ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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ラード

Author:ラード
千葉県在住
バイクはXR250「Baja」
クルマはE46「325i Touring」
メインアームは「SIG552 SEALS」


林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
バックパッキングの世界を愛する。
風流なオッサンとなるべく
奥義を研究する日々(w

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ラード的山がたり ロック・デイズ(その3)

2010/02/25(木) 00:31:36

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【本チャン初リード】
この年、10月初旬、先輩M氏に誘われて谷川岳・一ノ倉沢でもっとも手ごろなルート「南稜」へ出かけた。ワタシを本チャンのトップで攀らせるためのトレーニング、だったハズです。まあ、調子は上向き、モチベーションもかなり高まっていたからグッド・タイミング。いや、むしろ時間が無い。この翌春にはワタシが主将を張らねばならんからだ。
なんか大それたハナシですが、理由はいたってシンプル。同期は実質ワタシのみ、だったからですネ(汁 それにしても「ワンゲル」なんか女子も含めて新入りが毎年ザックザクでうらやましい限りだが、わが部なんかヒトが集まらなくてタイヘンだったのだ。思い出したくもないネタですけど。

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このときが一ノ倉沢の奥へと分け入るワタシの初体験。本谷の雪渓がほぼ消える秋口は、テールリッジ経由のアプローチがメンドくさくなる。この日、南稜のルートで順番待ちをした記憶は無いな。

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南稜ってのは谷川岳でもっとも手ごろで面白い、すなわち首都圏在住「山ヤ」最初の1本とも言うべき「本チャン」ルートと、昔から知られている。近ごろは、さらにアルパインの名高いクラシック・ルートに昇格して、順番待ちがハゲしいらしい。
ちなみにこのルートの初登は、このときから遡っても半世紀ちかく昔、1933年の秋(「単独行」の加藤文太郎の活躍と同時期といえば、世相や装備が分かりやすいでしょう)、東北帝大のスーパークライマー・小川登喜男らだ。

冒頭の写真は、最終ピッチをリードしているワタシ。代わる代わるトップを担当する「つるべ式」で登攀し、このときはワタシがリードする番だ。記憶が正しければ、無雪期の岩を登山靴で攀る機会は、これが最後。短い中にも色どり豊かな内容のルートだが、やっぱり今では壁の様子を思い出せない。
まあその。それまでのザイルのセカンドなんか気楽で怖くもなかったが、かたやトップでリードするというコトは「落ちたらダメ」だから、それは緊張感がイヤ増す。もちろん、バカスカ打たれている残置ハーケンの利いてそうなヤツにランニングビレーをいくつか取っているが、それらに全幅の信頼など置けないもんね。
そんな奮闘をし、たどり着いた終了点で先輩M氏と握手した(したのだろう、きっと)ときなんか、脳内をアドレナリンがどっぷり渦巻いていたに違いない(w 「これは面白い!」。ついにワタシが岩に開眼したときだった。

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このときの写真を、もう1枚。おそらく終了点にて。背景の圧倒的なナメナメが「滝沢スラブ」の上半分で、もっとも長い左のヤツが第3スラブ、通称「3スラ」。美しい。ようやく初級ルートを初めてリードしたワタシですが、いつかコイツをやっつけてみたいと大それた野望を抱いた。そしてこのルートを初登攀したのが、松本龍雄。ワタシのヒーローなのだった。

じつは忘れられぬデキゴトがある。終了点から懸垂下降で取付きの南稜テラスに下って休憩でもしていたとき、だったか。エボシ奥壁のどれだかをやってきたらしい、どこかの大学山岳部パーティが話しかけてきた。「ドコやったんですか?」「南稜です」と先輩が答えたときの、彼らの表情について、だ。あからさまに「なーんだ」的なカオをしたんです。
むーん。そりゃまあ、しょせん南稜デビューのワシですけどね(汁 帰路、その先輩といろいろ話して「じゃ、お前、見返すようなルートを登れ」となった、そんな記憶がある。まあその。ワタシもその後、南稜というルートは下降のために使うだけになったけどね。
【追記:2010年3月】
すっかり忘れてた。下降ルートって南稜そのものではなかった。その隣りの「6ルンゼ右俣」が、アプザイレンの場所です。いやはや。

