ラード・アラモード

アウトドア好きのオッサンです。山系バックパッキング、サバゲ、林道野宿ツーリング、好きなモノ、好きなコト、昔ばなし(w のんびりと、自分の興味をご紹介します。

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ラード

Author:ラード
千葉県在住
バイクはXR250「Baja」
クルマはE46「325i Touring」
メインアームは「SIG552 SEALS」


林道焚火野宿のバイク旅と
サバゲ、そして
バックパッキングの世界を愛する。
風流なオッサンとなるべく
奥義を研究する日々(w

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ラード的山がたり ロック・デイズ(その6)

2010/03/14(日) 23:10:02

【谷川岳の14日間とその後】
「第3次夏合宿」は、谷川岳の一ノ倉沢幽ノ沢での岩登りだった。8月18日に入山して、下山は31日。まったくこの夏は「山漬け」でしたネ。ところが、先に言っておくと、この合宿は穂高のときと一転、雨にたたられ続けてほとんど登れなかった。なんたって行動できたのがわずか5日間で、攀れたルートは4本のみ。いやまあ、谷川岳で雨に降られるのは珍しくもないワケですが、それにしてもヒドすぎ。そんなフラストレーションが溜まった日々の記録だ。

8月18日、入山。土合駅から湯檜曾川沿いの新道経由で、いつものBCへ。

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8月20日、さっそく雨で小屋内に停滞させられた翌日、一ノ倉の「烏帽子沢奥壁・変形チムニー・ルート」へ。エボシ奥壁エリアとは、この画像で衝立岩正面壁の左側のスカイライン「中央稜」と左端の「南稜」に挟まれた壁で、フリーが主体の長い好ルートが目白押し。中でも「変形チムニー」は一ノ倉の中級ルートの定番だった。

P1030669.jpg

参加メンバーは穂高の合宿と基本的に同じ。ザイル・オーダーも同じでトップがワタシ、セカンドが「S」、ラストが「O」だ。天気は曇り。取り付きから快調に数ピッチの登行を続け、変形チムニーに迫る。そしてワタシは前日の雨で濡れたこのチムニーで、5㍍くらいの墜落をやらかしてしまった。

今でも忘れられないのが、チムニー内の濡れたフットホールド(上のレポの「チムニー」画像で、右側の岩)で右足がツルッと滑り、両手指が支えられずにホールドからブチッと外れたシーン。声も出なかった。落下時の記憶はない。べつに失神したワケでもない。目をつぶっていた0,5秒ってなムードか。カラダが空中にブラ下がっている状態で気づいた。ラッキー。どこかにぶつかったら無傷では済まないからね。最後にビナをクリップしたハーケンは抜けずに、ソコから2,5㍍くらい攀ったあたりで落ちたコトになる。
下にいる、姿は見えないビレイヤーの「S」に向かって「だいじょーぶ!」と叫んだ。「ケガは、なーい?」と聞かれたからチェックすると、打ち身などは無さそうだが、何てこった。片足(右だったかな)の登攀用ジョギングシューズが無くなっている。「おーい。クツ、飛んでったかぁ?」「なんか落ちてったー」。おおっと(w 「ちょっと一服させて!」と言い、ぶるぶる震える手でセブンスターを吸ったっけ。

この滑落の原因は明快だ。濡れた岩で足を滑らしたという基本的なケアレス・ミス。ザイルのトップは絶対にソレをしてはならない。もちろん気をつけていたのに、こうなった。自信がガラガラと崩れた体験だったが、調子づいたワタシに自戒を促す守護霊さまの思し召し、だったのかも知れん(w
それから確保点までロワーダウンしたのだったか、ザックに入れていたアプローチ用のジョギシューに履き替えたワタシ。「いや、止めてくれてホントにありがとう」と「S」に伝えたら、「ちゃんとしたハーネスに替えといてヨカッタねえ」などと笑われた。まあその。確かに。

ひき続きワタシがトップで再アタック。チムニーを抜け、もろいルンゼを飛ばし、旧ピナクルで少し迷ったが着実に登行を続けた。烏帽子岩を左から巻き、いやらしいルンゼを左上して終了。強風が渦巻きクマザサが鳴る。今にも降りだしそうなガスの中、6ルンゼを懸垂下降した。(開始)8:10(終了)13:10

8月21、22、23日と連続して停滞。台風が通過していったのだ。テントだったらヒドい目に遭うワケですがね、BCは小屋だから心配などない。若手のOB3名が訪ねてくれ、コンパに沸いた。

