ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
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ラード的山がたり ロック・デイズ(その2)

2010/02/11(木) 23:50:26

P1000967.jpg

1年ぶりに、続きを書こう。

◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。

【山岳部とロック・クライミング】
2年生になったワタシ、いよいよ「本チャン」の登攀(とうはん)が多くなってきた。「オールラウンドな登山」を標榜するわが部にとってロック・クライミングは避けて通れない課題なのだが、じつはワタシ、1年の新人時代には「岩登りはキライなんですぅ」などと諸先輩に泣きゴトを言ったくらい、苦手意識を持ってもいた。高校のときには単独で沢の滝に取り付いてたってのにネ。
この年、そんなワタシに、なんというか「ビッグバン」が起こる。今回は、そこに至る道のりをご紹介します。

ワタシが現役時代の岩登りといえば、それは「本チャンの登攀」を指す。本チャンとは今でいう「アルパイン・クライミング」。誰でも知ってそうなクラシック・ルートで言えば、北岳バットレス第4尾根とか谷川岳一ノ倉沢南稜とかですね。どっかのブログで「アルパイン=エイド(人工登攀)」なーんて書いてるヤツがいたけれど、それはとんだ思い違いで、本チャンとは「人工登攀」系と「自由登攀」系という2系統があったワケ。

当時の岩登りがどんな装備で行われていたか、昨秋、ドンズバの動画を発見しました。1973年制作、研修用教材と思しき映画。基礎編と応用編で、3話ずつ計6篇が「うp」されています。なんたってワタシの愛読書「なんで山登るねん」の著者、高田直樹氏(黒メガネ、あごひげ)がモデルってのがイカス。
当時は燦然と輝くザックの雲上ブランド「ミレー」の「グランドジョラス」(だっけ?)を背負ってる。ザイルの結びかたとか、懐かしいな。ブーリン(今でも自分の胴で即結べる。カラダで覚えているらしい)、エバンス、8の字、プルージック…。応用編では装備群の中にカムナッツが見えて驚かされるが、だいたいウェアといい装備群といいワタシの時代と同じようなムード。いやしかし、まったく懐かしい気分にさせてもらえる作品ですナ。

さて、本チャンを攀(のぼ)るためのトレーニングの場を「ゲレンデ」と呼んでいた。首都圏近郊にいくつかある天然の小さい岩場で、ソコで先輩たちに基礎から学んで修練を積んで、そうして一ノ倉とか穂高などでの本チャン・デビューを目指す。
いまなら首都圏にいくつもあるという「クライミング・ジム」に通って、それこそ毎日でも取り付いて動作に慣れ、高度感に馴染み、テクとパワーを磨くコトはできるだろう。その整ったインフラはものすごく羨ましい。何しろ昔はゲレンデまで出かけるのにも労力がかかったからね。

その当時、岩登りをする目標ってのが、より難しい本チャン・ルートを攀ること「のみ」にあった最後の時代、とは以前にも述べた。あとで触れますが、1980年1月発行のクライミング専門誌「岩と雪」72号に載ったジョン・バーカーの「信じられん」ボルダリングの連続写真と、それを撮影した戸田直樹氏らによるヨセミテ取材記事が日本のクライミング界に衝撃を与え、それ以後、ビシバシと自己変革が始まっていった。
そういう先鋭の流れに乗りたいクライマーは、大学山岳部などよりも社会人山岳会の門を叩くべきだったろう。限界を追求したい、自分の名前をルートに刻みたい、そんな情熱家にとってはだ。

ワタシには、しかしそんな上昇志向なんかマッタク無かったけどネ。大学のブカツなんか「コンサバ」もイイところだもんね。「体育会」所属の組織のクセして、コンペティションという行為が無い、自己研鑽のための活動ってのは、いま思い返すと特異な存在でしょうね。
ただし今から30年前の当時も、そのまた20年前でも、大学山岳部というのはルーティン的な活動で、記録に乗るようなな先鋭的山行はできない、しないってのが事実だった(ごく一部を除いて)。
わが部も、メイン・イベントが3月に行う長期縦走合宿で、その1年間の山行は、本チャン・ルートの登攀も含めて全てが、その春合宿のためのトレーニング山行と位置づけていたのだ。
大学生としての登山活動は、たかだか3年間ちょっとだから、その中でオールラウンドな登山を目指せば、それは「広く浅く」という内容になる。部員の育成も重要ですしね。
とくに他の体育会団体と異なるのは、山岳部という組織はそのリスキーな活動内容から「遭難対策」という側面を欠かせない点で、そこは社会人であるOB会のネットワークにハゲしく依存していたのだ。万一の場合の人材面でも、また資金面でも、先輩諸氏の好意に依存して合宿や個人山行をしていたのは事実で、それゆえに「コンサバ」な山行となるワケです。