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【バイブルとの出合い】
「初登攀行」松本竜雄著(中公文庫、昭和54年9月・初版)。奥付に書いたメモを見ると、この年の5月末に買っている。今シーズン最初の本チャン、「幽ノ沢」をやった翌日のコトだった。
かつてこんな記事を書いたワタシだが、コレが人生で「もっとも影響を受けた本」に今でも変わりはない。パーマのロンゲをバッサリ切って髪型(慎太郎刈り、ですかね)まで真似たくらい、入れこんだ(w 氏は「目ぢから」がスゴイ。著作とか部室に転がっていた昔の雑誌の記事などを見ても、なんつーかもう、目がキラキラ。全盛時の超人っぷりといい、日本人には珍しいハンター系のヒトですね。
それにしても自分が生まれる前の出来事を描いた作品にこれほどハマるとは、なんてアナクロなワシじゃろか。げほごほ。

当時のワタシには決して読みやすい内容ではないハズだが、再読三読し、文庫本じゃ有り難味がないと、神保町「悠久堂」にて単行本(あかね書房・中古の初版)をゲット。それが数年後に置き引きでカバンごと盗まれるという失意を体験した後、高校時代の岳友「H」君が同じモノをプレゼントしてくれるなどという紆余曲折のエピソードまである。
ところで、有り難味といえばこの本が最強でしょう。うらやましい。「奥山章兄」と著者の関係が分かるヒトなら尚さらです。
さておき、文庫版では内容の一部が省略されている。それは氏の労働組合活動に関するネタで、最終章などは改めて読み直すと違和感を少し覚える。「60年安保」へと向かう、あの時代ならではの闘いではありますが、氏はその活動のために山から離れざるを得なかった様子。

ドコに惹かれたのかといえば、やはり著者の岩登りに向ける凄まじい情熱だ。著名な未踏の壁が日本にまだあったという幸せな時代に、鬼気迫る冒険をバシバシ行うパイオニアの実行力が、ヤングなワタシにビシッと刺さったのです。
これに先だって出版された氏の最初の著作「岩登りがうまくなる本」も、当然ながら初版の中古を持っているが、コチラでは岩登りをスポーツ的なフェアプレイで捉えようとしているところに氏の相当な先進性を見るコトができて、これまた唸ってしまう。

そして文章の良さも特筆もの。ルールに厳しい著者が日本で初めて「埋め込みボルト」を使うかどうか迷いに迷うあたりでは、その情景が面前にひろがるような男気あふれる内容にグッときた。
後にもご紹介するが、今では結構なプレミアムがついているらしい、谷川岳でのエポックな登攀クロニクルを集めた本「クライミング記録集・谷川岳」遠藤甲太編(白山書房、昭和57年7月初版・絶版)では、「初登攀行」をこのように評している。
「松本龍雄は戦後日本登山界が産んだ最も傑出したクライマーのひとりだ。足跡は、好著『初登攀行』にまとめられたが、ノンフィクション文学としても高い評価を受くべきものである」。

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先日、神保町の古書店「悠久堂」でゲットしてきた「岩と雪」75号(1980年5月発行)は、その文庫版を紹介した書評が載っている。

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平積みされた古雑誌の山からこの号を手にとってパラパラ見ていたとき、ワタシはすっかり忘れていた香り高きこの文章のことを電撃的に思い出したのだ。この号は手元に残っていないから、昔は誰かに見せてもらったのだろうか。とまれ、この書評のためだけに500円を投下して購入。この2枚の画像がその全文ですが、冷静な筆致のようで実は無茶苦茶ホットな評に即カブレて書店に走った30年前のワタシ。そして、この「初登攀行」のおかげで岩登りに対するモチベーションを徐々に上げるコトができたのです。

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【衝撃の連続写真】
「初登攀行」は個人的な啓示のハナシだが、同じころに、日本のクライマーのほぼ全員が思わず目をひん剥いた衝撃のネタが、コレでした。今は亡きクライミング専門誌「岩と雪」で、もっとも有名な72号。1980年1月の発行。後に「ミッドナイト・ライトニング」のルート名で知られる、ヨセミテでもっとも有名なボルダーの課題を攀るジョン・バーカー。