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8月24日、久しぶりの晴天。本日はコップ状岩壁へ。「コップ」は衝立岩の右上に位置する。リンク先の美しいスチール写真集のうち、コレとかコレが造形を理解しやすいでしょう。予定が大幅に狂ったワシらはアセリ気味に、衝立前沢から略奪点経由で衝立沢を詰め、コップの広場へ。直前まで「正面壁・雲表ルート」を攀って国境稜線へ抜けようと考えていたのだが、台風の置き土産、上部カールからの流水が滝のように壁を濡らしているのにアゼンとさせられた(リンク先ブログのスライド・ショウで、19枚目以降ですね)。そこで、確保支点の少ない上部のカールを登攀するのはヤバそうに思えたので、正面の2本のハング部分だけを攀るコトにした。

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まずは「雲表ルート」だ。コレはわが国で初めて、ハーケンが入らぬこのハング帯の突破に手製の埋め込みボルトを支点に打ち、短時日で登攀された独創的なラインなんです。ちなみに数㍍左側にあるのが、2本目に攀ろうとしている「緑ルート」。コチラは当時全盛を誇った「緑山岳会」が総力をあげて、長い時間をかけてジワジワと高度を稼いでいたライン。ハング上の垂壁の突破に苦しんでいるところを雲表・松本パーティに並ばれ、昭和33年6月の同じ日、熾烈な初登攀争いの最終フェーズを迎えた。さて、勝者は・・・。ソレを知りたければ中公文庫版の「初登攀行」を、だから読みなさい(w

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8:40、カラ身で取り付く。ところがビショビショの岩は困難で、1P目を終えた外傾テラスで、フェルト地下足袋(当時、出始めだったネオプレーン地の股割れ渓流タビ)に履き替える。おお、グリップ良好。小ハングを超えて、アブミ・トラバースから大凹角へと入っていくあたりが核心部で醍醐味でもある。この写真はそのあたりを攀るワタシ。カメラを真上に向けて撮っています。

先ほどの雲表ルート・スライドショウの24番目の画像が、松本龍雄氏が打ちこんだ現在も残る埋め込みボルトの第1号だ。コイツはワタシも「コレが、そうか」と気づいた。1958年とワタシの体験時の1981年、そしてこのパーティが攀った2007年と、各々およそ四半世紀の時をまたぎつつ、同じモノを見つめたフシギさよ。
この第1号ボルトについて、写真ガイドブック「谷川岳の岩場」のルート解説より、ちょいと引用。「垂壁を登り始め、小ハングを越えるころから壁は少しずつかぶりだし、大オーバーハングの下辺りから右へとアブミ・トラバースに移り、頭上に直上していく凹角に入っていく。(略)この凹角に、問題の試作された肉厚の手製ボルトがある。現代の感覚からいえば、これほどその使用に神経を遣い、ぎりぎりの限界で打ってある点など実に倫理的なもので、ちょっと自分の技量が不足していると、すぐべた打ちにボルトが並んでしまう傾向に比べれば雲泥の差がある。おそらく初期におけるボルトの賛否論争は、今日のこの現象を予知しての反発があったに違いない」。

そして前々の記事でも述べたように、この日本山岳史に名を刻むルートが日本で初めて「フリー化」されたのが、ワタシが攀った1年ちょっと前のこと。まあその。壁のコンディションが悪すぎとはいえ、当時のワタシの実力ではセカンドでもフリーでは無理、これが正直な感想でしたね。

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さて、続きを急ごう。この凹角を抜け、左へ下り気味にトラバースして「カール下テラス」に到着。案の定、上部はひどい状態だった。「S」と「O」が攀り終えたら、爽快な空中懸垂でハング下の広場に舞い戻り、次の「緑ルート」に取りかかる。

ところでオーバーハングの登攀ってのは、こういう作業をしています。5:35からに要注目。このシーンでは、吊り上げされたトップが埋め込みボルトの支点を打ち足すべく、ジャンピング(穿孔)をしている。以前にも述べたように、実戦でワタシがハーケンとかボルトを打つ機会なんて無かった。残置された支点で効いてそうなヤツを使うのでコト足りたからですが、このカチャカチャいう音はしみじみ懐かしい。