P1010029.jpg

【バットレスと幽ノ沢】
おっと。ウザいハナシがまた長引いちまった(w では、楽しそうなネタを投入しましょう。
このGW、谷川岳での新歓・雪訓合宿を終えてから、個人山行が活発化していった。5月から6月にかけて、谷川岳幽ノ沢での本チャンを2本と、北岳バットレスを攀ったのだが、その前後にも、裏丹沢のエビラ沢とか、日和田岩、つづら岩での岩訓練を行っている。なんか、晴れていれば毎週でも出かけていたんじゃないか、そんなイキオイです。2年次のワタシの入山日は、ちょうど100日を数えた。

ロック 北岳1

ひとつ上の古ぼけたモノクロ写真は、いささか時代が前後しますが、1977年7月、南ア・鳳凰三山。高3当時のボクがフレッシュでしょう(w 今ではリッパなタレ目だが、当時はキツネ目だったのです。加齢ってのはザンコクだ。さておき、「背景」に注目していただきたい。大樺沢の上に凛々しく展開する岩壁が、「北岳バットレス」。その左側に弓なりに長く伸びる岩稜が「第4尾根」だ。

北岳 2

ワタシはこのルートを、6月初旬にK先輩と攀った。この日は快晴だった。そのまま縦走に出て、両俣小屋を経て仙丈ケ岳へ登り、伊那へ下ったと記憶する。ルート図に「マッチ箱のコル」というポイントがあり、この翌年に地震で崩落してしまうピナクルが、このときはキチンとあった。
すべてセカンドだったが、今でも覚えているのが、マッチ箱から先の「Ⅳ」のフェース。ワタシの足元はゴローの重登山靴だったが、つま先の小さいホールドがツルッと外れ、アレレという間に両手指も支えきれず、およそ50cmくらい落ちてザイルにブラ下がったワケ。ケアレス・ミスだ。「あー、ハズカシー」ってな軽いムードで、その後はフツーに攀りきってビレイ点に着いたら、先輩が「お前、さっき落ちたろ?」。「う…。バレてましたか」、そう嘯(うそぶ)いたら、「あったりまえだ、バーロー」とお見通し。えらく怒られた。いやしかし、本チャンの登攀では絶対に落ちてはいけない、そうキモに銘じた一件だった。

ロック 谷川挿図

このバットレスをやる直前、5月下旬には谷川岳・幽ノ沢の「左俣中央ルンゼ」を攀っている。幽ノ沢はこの動画で旧道の出合から見上げたシーンが美しい。目標ルートは滝になっているルンゼのすぐ右の凹状ですが、この岩場に取り付くには雪渓で埋まった入梅前のほうがアプローチがラクですナ。

谷川岳・東面

そういえば、谷川岳の岩場で「一ノ倉」のみに偏っていないのがワシらのエライところだ(w というのも、ワタシの身元がアレになるからナニしますが、このあたりの「岩」をヤルのに最適なBC(ベースキャンプ、非営業の山小屋)を母校は持っていたワケです。ソコから出撃して堅炭尾根などを下って戻ってくるから、良好な行動拠点を持つメリットがあった。

ロック 左俣ルンゼ

さて、ルートは先輩2名に連れられてオールサードで攀っているのだが、今ではほとんど記憶がない(「コレが小ハングの乗ッ越しってヤツか」くらいで「Ⅴ-」のピッチはトンと覚えていないから、楽勝だったんだろう)が、こんなルートとのこと。
お天気がどうだったかも覚えていないが、コレが前年8月の剱・八ツ峰以来となる「本チャン」となった。豪雪に磨かれた幽ノ沢の岩場ならではの白く輝くありさまを、記事の写真たちで懐かしくちょっとだけ思い出しました。

ロック V字

6月下旬には、同じく幽ノ沢の「V字状岩壁・右ルート」を攀っている。梅雨の中休み、だったのだろうか。たいしたグレードではなく、やはりルートの記憶は残っていない。ところで、この参照サイトの上から2番目の画像が秀逸です。あらためて幽ノ沢の全容が見てとれるステキな写真だ。