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日本のフリー・クライミングは、この「72号の衝撃」で実質的に始まった。戸田直樹、平田尚之氏によるヨセミテとコロラドでのクライミング体験レポートも印象的だが、やはりビジュアルは強烈。表紙を含めてこの連続写真にタマゲたのだ。
「V+」以上のピッチグレードが本チャンに存在しなかった当時の日本人には信じらんないムーブ、だけではない。登っている対象物が岩ではなく「石」だという事実と、「EB」というフラットソール・ブーツにジョギパン一丁というウエストコースト的なジョン・バーカーのカッコよさと氏の筋肉に驚いた。

今でもワタシはこの雑誌を初めて見たときの情景をクッキリと思いだせる。唐松岳ピストンと八方でのスキー、爺ケ岳東尾根から鹿島槍ピストンという正月をはさんだ10日ほどの山行を終え、久しぶりに部室に顔を出したとき、だったか。先輩M氏(南稜を一緒に攀ったヒトで、ワタシが1年坊主のときの主将)が大騒ぎしつつ持ちこんだ。「すげえよ、これ!」。
握力はナンボあるんじゃ、などと皆でワイワイ話しあったものだ。ところが、ワタシは今ひとつピンとこなかった。まあその。自分にはトンと無縁なイメージだったからでしょう。
以下の画像は、ジョン・バーカーのボルダリングについて記した平田氏のレポの核心で、画像3点組みでご紹介。

sunyside story-1

ミッドナイト・ライトニングのボルダリング、ありがたいコトに「ようつべ」にいくつも「うp」されている。コレとかコレとか。コレは新しいモノだな。そして、最新のこの動画は、すばらしい。別格のクオリティです。現在でも十二分に難しいグレードの課題とのことだが、今ならアクロバティックなその身のこなしについては馴染みがあるでしょう。ところがそのときのワシらにはアゼンとする他なく、「じつは猿なんじゃねーの」などとと毒づいたもんだ。

ちなみに、未だその名前を忘れられないクライマー、ジョン・バーカーは、昨年7月、フリーソロの最中に誰に見られるコトもなく墜死した。「岩と雪」の後継誌「ロック&スノー」で追悼特集をしていて、昨秋ようやく気づいたワタシですが、その間30年の功績とかを知らずにホザけば、その死にかたすら彼らしい、というか。
バーカーの「ようつべ」もいろいろあるが、コレとかコレが面白い。そのミッドナイト・ライトニングを「かるーく」こなすシーンも出てくる。

【追記:2010年3月】
このボルダー「ミッドナイト・ライトニング」にこだわり抜いたヒトの素晴らしいエッセイを見つけました。
文中にも出てくるジミ・ヘンドリックスの、ルート名の由来となった同題の曲がコレ。ジミが死ぬ半月前のギグ、1970年のワイト島ライブから、どうぞ。

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この取材をしたのは1979年の初夏のこと。戸田・平田両氏は、すでに「5.12」という異次元の高難度ルートを攀っていた米国のエース・クライマー、バーカーの芸術的なボルダリングを目撃したワケです。平田氏のこの記事、最後のあたりで「石登り」と「軽業」なんつーコトバを交えての感想が、彼らが「柔軟な視点」を持っていたにも係わらず出てしまうトコロに、バーカーが演じたエキジビジョンの衝撃度を読みとっていただきたい。

かたや戸田氏のレポートでは、現地のクライマーに「10年遅れている」と、面と向かって言われた日本の岩登りの現状を憂い、アジりまくった文章が頻発する。そしてこのアジテーションが、バーカーのボルダリング・シーンとセットになって日本のクライマーに革命をもたらした。
すなわち、「登れないからこそ目の色を変えて、自らを鍛えたくなる。そこにトレーニングの意義がある。よい水のあるところにうまい酒ができると同様に、ハード・ルートがあるところにすばらしいクライマーが誕生する」。「ピトンやボルトを平気で打ち足す登攀とは早くおさらばして、夏でさえ登れないハード・クライミングが生まれなければいけない時期だ」。

ワタシは伝統的な山岳部という枠組みの、そのまたビギナー・レベルという時点でこの超絶クライミングの写真を見たから、大方のクライマーが受けたカルチャー・ショックというものは無かったと言える。しかし、ボディ・ブローを打たれたように、ワタシにもゆっくりと芽生えてくる意識はあったようです。

