ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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ラード的山がたり ロック・デイズ(その5)

2010/03/07(日) 23:25:04

P1030642.jpg

【穂高の18日】
「第2次夏合宿」は、穂高岳の3大岩場「滝谷」「奥又白」「屏風岩」の面白そうなルートを根こそぎ攀ってやろうという企画で、7月23日の夜行列車でデッパツ、帰宅が8月10日というロングな日程。メンバーは新人の「O」と、年上だけど部歴は2年生扱いの「S」氏という、わずか3名。ただし途中のみ参加のOBと顧問の先生が、単調な日々に彩り(差し入れがコレまた美味いんだよね)を加えてくれました。
この本は、登攀ルートの全容などの画像を引用させてもらった、豊富な写真解説によるルート・ガイドブック「穂高岳の岩場」(武藤昭著・山と渓谷社刊・1979年3月初版・絶版)だ。合宿前にはコレを穴の開くほど読みこんで、ココロ踊らせたもんでした。終わったら終わったで、苦労しながら攀ったルートを思い返してジコマンにふけったり(w

すでに山も夏模様。日程の長さは食糧の重さに直結し、初日、涸沢までは40kgのザックに苦しめられたもんだ。
ああ。もうザックがパンパンです!ってゆってるのに、新宿駅に見送りに来てくれた方々がニコニコしながら「気をつけてな。じゃ、コレ持ってけw」と、スイカやらマンゴーやらを持たしてくれて(汁

P1020779.jpg

7月25日、まずはアイサツがわりに前穂の北尾根へ。涸沢を取り囲むゴジラの背中チックな岩稜ですナ。「穂高」は日本アルピニズムの発祥の地で、このルートも黎明期におけるブリリアントな歴史を放つ。初登攀争いの末に慶大がトレースしたのは、なんと大正13年の夏とのことだ。

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ワシらのタイムを記そう。(4:35)発(7:05)5・6のコル(10:50)前穂(12:50)奥穂(14:20)サイト着。このときも「ゴーロク」の残雪が異常に多く、また硬くて「5・6のコル」まではキックステップさえ利かない苦しい登行。近ごろはちょっととした雪渓でも軽アイゼンを付けるという風潮ですが、当時はこんな場面はピッケル1本。アイゼンを持っていこうモンなら「イモ!」とバトーされる、そんな時代です。

この日は晴れのち曇り。それにしても眺めがサイコーで楽しい岩稜ルートだ。「Ⅲ峰」あたりでフツーの岩登りになったり懸垂下降があったりと、北鎌尾根よりはヤヤこしいレベル。そのⅢ峰のガッチリした岩の様子は今も覚えている。引用させてもらったレポは画像が豊富で素晴らしい。行った気分に浸れます。

P1030549.jpg

7月26日、まずは「滝谷」を集中的に攀るべく、ベースキャンプを北穂・南稜のサイトに移動する。ボッカに苦しみ、4時間もかかっている(w 幕営地の半分は雪に埋まっていた。でも、これで水の心配はナシだ。そう。水は雪渓から滴るヤツを汲んでいたんです。今なら即ゲリ腹になるナ。

takitani1.jpg

【追記:2010年7月10日】
「滝谷」岩壁群のすばらしい画像を見つけたので、引用させていただきます。元ネタは、「ヤマレコ」のこちらの記事。滝谷の全容が見て取れる写真ってのは、なかなか無い。これは最高です。

この画像に解説を加えましょう。撮影場所は南岳小屋。「大キレット」越しに、真南を向いて撮影しています。
左端に上に「北穂高山荘」。そのあたりが「北穂」北峰頂上で、広いピークの右側が南峰、3,106㍍。小屋から画像左隅に下っている岩稜が「大キレット」へつづく一般縦走ルート。そして、画像真ん中の奥に望めるのが「奥穂」だ。