このルートの思い出、じつは別にある。同じ「V字」の難しいほう、左ルートをやったパーティの悲劇だ。社会人になってから北海道のキャンプ・ツーリングを一緒に行った同期の「S」のコトなのだが、セカンドで確保中にトップが墜落。ハーケンを飛ばしつつ10㍍以上も落ちたのを「肩がらみ」ビレイで止めたのは見事なのだが、彼の背中はシャツを着ていても流れたザイルで皮膚が焼け、背中一面「袈裟懸け」状のケロイドが残るキズを負ったのだ。その晩、BCに戻って痛さにモンゼツしている彼に向かってつぶやいた、落ちた某センパイのヒトコトが伝説的だ。「傷口にキンカンを塗ってやろう」(w

P1000968.jpg

【岩の殿堂へ】
次の岩登りは、北ア・北穂高岳の「滝谷」。縦走合宿の打ち上げ後、そのまま岩の殿堂に定着して、数日間を遊ぶという準合宿のような山行だった。このころになるとワタシも岩に馴染んだというか、自信がついて恐怖感が拭えたというか、ヤル気が充満していた。とはいえ、未だ修行的な「ザイルのセカンド」時代が続いている。それでアセリを覚えるなんてコトは無かったけれど。

ところで、その第1次夏合宿の北ア・南下コースの縦走ってヤツが、いま振り返ると結構すごい。ちなみに、こんなのだ。黒四ダムからハシゴ段乗越経由で入山、剱をピストンして立山から薬師岳へとひたすら南下、太郎平から赤木沢をワンデイで遡行し、黒部五郎から鷲羽岳経由で雲の平に入って休養。続いて竹村新道を湯俣へ下り、北鎌尾根を登り返して槍から北穂で涸沢入り。休養後、ザイテンから奥穂に登って西穂経由で上高地に下山。
これで夜行11泊12日、そのうち2日が休養日というスピードだもんな。しかしまあ、4~5人用のエスパース1張りに5人で暮らした真夏の苦行、ではあった(w
その合宿をいったん解散させて、新たな参加者も含めて7名で、そのまま涸沢経由で北穂の幕営地に舞い戻ったワケ。むーん。充実している。縦走時は雨の日が多くて天を呪ったものだが、滝谷では微笑んでくれたようだ。

P1030549.jpg

記録によるとワタシは4日間で5本を攀っている。このときは入門的なグレードのルートばかりだが、やはり大正時代の昔から燦然と輝くアルピニズムを育んできた殿堂ですからね、荒涼とした光景の中に凛々しさを覚えたワタシ。ココで逝った先達が、はたして何百名いるのか詳しく知りたくはナイが(汁

【追記:2010年7月10日】
「滝谷」岩壁群のすばらしい画像を見つけたので、引用させていただきます。元ネタは、「ヤマレコ」のこちらの記事。うーむ。大キレット周辺の正しい光景とは、このように見えていたんですね(汁

takitani2.jpg

この画像の解説を少々。カメラは真南を向いている。手前は南岳の小屋で、「大キレット」越しにテラテラと赤く映えているのが「鳥も止まらぬ」滝谷の岩場。左端は「前穂」のピークと北尾根で、その右にある広い山頂が「北穂」。右側の南峰で、3,106㍍。ピーク左端に「北穂高小屋」も見えているが、ココでは分かりづらい。そして滝谷の奥にある広いピークが「奥穂」で、右端に「ジャンダルム」。

この画像は昨年9月の撮影とのことで、滝谷の主だった本チャン・ルートも良く見えている。この合宿時に攀ったルートを示すと、北穂南峰から右下に明瞭な45度角でスイーッと落ちるのが、「第2尾根主稜」なのだが、その上から3分の1あたりが「P2」(2番目のピーク)で、こちらに四角く腹を晒している日陰の尾根側壁が「P2フランケ」ってワケだ。
ところが「P2フランケ」は、1998年夏の大地震によって丸ごと崩落してしまい、それから10年を経たこの撮影時でも、むき出しの白っぽい壁の様子が見て取れる。
第2尾根の向こう側に、これは分かりやすい「滝谷ドーム」。なんとなくヨセモテの「エル・キャピタン」に似てないか? ドームで影になっている部分が「北壁」。右半分の「西壁」の右端のエッジ・ラインが「ドーム中央稜」。そしてドーム奥側から右下まで落ちているのが「第3尾根」。ちなみに陽の当っている部分の最も奥が「第4尾根」だ。
(追記ここまで)