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今回、このあたりのネタを書くにあたって、日本のフリークライミング20年史をブッチャケて綴った面白本、「我々はいかに『石』にかじりついてきたか」菊池敏之著(東京新聞出版局・2004年8月刊)をジックリ読み直した。著者はワタシと同年輩の元クライミング・バム。鷹取山で今で言うボルダリングを先史時代からやってきた筋金入りで、勃興から発展期を含めてフリーのムーブメントの中心を知る人物だ。現在は山岳ガイドとのこと。

そのクチの悪い「ニッポン・フリー小史」を参考にさせてもらうと、バーカー・ショックが80年代突入直後の1980年1月のコトで、その夏には、小川山という無名の「ヨセミテ」風岩峰群がニワカに脚光を浴びてビシバシとクラック・ルートが開拓されまくっていく。
なんたって、当時の憧れの地・ヨセミテの象徴的ルートってのは、ワタシでも名前を知ってるこんなヤツ。見るからに指がちぎれそうな天井クラックだ。ついでに、そのルートのフリーソロ。ジョン・バーカーが目指したクライミングの世界がコレなのだが、いやしかし(汁

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一方、バーカー・ショックを発信した当の戸田氏らは、一般クライマーに向けて「フリークライミング」の布教とも言うべき、分かりやすい実践を行った。つまり既存の「本チャン」人工ルートをフリー化していったワケだ。当時は「日本全国Ⅳ級A1」と言われた、誰でも同じように攀れちゃう本チャン・ルートばっかという「閉塞感」を、このデモンストレーションで解放する役割を演じたという。
また、「RCCⅡグレード改訂委員会」として全国各地のゲレンデを回り、新たな標準ルールを広め、またたく間に全国平定してベクトルを統一、そしてフリーの信者を獲得していったという。

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この画像2枚が、先に「初登攀行」でも紹介した「クライミング記録集・谷川岳」のラストを飾るクロニクルで、1980年5月、戸田氏による一ノ倉の人工ルート2本を初めてフリー化したときの画期的なレポートだ。ともかくルートを選ぶセンスがキャッチーだった。というのも「コップ状岩壁・雲表ルート」ってのが、日本で最初に埋め込みボルト(手製)を使って突破された、その後の長い「鉄の時代」を迎える先鞭を付けたルートだからです。それをフリーで軽く片づけちゃうってのがインパクト十分。もう1本の「滝沢下部ダイレクト」も、戦前からさまざまな因縁が盛りだくさんという垂壁のボルト・ラダーを、やはり自らの手足のみで下したところが画期的だったのだ。

じつはプチ面白い相関があるんです。このコップ雲表ルートがフリーで攀られたちょうどそのころ、ワタシは「初登攀行」の文庫化を知った。そしてこの「谷川岳」クロニクルの最終章「コップ、フリー化」に付された編者のコメント、その最後に「烏帽子奥壁に懸かる幻の大氷柱が登られた」とある。これは発刊時の最新ニュースで、一ノ倉登攀史における長年の懸案だった課題。その大氷柱ってのは「初登攀行」の文庫のモノクロ表紙にバッチリ見えている。そして第2登されるまで20年も間が空いたというエポック・メイキングなアイス・クライミングを行ったパーティのひとりが、「我々はいかにして…」のオチャラケな著者・菊池氏だったりするワケで。一ノ倉、そこにはディープな歴史がある。

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【あのころのゲレンデ・ガイド】
改めて思い返すと、ワタシのささやかなロック・デイズとは、この日本全国「ハードフリー」化というブームの中で、地味にクラシカルな登攀(それも、せいぜい中級レベルなw)ばっか、追い求めていたコトになる。とはいえ自己満足感は今でもあるんですけどネ。ワシらに限らず、その「ニュー・ウェイブ」に食いつかなかった、乗り遅れたというコンサバ・クライマーも多かったハズだと思うのだが、どうだろう。
ヤングさんにはワタシの語りクチに違和感を覚えるかも知れないが、ワタシにとってフリー・クライミングは「後から」出てきた流行で、その遊びが日本に根づいたころにはアシを洗っちまったから仕方ないんです。