この画像は昨年9月の撮影とのことで、滝谷の主だった本チャン・ルートが赤裸々にして全裸々。隠れて見えないのは、「グレポン」と「C沢右俣奥壁」くらいか。
この合宿時に攀ったルートなどを示すと、北穂の小屋の右下に2段の垂壁を晒しているのが、「第1尾根」。その右、南峰ピークから明瞭な45度角で落ちるのが「第2尾根主稜」だが、その上から3分の1あたりが「P2」2番目のピーク)で、その下側の影になっている尾根側壁が「P2フランケ」だ。ところがこの壁は、1998年夏の大地震によって丸ごと崩落してしまい、10年を経たこの撮影時でも、崩壊後の荒れた様子がよく分かる。

第2尾根の向こう側にそそり立っているのが「滝谷ドーム」。左半分の影になっている部分が「北壁」。右半分が「西壁」だ。ドームの右奥には長大な「第4尾根」も見えている。とくに右下の「ツルム正面壁」が印象的。
それにしても、荒涼とした終末の風景だ。大正の末期などという時代から、こんな場所に取り付いて(夏どころか厳冬期も!)岩登りをしているアルピニストたちって、やっぱり相当ヘンだと思う。
(追記ここまで)

さて、設営後、「ドーム北壁・右ルート」を攀りに行く。昨年もやったルートだが、アプローチが近い小手調べ的な1本だ。
3名でのザイル・オーダーは、トップがワタシ、セカンドが「O」、ラストが「S」で統一。この組みかたでは時間を食うワケですが、まあ仕方がない。ホンネを言えば俺が攀りたいルートを俺がトップで、そんな鬼畜方針だったのはナイショ。

P1030601.jpg

7月27日、「ドーム西壁・雲表ルート」へ。ココはフリーがメインの楽しみにしていたルートだ。この写真が滝谷ドームの全容。右半分が「西壁」。右端のスカイラインが昨夏に攀った「ドーム中央稜」。左側の上半分が昨日やっつけた「北壁」。じつに岩壁っぽい佇まいでカッコいいでしょう。

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朝方は雨で、スタートを遅らせる。Bフェース下部の複雑に割れたクラックをフリーで快適に攀り、上部フレークではフリーでリードできないものか考えたが、結局、アブミを2回使って小ハングを越える。レイバックをブチかます度胸はなかった様子(w Aフェースはチムニーから下り気味にトラバースするところが面白い。次の凹角は人工だとルート図にあるが、ワタシと「O」はA0を1回でハングを越えられた。「S」はアブミの掛けかえで上がってくる。気分爽快な充実ルートだった。(8:25)開始(12:30)終了

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7月28日、本日は登りがいのある「第4尾根~ツルム正面壁」の継続登攀だ。4尾根は1932年夏に初登されたクラシック。ここ滝谷でも、岩場の開拓はまず尾根ルートから攻略されていったワケですね。

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残雪が多いC沢左俣を下り、6:50、スノーコルからノーザイルで登攀開始。Aカンテ上でアンザイレン、Bカンテを快調に飛ばす。ここらへんはナイフリッジだから両側がスッパリ切れ落ちていて、オマケに背後もはるかに見下ろす蒲田川までスッキリ爽やか何もナシ。抜群の高度感だ。

P1030620.jpg

Cカンテ基部から15㍍の懸垂下降を行い、9:30、第4尾根の右脇にそそり立つ三角形の垂壁「ツルム」に取り付く。出だしのフリーは少し緊張する。まあその。「A1」の場所を「A0」で、「A0」ならフリーで突破したいと考える意欲的なワシらだった。ラストの「S」はいつでもアブミの掛けかえで上がってきたけど(w まあ、そうしてくれるほうが時間の短縮にはなります。

P1030621.jpg

2ピッチ目は垂壁の人工からマッタクいやらしいボロボロの凹角。冷や汗モノだ。そしてワタシが「ルートわかんない病」という不治の病を持つため、このときも左への水平トラバース地点を間違え、かなり時間を消費した。まあその。ワシらが攀ろうと考える著名ルートなんて残置だらけで、それを目で追いながらルートを探すという「残置ピトン・ファインディング」をしていたのが実情だ。チルチルミチルのおハナシみたいなモンね(w ただし間違った方へその残置が続いている場合も結構あり、そんなときに「わかんない病」が発症するとイタいワケです。