ドーム北壁写真

8月3日。最初はアプローチがラクで短いルート、ドーム北壁の左ルートへ。3名パーティだが、トップがセカンド2名を同時に確保する登りかた(なんて名前だったか、忘れたw)だったかも。ちなみに壁の画像は「穂高岳の岩場」(山と渓谷社・1979年発行・絶版)より。写真ではおっかない印象を与えるが、ルート内容は単調だった、ような。

3尾根写真

8月4日。第3尾根へ。ガレキを敷き詰めたような急峻なルンゼ「C沢左俣」をガシガシ下っていくアプローチの方が印象に残るな。
このときの足元は、北穂のサイトでくつろぐバッチイ(もう3週間くらいフロに入ってないハズw)けれど引き締まった(このころは、通常なら61kgくらい。こんな長期の合宿で58まで減った!などと喜んでいたワタシ、つまりスリムだったワケじゃん)ワタシの写真で分かる。ニッピンの皮製登山靴だ。ゴローは冬の登山用に温存するコトにしたのだった。
ガラガラの滝谷でのアプローチに重登山靴は適している。コレがフツーの岩登りのカッコという時代の、最後のころですね、そういえば。たしかこの年に社名変更した「アシックス」がリリースした登山用スニーカー「ガントレ」(トレラン用シューズの元祖みたいなモンだ)ってのが一部でブームになったものだが、しかし荒れ果てたこのエリアにあっては1日で穴が開きそう、そんなムードです。


3尾根トポ

初登が1931年8月という滝谷でもっともクラシックな尾根ルートは、ガスってなければ眺めがバツグンだ。この記事最初の画像、青いゴアテックス・ジャケットがマブい登攀中の写真は、この「3尾根」の上部で撮られたモノ。今となっては思い出せないけれど、こんなショート・ルート1本で登攀を打ち止めするとは、昼前あたりから雨でも降り始めたのかも。

ところで、いきなり思い出したコトがある。途中参加のOBの差し入れのブツについて、です。
合宿中の小屋での買い喰いは厳禁で、実直にそれを守って(ま、そんな小遣いも持ってないしw)半月ちかいワシらに、その差し入れは燦然と輝いていた。ナニかというと、「QBB」のチーズだ。業務用っつーんですかネ、長さ25cmくらいの一本棒。それまでのメシが粗末もイイとこだったから、チーズのあの味が美味くてたまらぬ。たしかワシひとりで5cm分くらい、バクバクいただいてしまった。当時の合宿でのメシは、ある意味で極限状況と言って良いシロモノだったからなあ(汁

P2フランケ写真

8月5日。第2尾根「P2フランケ」の易しいほう、「芝工大」ルートへ。フランケとは側壁という意味。記憶がオボロなのだが、たしかこの登攀の途中でトップがコブシ大の「ラク」を出したのだ。見上げていたワタシがアタマを丸めた後ろを「ブンッ」と落ちていった。オッカネー。

P2トポ

ところで、この壁の記事をネットで検索してもナゼか昔のネタしか見つからない。そういえば、10数年前の地震によって登攀禁止となったルートがいくつかあると何かで読んだコトを思い出した。そこでググったら、この記事を見つけた。そうか。ゴッソリと崩れ去ったワケか。なんか切ないね。

実際、ワシらが攀っていた30年前でさえ滝谷の岩はグズグズな部分が多かった。老年期に入った地質(岩と砂だけど)とでも言うんでしょうか、危険なほどに腐っていたのだ。この翌年の夏のコトだが、どのルートだったか、ホールドはいちいち叩いて引っぱって確かめながら攀っていたのだが、OKと判断したホールドに荷重したら周辺ごとひとかかえ(50㍑のザック大)もスッポ抜けて、轟音とともに落ちていったという茫然体験がある。そんなのが下にいるヤツに当たってしまったらと考えると気が気じゃない。人為的な「ラク」は、食らうのも出すのもイヤだからね。
昨年の夏、28年ぶりにこの北穂の幕営地で張ったワタシはクライマーたちがいないことをフシギがったもんだが、今ようやく納得できた。
「ヤマケイ」誌の2008年7月号に大キレット縦走の紹介記事があり、その中にヒントが書いてあった。少し引用します。「忘れもしない98年8月16日未明、群発地震でも最大の震度6といわれた地震が発生。その日の午後、この稜線に行ってみると、まるで将棋倒しの駒を積み上げたように浮き石だらけで、とてもではないが登る気にならない」。