まあその。自分がやってもいないフリーのハナシを一方的に進めるのもアレだから、ココで「ゲレンデ」について触れておこう。
首都圏クライマーのトレーニングの場「ゲレンデ」といえば、当時は、戦前から有名な「三ツ峠」のほか、奥多摩の「つづら岩」や「越沢バットレス」、秩父の「日和田岩」(上の写真)、丹沢の「広沢寺」あたりがラインナップ。ほかに三浦半島の石切場「鷹取山」というのが知られていた。

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都下の学園から比較的近く、いつも空いていたから最も足しげく通ったのが「つづら岩 」。今では五日市線のどの駅で降りたのかも忘れているけどサ(w 先日、関東岩場ガイドみたいな本を立ち読みしたら、もう忘れ去られた岩場みたい。それはそれで悲しいな。上記のサイトで「オケラルート」ってのがある。この珍しい穴ボコくぐりだけは思い出すコトができました(w
そこが混雑していたら、近所にある小規模な「天狗岩 」でトレーニングした。ロンゲにしていた最後のころの肩がらみ確保をしているワシの写真が、天狗だったかな。
いずれにせよ、エスパース・テントを背負って、岩の基部で前泊(宴会もw)しながらトレーニングするってのは、学生の特権ですナ。

「つづら」には恥ずかしい思い出も残る。それは1979年の初夏、ワタシが山岳部に入りたてで、最初の岩訓練でソコに拉致されたとき。「肩がらみ」での懸垂下降訓練のときにナゼかザイルが外れ(ナゼだろうw)、外れちゃったらフツーは墜落するワケだが、ヘタレのワシには確保用のトップロープがもう1本結ばれていたからコトなきを得た。しかし完全に動転したワシは、地べたに降ろすべくトップロープをズリズリゆるめるセンパイに、一方的にイノチを託しているのが心もとないっつーか信用ならんというかで、「ひええ。もっとゆっくりやってくださいっ」などと半ベソで叫んだら余計にラフにザイルを流されたりして、半狂乱(w その確保用ザイルをむやみに握りしめて握力がゼロになったりと、アホ丸だしの苦い「岩デビュー」だったんです。

「広沢寺」のスラブは電車とバスを使って1回行ったきり。そんなに面白い場所ではなかったなあ。それよりも、当時は都心の大学が郊外に移転するブームで、小田急線の駅からゲレンデに向かう乗り合いバスの行き先が「青山学院大学」だったってのが、よほど印象に残っている。

「つづら」の次に通ったゲレンデが「日和田岩」。ココはそのころ「女岩」のハングがフリーで突破され、独自フリー路線を突っ走っていた先端のゲレンデだ。「ヤマケイ」誌でも、日和田に集うクライミング・バムのハードフリーに打ち込む日常という手記が載ったくらい、ハジケていた時期となる。
もっともワシらは、そんなヒトたちを「うおー。スゲー」などとクチ開けて見上げていたワケですが、いま振り返ると、日和田だけが「黒船」的クライマーを見られるトレンディ・スポットなのだった。
ココもテントで前泊しながらが練習した(傾斜のゆるい、カンタンな男岩のほうネ)ものだが、いつもヒトが多すぎのザイルがスダレ状ってのがタマに傷。

【秘密の特訓場を発見する】
この年の夏前くらいのコトだったか。週3でトレーニングをしていたワシらだったが、ランニング・コースのひとつに小さな池を湛えた「S公園」ってのがある。ともかく「使えそうな石垣」を探して鵜の目鷹の目だったんです。あるときワタシが「もしかして」とこの池の放水路とでもいう場所に降り立ったら、じつにナイスな「ゲレンデ」ってコトが判明。
人工の一片30㌢くらいの石垣をダイヤモンド状に貼りつめた、ドコにでもありそうな高さ2㍍ちょっとの涸れた用水路の両側面、その長さ(横幅)は10㍍くらいあっただろうか。もともと腕力はヒトより劣っていたワタシは、全盛時(体重60kg)で懸垂(もちろん両手なw)が12~3回くらいしかできなかった。
高グレードのピッチを攀るには、早いハナシがフィンガー・パワーの鍛錬が必須で、日常的にソレを鍛えられる場所としてココはうってつけに思えたワケ。この石垣の造形ってのが、たまたまトラバースの訓練にピッタリな小さいエッジの立ったホールドを拾えるもの。
◆ようやく、同じムードの石垣の画像を見つけた。あのその。背景がメインなんだからネ(w 
ジョギングシューズで両足はスメアリングか親指のハラで5mmのエッジング、左手指2本が第1関節(腕がプルプルしてやがるw)で右の遠く高い小さなホールドへ伸びあがってつかむ、なんてのをやったら、最初はわずか半周で腕が上がってしまったもんだ。