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コレはツルム正面壁の上部をリードするワタシ。ツルムだけで何と6時間もかかってしまった。いま思うと、時間のかかる理由ってのは決して休んでいるワケではなく、冷や汗かきつつ、手をかけようとしたホールドがグラグラなモンだから落とさぬよーに元へ戻し、極度のバランスの中、また別の手がかりをまさぐりまくるってワケです。そんな時ってもう、必死なのネ(w 
次第に濃くなってきたガスは雨に変わりそうな気配。再び取り付いた4尾根の最終ピッチ、Dカンテを強引に突破し、17:25、雨の中で登攀を終了した。10時間もかかってしまったのだが、充実感はあった。

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7月29日、昨年も攀った「P2フランケ早大ルート」へ。出だしのクラックでアブミを1回使ったほかはフリーで攀りきる。(開始)11:50(終了)15:20

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7月30日、「第1尾根ノーマル・ルート」へ。まさにクラシックで、初登は1932年。ちなみに冬季初登は1939年などという開戦前夜の時代に「風雪のビバーク」で知られる松涛明氏が成した。で、縦走路上にある「松涛岩」ってのは、そのときに氏がビバーク拠点にしたからその名が付いたというくらいの由緒を持つ。

P1030623.jpg

ところが、今回も各ルートの画像つき登攀記録をアレコレ探しているワケですが、この第1尾根は見当たらない。P2フランケなどと同じく、1998年の地震で崩壊してしまったのでしょう、きっと。ルート図で分かるように、じつに「ちょうどよい」難しさ。3P目の小ハングも含めてオールフリーで完登。爽快。

しかし本日も昼前からガスが巻いてきたのと、クライマーが増えてきたので継続はサボる。でもナンダ、いま思い返すともっと攀っときゃヨカッタ…、そう痛切に感じます。行けば登れた「グレポン」なんか、地震で尾根そのものが崩落しちまった、というんだからナ(汁 でもまあ、残るは「ダイヤモンド・フェース」と「クラック尾根」くらいで、ほぼ制覇したという状態だったのだ。
滝谷の各ルートってのが、縦走路である稜線から取付き点まで下降して登り返すという独特なスタイルで、さらに岩が風化しているから落石(人為的でも自然発生でも)の危険と恐怖にビビるルートが多いワケ。

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7月31日、滝谷での最終日にはメイン・イベントを持ってきた。「C沢右俣奥壁」だ。初登は松本龍雄氏ら雲表パーティで、1958年の夏のこと。その昔から絶え間ない落石に悩まされる悪相の垂壁で、滝谷最後の未踏壁だったのだ。わがヒーローが開拓した、そんなルートをやる。

4尾根Dカンテを懸垂で下り、ツルムのコルへ。小雨が舞い、しばし時間待ちの後、さらに懸垂でルンゼを下る。陰惨なムードの滝谷でも極めつけ的に荒れている奥壁が見えたあたりで、凄まじい落石が縦走路から出た。その奥壁中央部を轟音とともに落下。ひええ。ワシらは呆然と立ち尽くした。
「まさかアソコがルートじゃないよな」「そんなハズはないよな…」。えらく弱気になったワタシ、壁の右側のクラックに取り付いてしまった。Ⅳ+のフリーにしては難しいと冷汗かきつつ40㍍攀ると、やっぱり先ほどの岩雪崩の場所がオリジナル・ルート(8枚前の画像を参照してください)だったと気づく。死にに行くようなものですがナ(w あとで調べたら、ココは「右ルート」といい、このピッチはⅤのA1とのこと。ワタシはA0数回で攀ってしまった。
仕方なく、左へ下り気味にトラバースを試みる。これを2ピッチ、そして凹状部直上から直上クラックと2ピッチ攀ると、縦走路下のリンネに出て終了してしまった。まあその。途中から雲表ルートに合流はしたのだろうが、もったいないコトをしたもんだ。
この壁の落石は、初登される前から恐れられていたコト。ワシらが攀った時点で登攀禁止になっていなかったのは、フシギという他ない。命がけのクライミングってのは、「運」でもある。まあ、それが本チャンの意義であり面白味でもあるワケですが。(8:50)開始(13:00)終了