さておき、すでにワタシの上腕はくたびれていて、4㍍ほどの張りだしのハングもスピーディに攀らせてくれなかった。それに続く濡れた垂直のフェースでも、泣きたいほどの苦闘を強いられた。ここで落ちたらランニングは持ってくれるか、ピンが飛んだらテラスに叩きつけられるのかッ、なんつーリアルな恐怖とよく闘いながら、何とか攀りきって再びのカール下テラスへたどり着く。シンドかった。
セカンドの「O」がたやすくハングを抜けてくるのを、ワタシはいらだったキモチでザイルをたぐる。時間切れでサードの「S」を攀らせるコトもできぬまま、コップスラブを下って略奪点に向かった。帰りが遅れたワシらを心配した他のメンバーたちが、暗闇せまる一ノ倉出合まで迎えに来てくれた。
雲表ルート(開始)8:40(終了)12:10、緑ルート(開始)14:00(終了)16:00

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8月25日、曇り。続けて行動できるのは、ありがたい。本日はBCに入っている全員(OBとか他部員とか)で幽ノ沢の集中登攀を行う。ワタシは「中央壁・左フェースルート」を「O」と2名で。これは中央壁の初登ラインで、フリーが主体の難しいルートとして知られている。この合宿で目標にしていた3本のルートのひとつ(あとは「3スラ」と「エボシ奥壁ダイレクト」)です。
しかし残念なコトに、このルートも画像付きの登攀レポートがほとんどない。上記リンクの記事によるとココも今ではルートが崩落しており、正面フェースに苦労してエスケープしている。

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「T1」まではノーザイル。快適に登高を続け、核心部の「Zピッチ」も難なく突破。フリーの楽しさを満喫しながらザイルはキモチよく延びていく。渇いた岩の感触を確かめつつ、すんなりと終了した。長めのルートを軽くこなせたコトで、ワタシは満足。「やっぱ人工より、こっちがスキw」。中芝新道の途中で他パーティと合流し、カタズミのβルンゼを下降した。(開始)8:10(終了)11:50

ふたたび荒天が続くハメになる。8月26日は雨。27日は曇りのち雨で、略奪点経由でエボシ奥壁「凹状岩壁」へ向かうも、雨が降りだしたから衝立沢を下降してBCにトボトボ戻る。翌28日も、やっぱり雨。なんてこった。
そういえば、くだらぬコトを思いだした。BCに備えつけられていたノートにワタシが書きつけた「ポエム」のこと(w 変形チムニーで落ちたときに失くしたジョギシューを弔ったもので、こんなムードでした。

母さん、ぼくのあの運動靴、どうしたんでせうね?
ええ。夏、一ノ倉の変形チムニーで谷底へ落としたあの運動靴ですよ。
母さん、あれは好きな靴でしたよ。
僕はあのとき、ずんぶんくやしかつた。
だけど、いきなり滑落したものだから・・・

たはは。もちろん森村誠一の「人間の証明」に登場する西条八十のパロディーなんですがネ(w まあその。「沈澱」続きでヒマだったワケだ。久しぶりに思いだした。この詩の最後あたりの透明な寂しさ、これが好きだった。

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8月29日は、晴れのち雨。一ノ倉「烏帽子沢奥壁・凹状岩壁ルートへ再アタック。このルートの開拓ってのがまた、物語がテンコ盛りなんです。昭和33年3月、ワタシのヒーロー・雲表の松本氏が「烏帽子奥壁」の初登攀を狙って、しかし絶え間ない氷塊の落下で取付くしまの無い既存ルートを避け、無雪期ですら攀られていなかった未踏ラインを切り拓いたという革新的なルートなのだ。それはマーキングしなくてはイカン。そんなワタシの、この傾倒ぶりに瞠目せよ(w

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このルートもまた、5年ほど前の上越地震によって核心部のアリサマが変わっちまったらしい。夏場は自然発生のラクがバシバシの危険なルートみたいだが、ワタシのメモによると30年前でも同様だった。
凹状の下部では、中央カンテからの落石の雨をかわしつつ走り抜け、核心部に入っていく。雪崩による浸食作用を受けた傾斜の強いフェースの登攀を楽しみ、景観の素晴らしさに目をみはりつつ右上してしてテラスに着く。ブッシュの中をしばらく登ってウンザリしたころに最後のクラックが現れ、やはり素晴らしいルートだと感銘を受けた。北稜を懸垂下降する。(開始)8:40(終了)12:10

翌30日は晴れていたが、皆で「ユビソ本谷」へ出かけ、十字峡あたりで水泳し、トカゲ(「山ヤ」コトバで甲羅干しのコト)に興じた(と記憶していたのだが、この動画を見ると、さすがにこんな遠くまで出かけないかも。魚留めの滝あたりだったのかな。この湯檜曾川本谷は2年次だったかに遡行したが、じつに楽しい沢登りができますよ)。そして8月も最後の31日に下山。尻切れトンボのように夏合宿が終わった。