皆で書きつけていた「部誌」に大発見!とか書いたもんだが、ある先輩からは岩登りにマストな高度感がマッタク無いってのはどうかと反論が書かれたり。でもサ、それは当時にあって無いモノねだりだ。ある意味、恐怖感を覚えずにムーブだけ集中して訓練できるのが強みじゃんか、などとアカデミックにヘリクツをコネたりしたっけな(w

この1年後くらいに、日銀本店の近くにある「常盤橋公園」という江戸城遺構の立派な石垣がある場所でフリーのトレーニングを行うのがブームになったコトがある。ソコはワタシも何回かチャレンジしたもんだが、まあ、てんで小粒ながら似たようなヤツが近所にあるコトが嬉しい。慣れてきたら、落ちずに3周できたりした。トレーニングの成果が目に見えると励みになるもんね。

特訓場所について、もうひとくさり。部室の真ん前にケヤキの大木があって、ソコに先輩たちの労作「直登ルート」ってのがあった。いやその。ハーケンとロックハンマーでホールドを切ってあっただけだが(w 5㍍分はあったかも。しかしその間隔がけっこう遠く、また樹皮が盛りあがって丸まっちくなった第1関節3本がけのホールドでは、当初のワタシでは歯が立たなかったもんだ。あるとき某センパイがチャレンジ中、たまたま通りかかった学生課の職員に見つかって大目玉。それから登攀禁止の憂き目をみた(汁
他に、プレハブ長屋の部室の中で、むき出しになっている天井部分の鉄骨の梁にハーケンが4本ほど等間隔に打ちこんであった。ガッチリ効いてる。それをアブミの架けかえ、つまり「A2」の人工で渡るという荒っぽい遊び。狭い部室のテーブルの真上でソレをやられると迫力はあるがケトばされそうでオッカネー、そんなシロモノ。ああ。古き良き時代よ(w

【富国強兵の時代】
さて、そういう遊びや合宿や沢や岩をやっているワタシの山歴とまるで併走するように、フリークライミング(ごく初期には「ハードフリー」と言われていた)は猛烈なイキオイで発展していった。
たとえば、ジョン・バーカーのボルダリングを戸田氏らが見せつけられたのは、ワタシが山岳部に入部した直後のころで、それが「イワユキ」に載ってビックリさせられたのが、80年代を迎えた直後。
その年の夏には「小川山」「ミズガキ山」のクラック・ルートがビシバシ開拓され、グレード・アップもウナギのぼり。81年になると、伊豆東岸の「城ケ崎」という広大な岸壁エリアが発見、開拓され、今も続く人気の場所となっていく。
このあたり、諸外国に遅れをとっているのを取り戻そうと、勤勉な日本人が明治維新を経て富国強兵に走りまくったのとマッタク同じ構図だったりするワケだが、ワタシの関知していたのは、せいぜいこの「勃興期」まで。

この後、前述した「我々はいかにして『石』にかじりついてきたか」から引き続いて引用しますと、フリーの大きな流れは、ヨセミテかぶれのクラック登攀からヨーロッパ風前傾壁へとトレンドが変わり、高難度化とスポーツ化がさらに進行し、今世紀あたりになるとクライミングジムが林立して、インドア・コンペの隆盛と相まって「外岩」(なんつーコトバじゃw)に出かけるのはボルダーのみ、といった極端とも言えるセグメント・スポーツになっているとのこと。

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【ラード的ビッグバン】
そんな年の11月下旬、首都圏でもっとも遠くてもっともデカいゲレンデ「三ツ峠」を初めて訪ねた。ニューウェイブとは無縁と言いながらも、ともかくステップアップしなきゃという、アセリにも似たキモチを持っていたのだ。
この写真は「峠の岩」で異端的に有名な、トップロープで「Ⅴ+」のクラシックな課題「大根おろし」を攀るワタシ。このときから、こんなカッコに変身しているワケですが、これもフリー化の影響といってイイかと(w