これで滝谷の岩場を終える。ちなみに今、登攀の無事を祝して杯をあげるとすれば、この酒に限るね。どーです(w クールなネーミングが美味そうじゃないか。
それを味わいつつ、ワタシのバイブル「初登攀行」をかみしめるように読みたい。攀り終えたC沢奥壁を後にするくだりで、松本氏は味わい深くこのように結ぶのだ。「南峰頂上で涸沢の灯を見る。二五歳の夏への決別を感じつつ、去りがたい思いで下る北穂沢に夏草が匂っていた」。

8月1日、涸沢にBCを移して休養とする。快晴。明日からは「奥又白」と「屏風岩」にとりかかる。

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8月2日、まずは奥又白の前穂四峰正面壁「北条・新村ルート」だ。奥又白エリアは初見参。すぐにガスが吹き上がる「滝谷」の陰惨な岩の墓場ってなムードと比べると、コチラは好対照、明るく豪快な印象だ。

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ただし涸沢からだとアプローチが遠い。北尾根をやってから8日ぶりとなる「5・6のコル」経由で奥又白の本谷を下り、また雪渓を登り返す。うだるような暑さの中、たっぷり3時間のアルバイトで取付き点へ。
写真は本谷雪渓上部から撮った「奥又白」の全容です。右半分が「前穂四峰」の岩壁群で、さらにその右側が本日アタックする四峰正面壁になる。奥まった写真左側が「前穂東壁」の立体的な岩壁群。
【追記:2010年7月10日】
奥又白の岩壁群を撮影した、すばらしい記事を見つけました。2006年とのことだから、コレが「大地震」後の最新の状態だ。前穂東壁・右岩稜ルートの崩落は悲しいが、四峰正面壁のカッコよさには、今でも胸がおどる。

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伝説のクライマー・北条理一氏が1933年に初登した、奥又白でもっとも有名な北条・新村ルートは、「RCCⅡ」が記した核心部についてのルート解説が印象的だ。すなわち、「初登攀者たちは始めの小ハングにピトン1本を打ち、大ハングはピトンなしで乗越したといわれている。現在(引用しているルート図集「日本の岩場」は1976年の発行)では約20本のピトンが残置されている。これを見ても、初登攀者の偉大さに頭の下がる思いがする。初登時のこのピッチはおそらくフリークライミングのⅥに相当していたと思われるが、1933年当時にⅥに到達するような登攀が成されていたことは非常に興味深い」。
前項でワタシが触れた「岩と雪72号」の衝撃までは、すなわち日本のアルピニズムとは、こんなんだったワケです。ゴムソールの靴など存在しなかった時代、北条氏は鋲靴で攀ったのか、あるいは地下足袋か。ちなみに昭和33年秋の一ノ倉・滝沢3スラを初登したときの松本氏なんか、素足にワラジだもんね。
ともかく、自分の技量で対応できないとスグにハーケンとかボルトを打ち足してソレを放置し、よってそのピッチの難易度が下げられてしまう「宿命」だったのだ。コレがつまり日本全国「Ⅳ級A1」化というコト。この合宿時のワシらは「ルート図にA0と書いてあればフリーで攀ろう」などと、意識をちょいと高めに持って臨んでいたのだが、コレも「岩と雪72号」のアジテーションのオカゲと言えました。