ワタシの計画では、穂高の岩場でトレーニングを積んで一ノ倉でソレを開花させる、そんなムードだったのだが、ずいぶん予定が狂ってしまった。縦走合宿では雨の日でも歩き続けるから、雨の中を登攀する意味なんて無く危険なだけとはいえ、こうまで停滞日だらけの報告ってのは、責任者としては関係各位に対して少なからずココロ苦しかった。
まあしかし、長期の合宿日程を事故もなく無事に終了できてホントに良かった。そして滝谷とか奥又白なんて遠い場所では、社会人には1週間の「夏休み」でも正味4日間くらいのクライミング日しか作れぬワケだから、どっぷりと岩登りを享受できたこの夏の日々は貴重な思い出。かたや谷川岳での不本意な日々は、ともかく大学生でいる間に必ず目標をやっつける、そう固く思い定めたワタシだった。

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10月上旬、「O」と再びザイルを組んで、あの小川登喜男が1932年に拓いた一ノ倉沢最初期の名クラシック、「3ルンゼ」をやろうと出かけた。きっとガスっていたはずだ。ナゼならワタシは左隣りにある「2ルンゼ」に取り付いてしまったからだ。いやしかし「ルートわかんない病」どころではナイ、という(汁 序盤で気づいたら、さすがに下降して取り付き直したハズだから、きっと「ザッテル」の城門に出ちまって「なんじゃ、こりゃ?」、ようやく事態を合点したと思うワケ。 
この画像は「滝沢スラブ」に食いこむ右側の2ルンゼと、上の「ザッテル」および滝沢上部の様子が分かりやすい。2ルンゼだって十分にヒストリカルなんですがね、「O」からは「いちばん登りたくないルートを登ってしまった」という的確なコメントを頂戴した。「まあその。温故知新、なんである」とか何とかイイワケしつつ、Aルンゼあたりを継続して国境稜線へ出たんではなかったか。

それから間もなく、ワタシは左ヒザ外側の「じん帯」を痛めて、身動きが取れなくなってしまった。矯正サポーターなど無かった時代、ヒザ部を石膏どりして両サイドに鉄板を入れた専用サポーターなんてのを、1まんえんくらいで作らされたっけ。まあ、さすがに長らく酷使しすぎたのかも知れないな。インソールなど入れてない重登山靴でドカドカ歩いたり、ペラペラの運動靴で駆け下ったり。左ヒザのじん帯はその後「地雷」として、今もタマに痛くなるワタシのウィーク・ポイントになったワケ。「本チャン」攻略の意欲に満ちたシーズンが、こうして終わっていった。

そして冬になり、春が廻ってきた。ワタシは4年生になっていた。トレーニングは熱心にやらなくなっていたが、技術的にはソコソコ円熟していたらしい。

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5月下旬、半年ぶりに「一ノ倉」に戻ってきた。2年部員の「O2」(いつものパートナーとは別人、「O2」と略そう)と初めてザイルを組んで「衝立岩・中央稜」を攀る。ココは南稜と同じく一ノ倉の入門的ルートで、ワタシがすべてリードしたと思う。そんなに面白い内容ではなかったな。
ググってみると、フシギなことに現在では大人気ルートになってますね。落石などの外的な危険が少ないリッジ登攀だからなのかネ。
ココで示唆に富む記事を発見。近年の「外岩w」的環境下で、アルパインのルートがどんな状況になっているのか、プロフェッショナルが考察したものだ。むーん。確かに、そんなのは寂しい。では、もともと残置支点が少なかった「幽ノ沢中央壁」なんか攀るヒトがいないんじゃなかろうか、ほとんど。それはしかし、新鮮で楽しそうに思えるんだがなあ。

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【革新と焦燥の日々】
マスメディアから発信される世界の情勢は、日々、革新の度合いを高めていた。といっても「岩と雪」誌におけるハナシですが(w そして世界ってのはフリー・クライミングに関するネタだけどサ。そのころのワタシ、とっとと就職活動の準備に入らねばならんのに、まだ何も始めていないクセして意味なくアセる不毛な毎日だったのです。

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さて、その年はじめに出た「岩と雪」誌の記事で、ワシら一同は心底ビックリした。鈴木英貴氏の「アメリカ・岩登り武者修行の旅」という、連載1回目のレポートを見たからです。ヨセミテにある「ワシントンコラム東壁」をオールフリーで攀る「アストロマン」というロング・ルートの凄まじい報告にのけぞったものだ。