大根おろし」は、それ以前の時代に重登山靴で攀るもっとも難しいグレードと言われていた。ワタシは「S公園」をジョギングシューズでトレーニングして実力を上げていたから、ゲレンデや本チャンも慣れ親しんだソイツで攀ろうとしたんですね。ところで、ジョギングシューズ(これ、そのころ一般化した「Popeye」語だったような)なんてカッコつけた呼びかたをしているが、じつはスーパーのワゴンセールで千円くらいのペラペラのノーブランド(w ただしグリップしそうなゴムソールを持つモノを、じっくりと選んでいた。
ともかく輸入されているフラットソール・シューズが「EB」しか無い時代で、そんな高価いのなんか要らんと、その後ほとんどの無雪期の岩はジョギングシューズで登攀したワシ。本チャンで「V+」のリードまではビビることなく攀れたもんだ。習うより慣れろ、ですナ。

【追記:2010年3月30日】
運動靴でクライミングするヒトなんか二度と現れないだろうから、少し追記しておこう。
当時、ジョギングシューズという呼び名が「ナウい」ものだったのは、一般ピープルにとっては確かなハナシ。そして「スニーカー」もナウかった。1979年の夏に流行った名曲「虹とスニーカーの頃」を思い出せ(w では、それまで何と呼んでいたのかと記憶をたどっても、イマイチ思いだせません。運動靴、だったかな。ワシの母は「ズック」と呼んでいたが、さすがに昔のその流行語はダサくなっていたのも確かだ。

そのころ全盛を迎えていた「平凡出版」のメンズ・ライフスタイル誌「Popeye」では、ウエストコーストの世界観を強烈に発信し続けていて、それまで高級スポーツシューズといえば「アディダス」が代名詞だった日本に、新興ブランド「ナイキ」を周知させたものだった。ブームを牽引したのはジョン・マッケンローだったと思うけれど。何しろ当時はテニスをやっていないとナウくなかったからな(w 「山ヤ」なんざ、どんだけ学園内で肩身が狭かったコトか(汁

ところでジョギシューのワイズは「D」くらいのモノしかなく、典型的バンビロ足型のワシがジャストサイズを履いていると両側の小指あたりのナイロン地が徐々に破けてきたもんだ。それでも1㌢程度のフットホールドなら親指のハラで余裕で立ちこめるくらい熟練したのだが、ワタシが履いたことのない現在のクライミング・シューズよりは、絶対に攀りにくいモノだったハズ。
後に登場する新人の「O」は、フザケたことにナイキのナイロン「コルテッツ」なんつー高級品で本チャンをやっていた。アナが開いたらもったいねーッス。「このプチブルめが」などとイヤミをカマしたもんだが、ちなみに今でもそのころに刷り込まれたブランド観は強固で、コルテッツはフツーに愛用しているワタシです。(追記ここまで)

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ハーネスも替えた。南稜まで使った重たい全身用「ICI森田モデル」を、「トロール」のスワミベルトに12mmくらいのテープをレッグループに組みこんだ半分手製のモノにしたんです。コイツを巻いていて落ちたコトは無かったが、しかし強度は十分だったのか、いま考えるとオッカネー(汁
この写真は、たしか「地蔵左」ルートといい「Ⅳ」だったかな。このときもテント泊だったハズだが、主に岩場の右側のショートルートをアレコレとトレースして、大いに自信をつけた。

そのイキオイを駆って、12月の初頭だったか、奥多摩の「越沢バットレス」へ出かけた。ココはマルチピッチの難しいゲレンデで知られていた。そしてついにワタシは「Ⅴ」のリードを攀れたのだった。何というか、自分の臆病な「シバリ」を解放できたような、強い高揚感を覚えたもんでした。これがワタシの「ビッグバン」。
しかしモンダイは、これから半年近く無雪期の岩登りをできなくなるスケジュールだってこと。やっと楽しめるようになったのにと、なんか切なさを覚えたもんだ。岩登りとは本チャンの登攀だったから。そしてこの3週間後、ワシらは「ゴーロク豪雪」の八方尾根を、ヒイヒイ言いつつラッセルしていたワケでしてね。