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とはいえ快晴で酷暑のアプローチに痛めつけられたワタシは、キモチとは裏腹、全身に脱力感がみなぎって困ってしまった。フラフラと「ハイマツテラス」へ攀る。いま思うと熱中症みたいなもんかな。暑さとアブがワンワン飛び回るキジくさい場所で順番待ち。その素晴らしい核心部「青白ハング」帯では、小ハングはA0で突破するも、大ハングはアブミに乗ったくせしてチカラ尽き、ザイルにブラ下がってしまう。これはかなわん。「初登者はピトンなしで乗越した」とは、さすがのロック・レジェンド。次のトラバースからリッペを越すピッチもしんどかったとメモに残っている。
「5.6のコル」まで北尾根を下り、雪渓をグリセードで帰幕。(開始)8:15(終了)12:35

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8月3日、引き続き快晴のもと、前穂東壁「右岩稜・古川ルート」へ。コレも奥又白を代表する1本として知られ、Ⅴのフリーのピッチを含むというチャレンジングなルートだ。再び前日と同じアプローチを辿って、あえぎながら取付きへ。

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じつはこの右岩稜も、1998年の大地震でルートが崩壊した。現在は再び「新」古川ルートが引かれたとのことだが、もちろん内容は変わっている。とりあえず、数少ない写真付きの中からこの記録をご紹介しておきます。

さて、ワシらのコトだった。先行パーティが4つもおり、けっこうな順番待ち。核心部の4ピッチ目、A0とフリーでハングを回りこんでから、右にしぶいトラバース。ココで少々ルートを誤った。Ⅴのクラックは垂直で威圧的だが、快調にリード。そういえば「おお。コイツが5級かあ」などと感激しながらリードしたのを覚えている。
下を見下ろしたら梓川までドバーッと絶景が拡がっていたコトだろう。もっとも当時は高度感がマヒ(否。順応と言うべきかw)していたから、とくにモンダイ無し。ちなみに今では、まったくダメです(w これは訓練が必要なモノらしい。継続ルートの「Aフェース」、Ⅲ+程度の3ピッチを急いで片づけ、終了点となる前穂のピークへ。きょうは顧問の先生とOBが合流してくるからだ。
そしてこの涸沢への帰路、北尾根「3・4のコル」からグリセードしたら止まれなくなって雪渓を300㍍ほど滑り落ちるというアトラクションを図らずも敢行したワシでした。(開始)8:20(終了)14:20

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8月6日、2日間の停滞の後、屏風岩のクラシック「1ルンゼ」へ。この日はパーティを分け、「O」とふたりで攀る。快晴だった。その名のとおり屏風のように展開した岩壁の左端に位置し、初登は1931年、これまた伝説のクライマー・小川登喜男氏。キチンと温故知新を踏まえて取り組むのが、ワシらの偉いトコロだ。うおっほん。
ところがこのルート、ネットを巡回しても夏の記録が見当たらない。ヒットするのは「東壁・雲稜」ばっか(w まあその。今どきルンゼ登攀なんか不人気なんでしょうナ。でも、ルート図集には「穂高岳でも代表的な明るい花崗岩の大ルンゼであり、岩は硬くテラスも豊富なので思いきり登ることができる」などと、魅力的なコトが書いてあったんです。

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涸沢から本谷橋へと駆け下り、横尾の岩小舎から「一ルンゼ押し出し」を登り、雪渓の下をくぐってこのロング・ルートに取り付いた。下部はまぶしい花崗岩のチムニー状が続いて、内面登攀ばかり。ジョギングシューズだとまったく快適だとメモにある。こんな溝状のルートで上からラクにやられたらイチコロなのだが、このとき落石は起きなかったように思う。
中段台地でザイルを解き、ゆっくり登って上部岩壁へ入っていく。このあたりはとても暑くてシンドかった。非常にモロい井戸底状の壁をA0で突破して終了。グズグズの恐ろしい場所で、こんなのが最後に出てくると評価が下がっちまうワケですね。下半分だけならサイコーなルートだ。パノラマコースを辿って帰幕する。(開始)6:45(終了)12:30

