落とすことはできないと考えていた」。

・9月21日、快晴。午前7時に出合を発つ。「昨日とは打って変わり、二人の姿がはっきりと見える」。山岳会の3名と小森氏パーティ2名でツイタテに向かうものの「ルートに詳しいということで結局私がトップに立つことになった」。
・取付点のアンザイレンテラスから30㍍登って第1ハング下、二人用テラスへ。「野中君の遺体はルートから右へ十五㍍はずれて宙づりになっている」。ほとんど水平にトラバースして「野中君の真下に立った。見上げると、頭上十㍍に野中君が、そして四十㍍一直線に伸びたザイルの先に、のけぞるような姿勢をした服部君が見える。まことにすさまじい光景だった」。
・「野中君に接近するには垂直に登らなければならない」「リスがなくなる」「止むを得ず時間のかかる埋込みボルトを打ちながら少しづつ彼に近づいて行った」「午後二時半、野中君まであと三㍍のところでボルトがなくなり、行き詰ってしまう」「宙に浮いた身体はわずかな風をうけてゆっくりと回り、やがて私と向き合う位置になった。その変わり果てた姿は、滝谷のグレポンで会った(中略)あの元気な姿とはどうしても重ならなかった。私は心の中で彼らの冥福を祈った」。

・ザイルを切断するには、ボルトをあと三本打ち、彼と平行になるところまで登らなければならない」。その位置から遺体までは約3㍍だが、それくらいは何とかなるだろうと手持ちのボルトが無くなった氏はザイルを固定し、下降した。
・蝸牛山岳会に状況を知らせ、順調に行けば、「明日午前中には野中君の遺体は収容できること、ザイルを切っても上の服部君が落ちなければ、第二ハングまで登らなければならないことなどを話し合った。収容隊の中に、後は自分たちでやってみるという数人がいたので心強く思い、私たちはこの時点で引きさがった」。

・続いて、ハナシが急展開する。「しかし、結果は、自衛隊の出動によりザイルを銃撃で切断するという意外な方向へすすんだのである。私は愕然とした。会員の中に、自分たちの手によってザイルを切るという者がいても、あるいはかつて衝立を登ったことのある経験者が助力を申し出たとしても、一体、誰がその身の安全を保証することができるか。これが蝸牛山岳会の上層部の意向だったようである。その観点が、自衛隊要請につながったのである」。

・「ザイルを銃撃によって切断したということは、登山界はもとより、大きく世間に波紋を投げかけた。なぜそこまで行くまえに、岳連の総力をあげても事態の収拾につとめなかったのか。登山のモラルとはそんなものか、クライマーのモラル意識とはそんなものか。これが大かたの意見だったようである」「しかし蝸牛山岳会の主張も、これまた人命尊重を前提とした道理に他ならない」「まことに難しい問題を残した遭難事故であった」。

以上で引用を終わります。
ところで、山際淳司氏の山岳エッセイで近代クライマー列伝といった内容の「みんな山が大好きだった」(中公文庫)でも、この一件が出てくる。そこでは、あたかも小森氏らが蝸牛山岳会に対して、これは手に負えないから自衛隊による銃撃を要請したほうがよいと助言した、そう読みとれる記述になっている。
ワタシが引用した小森氏の「垂直の上と下」は1981年の刊行(のちに中公文庫に収容)、「山男たちの死に方」(「みんな山が大好きだった」原題)の単行本はKKベストセラーズ社から、1984年に上梓された。
お気づきのとおり、もっとも事故現場に近づいたただひとりの人物、小森氏の主張がまるで異なるワケですが、もし「それは事実と違う」と氏が気づけば、版元が同じ中央公論社であるコトから内容の訂正を行えたと考えられるし、そのままで放置したというコトは山際氏の記述を暗に認めたというコトかもしれず…。いったい真相はドコにあるのだろう。それも含めてミステリアスな遭難事故だといえる。

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