ワタシは、主将として部をまとめたこの翌年度にアレだけ岩登りを集中的にやろうとは、この時点では思ってもいなかったんです。まあ、部員構成の流れで、そうなった。
この同時進行的な「フリークライミング」勃興期と併走して感じたことは、まず、クラック登攀とかは指が痛そうでイヤだった。当時のフリーとはクラック・ルートを差したからね。また、腕力イノチの人工ルートはパスしたかったワタシなんだから、より力量が丸見えのフリーには興味が向かないしサ。
それから、フリー・クライミングだけに熱中するのはムリだなと、ハナからあきらめていたコトも事実です。ほら、オールラウンドの登山を標榜するから、「同好会」みたいな浮き草的ブカツ、ソレをしたくてもできなかった。
しかし、何より正統的に自分の登山を組みあげたかったという思いが強くあって、そんな中から、来年はトラディショナルなフリーを主体とする超ロング・ルート「一ノ倉・3スラ」を目標にしてやれ、そう考えたワタシだった。


◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:6
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コメント

  うわ、その表紙なつかしい、まさに「岩と雪」で一番衝撃的な1冊でした。この1冊そしてこれが出た後に見た8ミリ上映会はまさに頭をガーンと殴られたような感じでした。
 その1冊が当時「最後はヒマラヤ8,000m」と言う目標が1つしかなかった日本の登山界に、フリークライミングとかアルパインスタイルとかいろいろな方向性を示したと言っても過言じゃない気がします。
 その本はまた見てみたいですね~。

 常盤橋にはほぼ毎日のように行ってましたよ、世田谷に大学があったのですが定期券を神田経由にして通ってました。(笑)
 
IK #-|2010/02/26(金) 05:26 [ 編集 ]

>IKさん

日本登山界のルネッサンス(ホントーの意味で)、でしたよね。
あれだけ革命の波を起こした戸田さん、「春うらら」開拓の後はトンと名前を聞かないけど、なにしてるんでしょうかネ。

コップの後、筑波山のボルダーを仲間たちとワイワイ開拓したときの、氏のオモシロ記事を今も覚えています。
いわく、「某氏が大岩にビシッと伸びた1本のきれいなクラックを前に見とれている」「氏がやおら独白を始めた」「わ、わたしは一条さゆりが大好きでして…」「某氏のマカフシギな精神構造に敬意を表して、ソレをさゆりクラックと命名した」とかナントカ(w

この「72号」は、2年前の春に悠久堂でゲットしたんですよ。
アソコは「イワユキ」を床にドッサリと平積みしてるから、「72号、あるかなー?」などと軽いキモチでチェックしたら、あった。
保存状態も良好の500円也、きっとワタシに買われるのを、じーっと待っていたんでしょう(w

ほかに、82年の池田氏による「衝立岩・フリー化!」の「イワユキ」もゲット済み。次々篇で触れると思うので、お楽しみに。
ラード #-|2010/02/26(金) 11:26 [ 編集 ]

高校時代、日和田の女岩、ほんとうによく通いました!あとは・・・中野哲学堂の石垣。

で、ガリビエールの重たいメットと、もちろんトロールのウィランス!これは今でも記念にとってありますw
ユウ #2DdjN05.|2010/04/02(金) 11:00 [ 編集 ]

>ユウさん
そりゃあ同世代のヒトだから、おんなじコトをしてますわね(w 理想の石垣探索を、ですね。

こないだ、オバンのアイドル・岩崎爺の新書を立ち読みしてたら、岩崎爺って昭和山岳会で、ヒワダがホームゲレンデだったんですって。
まあその。あのヒトも昔は先鋭&岳界の論客だったワケですが。
ラード #-|2010/04/02(金) 13:12 [ 編集 ]

岩崎さん、数年前に槍沢付近でおばさん引率して休憩している姿、見ましたw

日和田がホームだったんですか!
知りませんでした。
ユウ #2DdjN05.|2010/04/02(金) 13:24 [ 編集 ]

>ユウさん
ちょっと今では想像つかないですよね(w

この記事で引用している「我々はいかに石にかじりついてきたか」という本に出てくるんですが、岩崎爺は、本邦初となる小川山の「Ⅵ級プラス」のフリー・ルートを開拓するにあたり、有意義なアドバイス含めて影響を示した、らしいッス。

最近では、田部井婆のほうがイケイケですけど(w
ラード #-|2010/04/02(金) 13:41 [ 編集 ]
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