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でも、悲しいかな「5.11」連発の「トポ」を眺めても、いったいソレがどれだけ難しいのか理解できないからネ、「スゲー」とボヤくのみだったり(w 

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加えて、その年の春には国内の革新的な最新状況を見せつけられた。小川山とミズガキ山で展開する「ハードフリー」の世界の紹介だ。

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山ヤなんだから、他人が攀れない場所を「かるーく」やっつけちゃう、そんな行為に優越感を抱くコトは、よおっく理解できる。ルートを拓いて自分で名前を付ける、そんな所有欲も良く分かる。クライミングで自己表現をする、これまたキッチリ同意できる。でも、群雄割拠の戦国時代のごときその当時のフリーとは、すなわちクラック登攀を指したから、ヘタすりゃ指がチギレちゃいそうな、見るからに痛いクラック・クライミングに対してワタシのキモチが傾くことはなかった。ナニを好きこのんで、と。

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小川山のような「おニューの岩場」でのアメリカンなブームとは対照的なクライミング、既存の人工ルートをフリーでストイックにトレースし直す、その掉尾(とうび)を飾った偉業がコレだ、「衝立岩・雲稜第1ルート」のフリー化。

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数次に及んだこのチャレンジはこの年の中ごろのことで、秋に発刊された「岩と雪92号」の巻頭にカラー10頁という破格の扱いで特集されている。それだけ影響力と意義のある「ルネッサンス」だったと、ワタシですら心得る。「歴史を変えた1本」の誕生が、ワタシの現役「山ヤ」時代の最後あたりに成されたという事実は、改めて振り返ると面白いものです。

【ミッション・コンプリート】
そんな風雲急を告げるこの年の6月上旬、ワタシのロック・デイズのピークを成した数日がやってきた。そのとき入梅していたのか、平日か週末か、誰かのクルマで入山したのだったかも今では覚えていない。でも、登攀時の様子はソコソコ記憶に残っているんです。それだけ真剣だったのでしょう。

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6月10日、いつものBCで仮眠後、一ノ倉・烏帽子沢奥壁の「南稜フランケ」へ。2年部員の「O」と「F」(前年の11月末、富士山でビバークを共にしたヤツだ)を引き連れて攀った。
天気は曇りだったろうか。昨夏の目標だった「エボシ奥壁ダイレクト」(初登者の中に、あの今井通子がいますね)からコチラに変更した理由はもう、覚えていない。おそらく翌日の長丁場を想定して、わずか6ピッチ(実際は、ルート図に書き込んだように5ピッチで終了)ながら「5級下」という高いルート・グレードを付された南稜フランケにしたのだろう。Ⅴ+のフリーが連発するから、やりがいがある。
画像付きの記事はイマイチ見当たらないが、リンク記事の文章のみでもヒリヒリする難しいフリーのムードが伝わってくるだろう。

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かつて「国内でもっとも困難なフリー」と呼ばれたという3ピッチ目は、ジョギングシューズのワタシがリードしたのだが、レポにあるような「ランナウト」(昔はこんなコトバは無かったなあ。ランニングが遠すぎ、とか言っていたような)の恐怖感ってのは、それほど感じなかった。まあ、昔の本チャンなんか、そんなモンだったワケで。続いて上がってきた「O」が言ったセリフ「こりゃスゴイ。難しい。でも手を伸ばせば、何かしらホールドがある」ってのが、Ⅴ+というグレードを上手く表している。ま、セカンドはイイわな、気楽でサ(w

【追記:2012年5月】
南稜フランケのより詳細な登攀記録を発見したので追記。これは2002年時のものですが、攀っているときの写真がイイ。

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6月11日、曇り。ついに「滝沢第3スラブ」に取りくむ。
このときの記録メモは手元に無いけれど、その模様は何となく覚えている。BCの小屋を出たのは夜明け前、もっとも日の長い季節ですが、一ノ倉の出合あたりで明るくなったのだったか。パーティは昨日と同じ3名。この写真は前年の8月、「コップ」に向かう略奪点で撮影した滝沢スラブ、その迫力ある全景だ。じつはワタシは最初、イマイチ自信が持てなかった。というのも、晴れてはいなかったから。

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やはりこのルートが発散する圧迫感は、けっこう凄いものがある。ましてや登攀中に雨に降られたら地獄だからねえ。「南稜テラス」あたりでも、まだジクジク悩むワシに向かって「O」にハッパをかけられたもんだ。「そんなんだったら、一生攀れないッスよ?」と笑われつつ。「わかったわかった。やる!」、そうなった。いったん覚悟をキメたら、気分はラクになりました。