ドーム北壁トポ

8月6日、この日は2本やっている。まずはドーム北壁・右ルート。左よりはキモチ難しい。快適にフォローしたような記憶が、うっすら残る。

中央稜トポ

この夏最後のルートは、ドーム中央稜。グレードからすると最も難しいというコトになる。Ⅳのピッチが連発だからね。この動画(後半)を見ると、なかなか攀りごたえがあり楽しそう。む。やっぱり覚えてないッス(w

さて、「滝谷の日々」を終えたワタシは、けっこう岩登りに対する自信をつけたと思う。怖いよりも面白い、楽しいという感情が勝ったというワケだ。ラード的モチベーションの「ビッグバン」が起こるのは、この直後、10月の「一ノ倉沢・南稜」を攀ってから。そしてその燃料になったのが、この年5月に買って耽読していた「初登攀行」の文庫本。それらは次項で述べていきましょう。

元「山ヤ」の体験談CM:5
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コメント

うわ、この本なつかしい、まだ持っているんですか?たしか黄色の表紙だった気が?

 その夏合宿の行程すごいですね~、さすが大学山岳部。僕は社会人山岳会だったので合宿も1週間でした。
 滝谷はたしかに「こんなところ登っていたのか!」って感じですね。山に復帰して滝谷を見た時「なんだここは?」って思いましたよ。バットレスのマッチ箱のコルが崩れたのにもビックリしたし。

 そ~言えば、あのジョンバーカーって昨年墜落死したんですね、つい最近知りました。たしかにあの8ミリはビックリしたからなぁ。

 
IK #-|2010/02/13(土) 07:58 [ 編集 ]

>IKさん
黄色のガイドブック、持ってるんですよ~。捨てられなかった(w

出だしの「ブカツ」論は、IKさんたちを想定して書きました。山岳部員も山岳会員も、それぞれの「強み」を発揮した面白い山行ができたと今では思います。
現役のころ、ワンゲルの連中に敵対心を持ったものですが、近ごろではワシが、ワンゲルチックなマインドですからね(w

で、ジョン・バーカーのネタを次項で書きます。2年前、悠久堂で「岩と雪」72号をゲット済み。いつかあのボルダリングをネタにしようと温め続けてました(w
そうしたら、たまたま昨秋にもらった「ロクスノ」を見てたら、氏の追悼記事が。フリーソロ中に墜死した、という。「まだやってたのか!」と。
その記事中にアレの「8mm」のハナシが出てくる。身内で回覧していたとか。ワシは「やっぱ、動画があったのか」などと思いましたが、IKさんは「中の人」だったワケですね。うらやましい(w


ラード #-|2010/02/13(土) 14:53 [ 編集 ]

今回も読み応えとDLしがいが有りました。

素朴な疑問でアレなのですが、下る時って怖いと思うのですが下りの方がラクもヤバイのでしょうか?
ハーケンとかの道具ってどの程度回収出来る物なのでしょうかね?
(いや、何人で登るか?とか次第なんでしょうが…)
古美根 #NTJgKIh6|2010/02/14(日) 01:12 [ 編集 ]

たしかに登りながら「このホールド大丈夫かな?」ってたしかめながら登る岩場たくさんありますからね~。
 滝谷なんて登れなくなったり、ルートが変わった場所なんかありそうですよね。
 40年ぐらい前に起きた新潟地震のとき一ノ倉を登っていた人が、その時の体験記を何かで読んだことがあります。もちろん落ちたけどたまたまセカンドが登っていた時だったので助かったらしいです。その後の残地ハーケンが何ヶ所も緩んでいたらしいです。

 ジョンバーカーはたしかに「まだ登っていたのか~」しかもフリーソロでって感じですよね。
 日本でも数年前に松本龍男さんが谷川岳を登っていたし、たしか大内さんも最近登っていたし・・。
 スパっと止める人が多い中、ずっと現役で登っている人にはやっぱりがんばって欲しいですね。ただ事故らずに。
IK #-|2010/02/15(月) 10:22 [ 編集 ]

>IKさん
落石で死んじゃうとか大怪我しちゃうってのはマッピラですが、それも含めての「本チャン」ですもんね。
そういう外的な危険要素も含めて「冒険」は楽しかったです。過去形ですが(w

松本さんは、たしか還暦のころに、自身が拓いたコップの雲表ルートをフリーで再登したとか、むかし「岩と雪」で読んだような。
今でも「二子山」というエリアでフリーをやってるらしいですね。さすがのロック・レジェンドです。
ラード #-|2010/02/15(月) 15:52 [ 編集 ]
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