【追記:2010年3月13日】
昔の資料をあさっていたら、たまたま、この「1ルンゼ」に関する大事故の報道を見つけた。
「岩と雪」1987年12月号(125号)で、この年9月に大規模な岩の崩落が発生、登攀中の4パーティ・8名が巻き込まれて、5名が死亡または行方不明、3名が重軽傷を負ったとのこと。
1ルンゼ最上部、屏風ノ頭まで30㍍の付近で岩が剥落し、幅100㍍長さ300㍍の岩雪崩となってルンゼ内を襲ったもの。ほとんど逃げ場のないクライマーたちは次々にその犠牲となった、という。ぐは。リアルに想像できてしまう(汁 さらに、飛び石連休の初日とのコトで、5パーティが登攀していたというその集中ぶりが被害を大きくした模様だ。
その後、当分の間は登攀を自粛する立て看板を現地に設置したようだが、以来20余年、無雪期に攀るクライマーは絶えて久しいというコトなのだろうか。

P1020847.jpg

8月7日、続いて屏風岩の人気ルート「東壁・雲稜ルート」へ。コレも由緒あふれる1本で、「穂高岳の岩場」には、このように記される。「人工登攀について賛否両論渦巻く1950年代末期、このルートの開拓が百論を一掃、堤の一角が崩れて新しい波が押し寄せた。ピトンやボルトの積極的仕様が肯定され、やがてディレッティシマの時代へとつながった画期的な意義を持つ登攀であった」。
初登(しょとう)は雲稜会の南博人氏らで、1959年4月のこと。前年6月に松本龍雄氏らによって、一ノ倉沢コップ状岩壁で初めて埋め込みボルトを使って「従来の攀りかたでは、誰も登れなかった場所」が突破された。その方法論を発展させたのが、見るからに攀れなさそうな角度で聳えるこの屏風の東壁の開拓だったワケ。さらに南氏は、この4カ月後に決定打といえる初登攀、エキスパート・クライマーたちの「最後の目標」だった一ノ倉の衝立岩を成し遂げたのです。

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本日も「O」と2名だ。また涸沢から駆け下りて、「T4尾根」に一番で取付く。50分ほどでルート取付き点の「T4」(上の画像で、中央の雪渓の右あたり)に到着。きょうは曇天だ。1、2ピッチ目はさすがの初登ライン、フリーの要素が強くてセカンドの「O」などオールフリーで上がってきた。扇岩テラスで、素晴らしい高度感に大休止して眺めを楽しむ。

P1030609.jpg

そこから始まる直上ボルト列が、新兵器「埋め込みボルト」が最大活用された垂直に近いスラブのフェース。ただし29年前でもすでにボルトのリング部分が抜け落ちて、細ヒモなんかで代用しているヤツがほとんどだからアブミの掛けかえというムーブでも冷や汗モノ。4ピッチ目はハングを避け、右にトラバースして東壁ルンゼに入る。ついに雨が降りだし、ツルツル滑るルンゼを強引にA0で突破して終了。長いパノラマコースを風雨に打たれながら涸沢へ向かった。(T4尾根取付き)6:50(T4)8:00(終了)13:20

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8月9日、雨で停滞した翌日、穂高で最後となるルートはコレ、「前穂東壁Dフェース・田山ルート」。奥又白エリアで最後まで取り残された奥壁だ。田山ルートが初登ラインだから、弱点を巧みに突きながらフリーで攀るピッチが多いというワタシ好みの内容です。ただし、ココも今では後に拓かれた人工ばっかの都立大ルートの記事しか出てこない。やはり大地震の影響を受けたのだろうか。