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通称「3スラ」とは、3ルートの継続登攀になる。「滝沢下部ダイレクト・ルート」「滝沢第3スラブ」「滝沢リッジ・ドーム壁」で、3本合わせると高低差は800㍍。スラブはフリーが主体とはいえ、前後の部分で「A1」の人工が連発する。たいして難しいピッチは無いが、ともかく長いルートだからスピードが第一。このときビバークの用意なんか、しなかったハズ。1日でやっつける予定。
おっと、その歴史にも触れておきましょう。「3スラ」の初登は、もちろん松本龍雄氏のパーティで、1958年10月。当時はボルト連打のダイレクト・ルートは存在せず、やっかいな「滝沢下部トラバース・ルート」経由だ。またドーム壁も登攀対象ではなく、松本氏らは冷雨に曝された立ちんぼビバークの後、小雪のちらつくBルンゼを登って終了している。
ところで「3スラ」を含めた滝沢スラブ一帯は、観光客が集う一ノ倉の出合からは、その姿がイマイチ見えない。見えるのは滝沢下部岩壁くらいなのだが、まあ、そんなところも「知るヒトぞ知る」ってなイメージというか、奥床しくて好きなのネ(w

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先行、後続パーティ共に無し。静かなもんだった。まずは「滝沢下部ダイレクト」に取り付く。この登攀では3名の「つるべ式」で攀ったんだっけか、イマイチ思い出せないが。サードでトップの登攀を見つめるという情景が記憶に多くあるからね。ココは垂直だがカブってはいないから、アブミの掛けかえも快調だ。

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いよいよ第3スラブへ。このルートで気をつけるべきは、ルート・ファインディング。ちょっと見誤ると身動き取れなくなるから、とはよく聞いたハナシだった。まあその。昔はクチコミ以外では、ルート図とこのガイドブック「谷川岳の岩場」しか資料が無かったからね。決行するときの「敷居」は高かったんだよ、ウン(w

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スラブ帯の半ば「F4」あたりでパラパラと小雨が降ってきた。ココは3スラの画像でドス黒く見える難しい場所だ。そのときは「F」がトップをしていたが、こんな場所で本降りになったら実際どうなる、などと心配したなあ。それからは持ちこたえてくれてラッキーだったが。
上部スラブ帯を攀り、じつはホントの核心部と言えなくもない200㍍に及ぶブヨブヨの「草付」をザイルを解いて登る。こんな確保支点ゼロでスリップされたら、3人ともお陀仏になるからですネ。このとき5㍍ほど先を行くトップの「F」がコブシ大のラクを出して、ワシのメットに炸裂。「おんどりゃあ、気ィつけろ!」。命が死ぬではないか(w

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ドーム壁の基部に着いたのは、はたして何時ころだったか。とっくに午後だったハズ。やはり上半身に疲れは溜まっている。出だしのⅣ・A1のピッチでアブミを引きつける動作がシンドかったからだ。長い継続登攀の最後をピリリとシメる、楽しいドーム壁のその先の記憶は残っていない。「ドームの頭」で登攀終了の握手をかわしただろうが、それも覚えていないのは、ちょいと悲しい(w 
国境稜線に出て、西黒尾根からガンゴー新道を下ってメンバーが集うBCに帰り着いたのは、とっくに日暮れてエレキを灯しながらだったハズだ。「やった…」。こんなレベルの岩登りなんですけどネ、自分にとっては長いこと目標にしていたコトを成し遂げたワケで、その安堵感は大らかにワタシを包みこんだ。これで「卒業」できる、しみじみとそう思った。

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「3スラ」をやった翌週、ナゼか知らんが再び谷川のBCに入った。新人部員の初めての本チャン体験、「南稜」の岩登り実地指導だったのかも知れない。
6月中旬過ぎなのだが、まだ梅雨空ではなく、曇り。そしてワタシは2年の「O2」と再びザイルを結び、一ノ倉の「烏帽子沢奥壁・中央カンテ・ルート」を攀っている。
コレはちょうど良い難しさのロング・ルートで、ワシらは「つるべ」で、二人ともオールフリーで快調に攀りきった。ルート図に書きこんでいるように中盤の様子が崩壊によってサマ変わりし、「Ⅴ」くらいになっていたようだが、それくらい楽勝。このときは部で一ノ倉に4パーティくらい取り付いていたんだっけか。楽しい思い出だ。これが、ワタシにとって現役時代の最後の1本になったからね。