P1030605.jpg

「S」とザイルを結んでいたOBが帰京し、久しぶりの3人パーティとなる。天気は晴れ、そして再び「5・6のコル」越えというロング・アプローチ。やれやれだ。ところが攀ってみると、ルート図(8枚上の画像です)にエンピツ書きしてあるように、各ピッチの長さが実際と異なっているのもフシギだが、それより何より、ずいぶん楽勝で攀れちまったのがフシギ。
中間部の印象的なスラブ帯でもアブミをさして必要と感じなかったし、3ピッチ目の核心部、ハング帯の右上トラバースは「Ⅴ、A2」とあるが、アブミ1回、A0を数回で抜けてしまい、「やけにカンタンだなあ。またルートを間違っちまったのか?」などと不安になったり。セカンドの「O」など、このピッチを「A0」1回のみで上がってきた。「S」は例によってアブミの掛けかえ、余裕のスマイルだが。
3ピッチ目のビレイ点で話しあったのだが、結局「ワシらのレベルが向上したんだろう」という実にイージーな結論に落ち着いた(w そして上部のボロボロ凹角から簡単な左上ピッチと攀り、あっけなく終了。いちばん手ごたえがありそうで、とっておきにしてたルートなんですがネ。帰路は「Ⅲ峰」を懸垂下降し、「3・4のコル」から今度は滑らぬように涸沢カールへ下る。(10:35)開始(14:20)終了

DSC03305_800-1.jpg

8月10日、無事に下山日を迎えた。本日も晴れ。入山日は重荷にあえいで、横尾からココまで5時間もかかったんだよナ。ヨーシ、松本でビールとトンカツ定食だ! いや、合宿中は小屋での買い喰いを禁じていたからです。先生とOBが来られていた数日のみ、アルコールは例外だったけどね。だもんでこの下りは速いよ(w (7:15)発(9:10)横尾(11:35)上高地だ。

さて、約1週間の休養および準備期間を設けて、「第3次夏合宿」は谷川岳での登攀を2週間ほど行う。穂高でつけた自信を引っさげて、やるぞ「3スラ」。



◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:4
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コメント

これって登ったことなど細かくメモしてそれを取っておいたんですか?
 当時は多分手帳にどこを登ったぐらいしかメモってなかったし、その手帳も捨ててしまいました。ルートについてもほんのチョット断片的に覚えている以外、ほとんど覚えていないです。今考えれば手帳ぐらい残しておけば良かったなぁと思います。
 ただ今滝谷や奥又を見ると「こんなボロボロな所よく登ったなぁ」って思いましたよ。
 
 今いつ見ても屏風を登山道から見上げても、ほとんど登っている人がいません。
 やっぱり「あ~○○ルートと□□ルート登っているなぁ」って思い出せるぐらいは登っていてほしいですね。
 
 



 
IK #-|2010/03/08(月) 23:19 [ 編集 ]

>IKさん
マメなヤツだなぁ、と思ってるでしょ(w

この合宿の記録、じつは昔、部の年度別活動歴をまとめた「部誌」が手元に残っているんです。
このときの合宿の詳細を忘れていないころ、これらの記録を書きつけた「部誌」ですね。
ソレに今の視点で描き足したり、「穂高岳の岩場」の解説などをブチこんで、立体的に見えるようケナゲに努力しております。

ボロボロな岩場…。クライミング・ジム以外の天然の岩場を「外岩」と呼ぶという「5・13」を登れる今のヤングに、そうさね、「C沢右俣奥壁」をチャレンジしてみてほしい。コレ、見てみてえ(w


ラード #-|2010/03/09(火) 00:01 [ 編集 ]

C沢右俣・・・ⅤのA1をA0数回で登攀するラードさんww こういうことできちゃうのも、若さゆえでしょうかね。

こういう話、楽しいです♪
ユウ #2DdjN05.|2010/04/02(金) 10:56 [ 編集 ]

>ユウさん
この壁も、すでに登攀禁止だと思いますよ。
イケイケの時代を懐かしく思い馳せながら書きました(w

途中に挿入しましたが、「滝谷C沢奥壁」という清酒があるんですねえ。
なんか、飲んでみたくてネ。
ラード #-|2010/04/02(金) 13:18 [ 編集 ]
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