【それから】
時が流れ、この2年後のこと。やめときゃイイのにワタシは「一の倉沢」へ再び戻って来た。社会人になった翌年の6月、だったか。
会社の山岳サークルに入部して、丹沢や奥秩父の沢登りとかキャンプといった軽い「レクリエーション」は続けていた。そしてその年のゴールデンウィークには、「S」(山岳部同期だが、ナゼか岩では一緒にならなかった)と初めてザイルを組んで残雪の「前穂・北尾根」を登攀し、ふたたびイロケを出し始めてもいたのです。

そのときは3年ぶり2回目となる「エボシ奥壁・変形チムニー」ルートを、ワタシが鍛えた「O」(彼も4年生になっていた)に連れて行ってもらったんです(w ええ。もちろんワシがオール・セカンドで。たまに「ひええっ」とか「しょっぺーなー」とか「もっとザイル、張ってくれ!」とか叫びながら(汁 すっかり憑きモノが落ちていたワタシにとって、それはもう、チビリそうな体験ではあった。

そうして、部員の誰かのクルマで送り帰してもらったその翌朝、ワタシはベッドから起き上がれなくなっていた。比喩ではない。実際にそういう事態で、それまで経験したコトのない電撃的な痛みがカラダを走る。アブラ汗をたらしながら、ようやく腰が痛いのだと理解した。フシギなのは、眠っていたときにはその痛みで目が覚めなかったコト。寝返りを打つような「ひねり」が少しでも入れば容赦なく電撃されたハズなのに、いったい何だ。身じろぎしないくらい熟睡していたというワケなのかネ。
それにしても、上向きに寝た姿勢から「よいしょ」と起き上がる所作ってのが、じつはタイヘンな重労働なんだと思い知らされた(w 片腕をソロリソロリと引きつけ、手首を返しながら体重移動して横向きになる。電気が走らぬよう、えらく慎重に動いてベッドの端に腰かけられたのは5分後くらいだったろうか。壁に手をつきつつ、それでも何度か激痛に悶絶しながらジリジリと階下に降りて母に泣きながら事態を告げるまでに、さらに5分はかかったような(汁

整形外科にかかって「椎間板ヘルニヤ」なんつー恐ろしげな病名を告げられたとき、ワタシはいろいろなコトを諦めた。まあ、登山が直截の原因なのだから、もうムリはできないなあ、ワシのボデーって頑丈では無かったんだなとか、今後はゴルフだけはやらないだろう、とかネ。
この翌月、夏休みを沖縄に遊んだ。残雪の前穂北尾根をやった「S」とふたりで、オープンしたばかりの「万座ビーチリゾート」なんつーナウいホテルでねーちゃんをナンパしつつ、なんと言いましょうか、妙にストイックだった学生時代とは違う軽やかで楽しい世界にアシを踏み入れていったワケです。

ワタシの若きロック・デイズは、こうして終わったのだ。


◆過去の山登りの個人的体験談を述べるものは、これで終わりです。
たいした体験ではないクセして、当時の世相を加味したり、思いきりカッコつけました。わはは。
この程度の登山歴なんざハナで笑っちゃう「山ヤ」なんかゴロゴロいらっしゃるとは思うんですが、しかし。
ネットで見られる登山記録を広く読んできましたが、こういう「くくりかた」での記事は無かった。
まあ、ちょっとは珍しいスタイルの昔バナシと言えるのではと考えます。
長いあいだ、ご愛読サンクスでした。

◆おことわり
文中で、登攀ルートのレポート記事をいくつも貼らせていただいています。当時の山での写真がごく少ないこと、やはりルート上の写真が豊富だとワタシのつまらぬ文章を分かりやすくしてくれることから、とくに優れると思った記事を、参考として引用しました。ご理解いただけましたら幸いです。


元「山ヤ」の体験談CM:10
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コメント

出合いにあったあの暗い小屋に10日間も泊まっていたんですか、冬に何度か泊まったけどあまり長居したい小屋じゃなかったなぁ。

 ヘルニアで山を止めましたか、僕は怪我でした。と言っても指先をカッターで切っただけですけどね。当初は1ヶ月ぐらいは岩はできないなと思っていたんですが、そのまま岩も山もなんとなく止めてしまいました。
 最も続けていたら数年で会社を辞め海外に登りに行って、今と全く違っていたでしょうけどね。(笑)
IK #-|2010/03/15(月) 17:57 [ 編集 ]

>IKさん
いえいえ。アレではないです。あんな場所に数日も暮らしたら、ワシだって、どーかなっちゃいますよ(w
知る人ぞ知る、非営業の。人定されるんで、いつか別の機会に。
といっても当時の関係者が「たまたま」ココを見たら、イッパツでしょうけどネ。

山に人生を捧げられるか。
そう自問して、なんというか、ぼくはそこまで密接にはできないと思いました。
山は遊ぶところで、それで食っていくのはマッタク無理だとあきらめもしました。

そして別のバカなことをしたくなって、社会人になって2年目にバイクの中免を取って、峠を走り始めたんです。
ラード #-|2010/03/15(月) 21:10 [ 編集 ]

山で生きようなんては思わなかったけど、当時登りたかったいくつかの山の1つぐらいは行きたかったですね。
 ただ仕事辞めて山に行っていたらその後逝っていたかも(笑)

  それにしてもマッチ箱のコルが崩壊したのは知っていたけど、穂高や谷川などあちこちで崩れて登れなくなったりルートが変わったりしているんですね~。そのうち烏帽子岩とか滝谷ドームとか崩壊して。
IK #-|2010/03/17(水) 06:57 [ 編集 ]

>IKさん
一ノ倉のエボシ岩も、滝谷ドームも、屏風の扇岩なんてのも、そのうち自然の摂理で崩落するんでしょうね。

あらためて考えると、本チャン登攀ってのは冒険でしたね。

ひとつ前の記事で、屏風の「1ルンゼ」の最近の記録が見当たらないという件…。
昔のイワユキを漁っていたら、昭和末期に、ハンパじゃない落石死亡事故が起きていたのを知りました。
やっぱ、「アルパイン」は冒険ですね。
ラード #-|2010/03/17(水) 11:29 [ 編集 ]

おぉ、ラードさんもあちこち行かれているんですね。
ここら馬蹄形のお山をいくと、避難小屋がすごくて、
とても泊まる気分にはなれませんでしたです。
泊まりましたけど・・・ヽ(o´д`o)ノ
ラードさんもオイラと同じで今やったら、
間違いなく落ちるんでしょうね。オイラもですけど。
この体型というか、IKさんみたいに鍛え上げないと・・・もう遅いか。(泣)

茶柱 #CfB1IDoA|2010/03/18(木) 22:45 [ 編集 ]

>茶柱さん
もう遅い、ですねえ(泣

というワケで、すべて過去形。
過去の「プチ」栄光(w
でも、やれるうちにやり尽くしたから、満足してます。

こういったオモシロ過去ネタ、茶柱さんにも、ぜひ書いてもらいたいです。
ラード #-|2010/03/19(金) 02:05 [ 編集 ]

一段落し、復活!

にしても、熱き時代を思い出させてくれる記事ですね~!

緑や同志会・・・南陵フランケ・・・フリー化。この頃は日々の進化にわくわくしっぱなしでした。いま思えば、こういう転換期に山岳部だったというのは、たぶんものすごくラッキーなことだったと実感してます^^
ユウ #2DdjN05.|2010/04/02(金) 10:50 [ 編集 ]

>ユウさん
IKさんにもコメントしましたが、コレを「オッサンホイホイ」とゆーのです(w
ココに出てくるネタをサカナにして、想い出バナシにふけってもらいないなあ、なんちゃって。

まあその。こういう時系列で時代を切りとった山行記録ってのがなかったので、気合いをいれてまとめました。そして燃え尽きて、もう新たな記事を書くガッツがなくなっちゃった、という(w
ラード #-|2010/04/02(金) 13:23 [ 編集 ]

この記事に刺激されて山行記録ないかなぁ・・と探したところ、学生時代の山岳部の会報誌が出てきましたよ~!! しっかりとくだらないことまで記録されてますww あと、問題は写真。山岳部に保管されているはずなので、後日OBヅラして母校を訪ねてみようと思ってます、フフフ
ユウ #2DdjN05.|2010/04/02(金) 19:41 [ 編集 ]

>ユウさん
お。昔の山行記録を蔵出ししますか。
どんなスタイルでくくるのか、お手並み拝見です♪

まあ、ナニが悲しいって、昔の写真があまりに少ないコト。
行動中のものはヨシとしても、フラッシュ付きのカメラを誰も持ってなかったから、天幕内のがマッタク存在しないんですよね。
あのころ、「写るンです」が商品化されてたらなあ、と悔やまれますね。
ラード #-|2010/04/02(金) 22:00 [ 編集 ]
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